ふくちゃんのパズル
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江戸時代のセリの様子
お江戸も次第に大きくなってまいりますと、お魚の需要も増大してまいります。
市場全体の売上もまた増えて結構なこととなりますが、何しろ限られた地域に小さな問屋がひしめいているのが魚河岸。
売上は上がってもおいそれと商売の規模を拡大するわけにはまいりませんでした。
そんなとき魚問屋たちはどのように対処したのでしょうか。
たとえば前回登場した大和屋助五郎にように、大規模な経営で独占体制をきずき、一業者としての規模を拡大していく者もありました。
また、自分の系列下に問屋を新設するという方法をとった者もおります。いわゆる「暖簾分け」ですね。問屋数の増加によってさらに需要は増大し、魚河岸も拡大していく循環が生まれます。
けれど、多くの魚問屋にしてみれば、独占企業となるほどの銭はありませんし、いくら「暖簾分け」した孫店といえども、自らの集荷力を分散することともなり、かんばしくありません。
そこで問屋が自分の集荷の権利を手離さずに商売を拡大させる名案としてうまれたのが、
「請下(うけした)」と呼ばれる仲買人を雇用することでした。
請下とは問屋が請人(保証人)となって小売商などに魚を売ったことから、そう呼ばれたのですが、それまで魚問屋といえば「問屋兼仲買」であり、問屋業務のなかに仲買行為が含まれているものでしたが、これを分業とすることで商売の効率化が生まれてきます。
仲買人というと現在の中央卸売市場の仲卸の前身かと思われがちですが、それは必ずしも正しくないように思われます。
現行の卸売市場法における卸の集荷機能、仲卸の分化・評価機能という役割分担が公平公正の市場原則にのっとったものであるのに対し、初期の請下(仲買人)はあくまでも荷物の「下売り」がその使命であって、魚問屋とは従属関係にあるからです。
かれらは毎朝、問屋から魚をもらい、これを自分の器量で売りさばきます。その後、河岸引けに問屋が集まって、その日の相場によって魚の値を決めるのですが、その言い値よりも自分の売り値が高ければ儲けとなります。
もしも言い値が高ければ問屋に掛け合って値切ることもでき、自分の裁量次第でどうともなる商売ではありました。
はじめは問屋の従属機関であった請下が、商売として成り立ってくるようになると、次第に問屋から独立していき、仲買専業の店が生まれる土壌ができていきます。
そして魚河岸を形成する重要な役割を担うことになっていくのでございます。
あいもの【合物】
塩を合えるという意味で、保存のために塩をあたえる魚を扱う業者を指す。
干物を扱う業者を塩干物(えんかんぶつ)、一夜干のような“半生”を扱う業者を合物といったりする。
あいもの【相物】
魚屋のこと。
中世の教科書 「庭訓往来」に、鎌倉で絹、炭、米、檜物、千朶櫃、相物、馬商という七つの問屋が繁盛したと書かれている。
このうちの相物というのが今の魚屋にあたるといわれる。
東京で魚屋の屋号に「魚」という字をつけるのを、地方では「相」と称するのはその名残り。

広重画・『名所江戸百景 永代橋佃しま』
摂津の漁師団である森孫右衛門らが家康と共に江戸に出てきて、江戸向島、のちの佃島を拝領して漁業を営み、幕府に魚を献上した残りを市中に売ったというのが魚河岸のはじまりといわれております。
このとき江戸向島に移り住んだという漁師たちは、同じ森一族でありながら魚河岸をはじめた者たちとは別のグループです。
かれら漁師のその後の消息について魚河岸の正史である『日本橋魚市場沿革紀要』には詳しい記述がありません。
果たして魚河岸とは無関係の道を歩んだのでありましょうか?
『江戸名所図会』の佃島の由来には森一族の記述があり、江戸へ出てからのかれらの行動が記されております。
これによると、大坂の陣で家康に仕えた後、漁師三十四人が江戸に呼ばれ、小網町の安藤対馬守の屋敷をはじめ、小石川網干町、難波町(のちの日本橋浪花町)などの屋敷町に分宿し、漁業を営む一方で海上偵察の任にあたり、その様子を安藤対馬守に報告しておりました。
そして慶長十八年(1613年)、江戸湾での漁業の特権を得たとございます。
この特権というのが江戸近辺の海川なら自由に操業して良いというお墨付きで、佃の名主のもとに明治の頃まで大切に保管されていたといいます。
江戸近辺ならどこでもとは大変な約束ですな。
同じような話に青山忠成という人が家康から一頭の老馬を与えられたのち、この馬が倒れるまで一日乗り回しただけの土地を与えようという約束をもらったといいます。
これが現在の港区青山の由来というのですが、江戸のはじめにはこうした大盤振る舞いの言い伝えをよくききます。
佃の漁民もお墨付きをもらったとはいえ、本当に江戸湊全体を手にしたわけではございません。そこには昔ながらの在住漁民がいまして、かれらとの間でトラブルもあり、かなりの緊張状態も生まれたといいますな。
さて、江戸の在住漁民たちの漁法というのは四つ手網や一本釣りといった原始的なものであったのに対しまして、森一族らは地獄網と呼ばれる大量漁獲法を持っておりました。
これは比較にならない漁獲高を上げましたから、幕府献上の残余を市中に売買することを可能にもするわけでございます。
当時の世相を記録した『慶長見聞集』には、この地獄網の威力とともに、それによる資源枯渇の危惧を「この地獄網にて取り尽くしぬれば、いまは十の物一つもなし」と書かれております。

日本橋際の乙姫さまの像
漁業の特権を得た森一族は「白魚漁」を専業として幕府の御膳魚の調達をするようになります。
これには面白い逸話がありまして、江戸近辺に網を引くことを許された当時、ある日のこと雪のように白い小魚が網にかかりました。
漁師たちがまだ見たこともない魚で、何と頭のところに葵の紋が浮かび上がっております。葵は徳川家のしるしなので大騒ぎし、さっそくこれを献上いたしましたところ、家康公はこの魚をよく知っております。
これは白魚といい、生国三河にある頃、浜の漁民が余の食膳に供したものである。
江戸の地でこの魚を見ることができたのはまことに目出度いことだ、と大喜びいたします。
これは白魚を価値づけるための伝説でございましょうが、実は白魚という魚は江戸にはもともとなく、家康入国の際に誰かが三河から持ってきて浅草川(隅田川)に流したものだとも言われております。
そのために将軍家献上以外は獲ってはいけない「御止魚」となり、永らく佃島漁師の独占となったのでございます。
寛永七年(1630年)向井将藍が海賊奉行に就任し、海賊橋際に将藍屋敷をつくり海上警護にあたることとなりました。
すると、漁民に江戸湊の偵察にあたらせるのも不都合ということで、かれらに鉄砲洲干潟百間四方を与えて、そこで漁業に専業させることとしました。
森一族は江戸湾入江に位置するその干潟が故郷の佃村にそっくりだということで、佃島と名づけて造成工事に着手します。
それから実に十五年もの歳月をかけて築造は続き、正保元年(1644年)にようやく佃島は完成をみます。ですから佃島を拝領したといっても、実際はそんな簡単なことではなく、漁民たちは測量、土木、建築などの専門的工事を自力で行うという、まことに大変な努力をして自らの土地を築いたのでございますな。
それは現在でいえば都市プランナーにあたり、特殊な技術力と計画性を有しておったわけで、それが明暦の大火で焼失した西本願寺の再建をやってのけることになります。
さて、現在の築地市場に隣接する築地六、七丁目にあたる地域の旧い町名を南小田原町といいます。
日本橋魚河岸が最初につくられた本小田原町は、江戸城普請の際に、小田原の石工たちの石揚場があったことからついた名で、これが慶長末に築地に移ったために、日本橋の方を本小田原町、築地を南小田原町と呼ぶことになったといいます。
ところが本小田原町には荷揚げのための河岸はないことから、そこが本当に石揚場だったかも疑わしく、鎌倉河岸あたりに石揚場があって、本小田原町には石工たちの住居があったのではないか、という説もございます。
ということは南小田原町には本小田原町から移ってきた石工たちの拝領地があったはずですが、慶長の頃、あるいは少し下って元和年間(1615~1624年)としてみても、築地辺の埋立ては行われておらず、海川あるいは干潟のような状態だったといいます。
果たしてそんな土地を拝領したのか、また、南小田原町をひらいたのが石工だったのか、はなはだ疑問になります。
南小田原町が石工移住によるものとするこの定説に対して、京橋区史はその由来を「寛文四年(1664年)小田原町の魚問屋たちが官許によってその地に市街を立てたから」としております。
もしもこの説をとるなら、南小田原町は魚河岸の問屋によって開かれた土地であり、町名もその際につけられたとみることができます。

初期の魚市場
現在の築地市場に隣接する旧町名の南小田原町は魚河岸の問屋による、まさに先行投資によってつくられた市街地ではないかと考えることができます。
『日本橋魚河岸沿革紀要』の安政五年(1858年)文書には、肴役所より魚河岸に「魚問屋どもは南小田原町に住んでいたことがあるのか」と尋問するのに対し、魚河岸側は「旧記にてすでに焼失してしまい」云々としどろもどろに答えているのが記録されております。
実は同書に魚問屋が四千両を上納し、寛文四年五月十六日、南小田原町に屋敷地を賜ったという記述がございまして、何ゆえに市街も何もない湿地帯であった当時の南小田原町を大枚四千両も払って獲得したのか不明ながらも、築地はもともと魚問屋によって開かれた土地であることになります。
実はそこには、明暦の大火(1657年)後に本願寺が浅草横山町から現在の築地へ移転してきたことが前提となりました。
大火で焼失した本願寺は同地に再建することが許されず、替地として"八丁堀の海上"を下附されることとなりましたが、その際に建立を行ったのが佃島の漁師たちでした。
日頃より同寺を信仰するかれらは浅瀬に土地を築き、自力で築地御坊を開いたのでございます。
佃島がかれら自身の手でよって十五年間もの期間をかけて造成された土地であることはすでに述べましたが、そこで培われたノウハウ、さらに信仰心の力によって本願寺の建立工事は行われ、明暦の大火から数えて十九年後の延宝元年(1673年)に完成をみます。そもそも築地の地名は佃島漁師たちが本願寺建立のために築いた埋立地として称されたものなのです。
魚問屋が四千両と引き換えに南小田原町を拝領したという寛文四年は、本願寺建立工事の真っ只中にありました。本願寺の隣接地域の裏手にあたる同町もまた、技術者集団である佃島漁師らによって造成することを見越していたことでしょう。本願寺と南小田原町の造成はセットものとして、魚河岸にとってはあらま欲しきものでありました。そこがどれほどの利益を生み出したものかは不明でありますが。
のちの江戸図をみると、文化図(1813年)には南小田原丁、肴丁とあり、文久図(1861年)にも南小田原町に魚店と記されております。
そこに何らかの魚販売が行われていた形跡もみることができます。
これは天保の改革によって問屋組織が解体していくなかで、日本橋魚河岸は唯一存続を認められることとなりましたが、それまで仕切金によって縛りつけてきた周辺の漁師たちにあらたな開市の機会を与えることなり、深川市場と共にあらたにつくられた江戸時代の築地市場にあたります。
この創始者である松田松五郎は隅田川で白魚漁を営んでおり、江戸移住以来、佃の漁師たちと再三にわたる紛争をくりひろげてきたその一方の旗頭なのですが、さて、大枚四千両の結果がこのようなものになるにはどのような経緯があったのでしょうか。
まったくの疑問でございます。
四千両上納は本願寺建立による築地一帯の沽券高の高騰をみての先行投資という面は確かにあったかもしれませんが、前後の状況からみると、むしろ打算的な思惑以外の理由もあったのではないでしょうか。
長年の労苦によって開発した島を故郷佃村を連想させることから佃島と名づけ、さらに信仰となる御坊を自らの力によって築いたことで、その寺社地と佃島を結ぶ地域である南小田原町はお金には換えられない土地とみたのではないかということでございます。
表裏一体の関係にある魚河岸と佃島漁師にとって築地一帯は自らのルーツをとどめる聖地の意味を持ってはいなかったでしょうか。
思えば関東大震災後、魚河岸が中央卸売市場として南小田原町の隣接地に移転してくるのも、偶然とはいえ、魚河岸の起源に密接な関係を持つ同地であれば、まことに因縁めいたものすら感じてしまうのでございます。
「おい、ボウズ。野球が好きだろ」
そう言って近所のおっちゃんが巨人戦の切符をくれた。
もう30年も昔のことだ――
ふん、巨人なんて城之内を追ん出したときに見かぎってらあ。
重要なのは対戦チームがだよ、わがヤクルトスワローズじゃないか。
まあ、いつものとおりBクラスは夏に決定してるし、消化試合みたいなもんだが、
指おり数えてみるとだね、今日はあこがれの安田投手の登板かもしれんぞ。
こりゃ、確かに見のがせない試合だ。
それに後楽園球場へ行くんなら、地下鉄丸の内線の赤い電車に乗れる。
あれに乗っかると、東京見物に出かけるみたいでウキウキするんだよね。
まあ、ぼくの住んでるところだって東京にはちがいないんだけどさ。
とにかく今日はザリガニ釣りなんてしないで、赤い電車で東京へくり出そうってわけ。
もちろん先頭車両のいちばん前で運転席をのぞき見するに決まってんじゃん。
電車の運転席なら地下鉄が最高だよ。通だったらね。きっとみんなそう言うよ。
「ちょっと窓に顔ベッタリつけるの、よしなさいよ。はずかしいわネ」
うるさいなあ。姉キ風ふかせちゃってさ。
オンナなんかてんでわかってねえんだからな、地下鉄ってものがさ。
「おい、坊や」
電車が駅にとまると、急に運転手の人がおりてきて、ドアごしにぼくを呼んだ。
「ほうら、怒られた!」
なんだよ姉ちゃん、別にオレ悪いことしてないよ・・・・・・あれ? なんか手まねきしてる。
ぼくは本当にびっくりしちゃったよ。
だって、その人、ニッコリと笑って、ぼくを運転席に入れてくれたんだ。
「あんまり熱心に見ているからさ」
制服を着た運転手さんは、とても大人の人に見えるけど、
帽子の下はカッコイイお兄さんだった。ちょっと、モリタケンサクに似たかんじのね。
それでぼくはよけいドキドキしちゃったな。
「でも、さわっちゃダメだよ。そこに立っててね。それからこのことは秘密だから」
もちろんさ!
「スワローズの帽子だね。後楽園へナイター見に行くの? 今日は安田かな?」
もしかしてモリタさんもヤクルトファン!?
「こんなことはまるで奇跡だよ! 世のなか広しといえども、電車の運転席に入ったのは
このぼくだけだからな! 本当に奇跡だよ。きっと試合でもスゴイことが起きるよ!」
ぼくは姉キをひきつれて三塁側指定席の階段をのぼりながら、高らかに言ったもんだ。
ことばって力をもってるのかなあ。
試合は7回を終わった時点で、巨人のアウトの数が21、ヒットは0。
つまりさ、安田投手のノーヒットノーランまで、あと6人ってことさ。
本当に奇跡が起こるかもしれない。
奇跡は、起きなかった。
8回ウラ、高田選手への7球目が微妙な判定でフォアボールとされると、
続く王選手への2球目。お得意のスローカーブはゆっくりと山をえがくように
ライトスタンドへほうりこまれていった。
それで糸が切れたのか、出てくるピッチャーが次々と打ちこまれ、
終わってみれば11-2。
11-2だよ! ノーヒットノーランの試合がさ。
現実ってのはツマラナイもんだよね。
「だからよしなさいって! 窓に顔をつけないでって言ってるでしょ!」
そりゃ、たびたび起こらないから奇跡っていうんだろうけどさ。
でも、ついさっきまで、一生に一度見られるかどうかって試合にいたんだ。
ほんとに、なんてあっけないんだろう・・・・・・あー、それにしても、また運転席に入りたいなあ。
さっきの時間にもどらないかなあ。
ガンッ!!
「何で頭突きしてるのよ! いいかげんにしないともうアンタをつれて来ないからね!」
電車が急に速度をゆるめたもんだから、運転席の窓ガラスに顔をくっつけていたぼくは
イヤってほどオデコをぶっつけちまったんだ。
なんかチカチカするよ。目から星がでるってこういうことだな。
窓にキラキラ星がうつってる。で、その向こうでだれかわらってるよ・・・・・・
モリタさんだ!?
すごいよ、信じられない。また会えるなんて!
モリタさんは窓ごしに、指をクルリと回して、ホームに出てから運転席へくるように合図した。
やったーっ! 特等席だーっ!
つねづね、ぼくはマンガ家になるか電車の運転手になるかまよっていたんだが、
今日のこの出来事で、だんぜん運転手になることに気持ちがかたむいたね。
小さな計器がグルグル回ってる。これ何ですか、ってほんとは聞きたいんだけど、
運転中のモリタさんに話しかけるわけにはいかない。
でも、電車がとまるたびに、モリタさんはぼくと話をしてくれた。
「すごいじゃない。そりゃイイ試合だったね」
でも、最後はメチャクチャですよ。ほんとに力がぬけちゃった。
「まあ、野球だからね・・・・・・でもいいんじゃないかなあ。
7回までのノーヒットノーラン。それだって、きっと良い思い出になるにちがいないよ」
そうかもしれない・・・・・・
忘れられない一日。
7回裏の試合、いつまでも終点につかない電車。
自分で勝手に止めた時間は、30年たっても、いつも待っていてくれる気がする。

魚河岸の賑わい(江戸中期)
「おくのほそ道」で知られる俳人松尾芭蕉は、寛文十二年(1672年)江戸に下りまして、日本橋本小田原町の魚問屋の二階に草鞋を脱ぎました。
その前年、芭蕉は初の著作「貝おほひ」を著し、意気軒昂として東下の旅に出たわけでございますが、その時芭蕉29歳。
独自の蕉風俳諧を確立して、いわゆる「わび」「さび」の境地にいたるのはまだまだ先のこと。
いわば試行錯誤にあった若き日々を日本橋魚河岸で過ごすことになったのでございます。
「これはまあ、何と賑わしいことか」
芭蕉は早朝のまどろみを破る魚河岸の喧騒にきっと面食らったことでしょう。
鎌倉を生きて出でけん初鰹
これは魚河岸の繁盛と初鰹の景気を詠んだ気持の良い句です。
荒っぽいくらいの活気も好ましく感じていたのでしょうか。
杉風を通じて由縁をもった魚河岸は、芭蕉にとっては馴染み深い土地であったようでございます。
芭蕉が身を寄せていた魚問屋というのは、北村季吟の同門下だった小沢仙風の俳号を持つ鯉問屋、杉山賢水宅でした。
そして賢水の長男にあたる杉風(さんぷう)こそが、芭蕉がまだ有名にならない前からの支持者であり、芭蕉十哲のひとりとして名をはせた杉山杉風(すぎやまさんぷう)その人です。
杉風は師に対して経済的な援助を通じて、スポンサー的役割も果たし、のちの蕉風俳諧を築いていく上での最大功労者といわれています。
杉風の家業は鯉問屋。その頃、鯉問屋というのは魚河岸では特別の存在で、たいへんに羽振りが良かったことが芭蕉への庇護を可能にしたのでしょう。
鯉屋では鯉を囲っておくための生簀を深川に二ヶ所持っていたといいますが、そこにあった番小屋を改造したのが芭蕉庵であり、その名も生簀に植わっていた芭蕉からつけられました。
古池や蛙飛び込む水の音
この有名な句はまさに芭蕉庵で詠まれたといいます。
しかし、やがて別れの時がやってきます。
芭蕉は想い出深い江戸の地をあとにして、北へ向かいます。
「おくのほそ道」への旅立ちです。
この旅立ちに際して、芭蕉が杉風に送ったといわれる句があります。
ゆく春や鳥啼き魚の目はなみだ
元禄二年(1689年)三月二十七日、芭蕉庵を出てから舟で隅田川をさかのぼり、千住で送別の人たちと別れたといいます。
そのときに芭蕉は長年世話になった杉風に対してこの句を詠みました。
杉風は芭蕉の北行にあたって、春先の寒さを案じ、その出発をとどめたといいます。
互いのあたたかい心の通じ合いが、旅立ちにあたってこのような留別の句を詠ませたのでしょう。
あるいは魚という一文字には、自らが魚河岸で過ごした若き日への決別の念がこめられているのかもしれません。

河岸の旦那
芭蕉の門下で有名な杉山杉風(すぎやまさんぷう)は、正保四年(1647年)幕府鯉納入御用問屋の長男として生まれました。
ちなみに芭蕉は杉風より三歳長じる正保元年(1644年)の生まれです。
通称鯉屋市兵衛、藤左衛門、または鯉屋杉風と称し、寶井其角、服部嵐雪とともに芭蕉門下の代表的俳人で、流行を追わない着実な作風は、人柄とともに芭蕉のもっとも信頼のおく門人でした。
頑なに月見るやなほ耳遠し
影ふた夜たらぬ程見る月夜かな
年のくれ破れ袴の幾くだり
がつくりとぬけ初る歯や秋の風
最初の句にもみられるように 杉風は聾者で耳がひどく遠かったといいます。
同門で粋で鳴らせた其角(きかく)は、杉風は耳が聞こえぬから世間に遅れている、などと揶揄しましたが、すると芭蕉はひどく機嫌を損ねたといいます。
芭蕉は杉風の心情を察して生涯にわたって聾者のことを句にしませんでした。
また、杉風は俳諧以外にも絵画を狩野派に学び、その筆致はきわめて写実的。
かれの手になる「芭蕉像」は多くの肖像のなかでも最も信頼されるもので、のちに大英博覧会にも出品されました。
貞享四年(1687年)の「生類憐れみの令」では、魚鳥類の畜養売買禁止となり、これには大きな痛手を受けたといいますが、総じて温和で豊かな生涯であったようです。
享保十七年(1732年)八十三歳で死去。
遺骨は築地本願寺内の成勝寺に納められますが、同地は関東大震災の被災により、現在は世田谷区宮坂の伏見山成勝寺にあります。
また、杉風の子孫である山口家は、栃木県の倭町で創業百年を越える老舗「ホテル鯉保」を開いており、同家の長女が女優の山口智子さんであるということです。
最後に杉風と師芭蕉とのこまやかな心情のやりとりを伝えるものとして、芭蕉が杉風に送った遺書をご紹介したいと思います。
「杉風へ申し候。久々厚志、死後迄忘れ難く存じ候。
不慮なる所にて相果て、御暇乞ひ致さざる段、互ひに存念、是非なき事に存じ候。
弥俳諧御勉め候ひて、老後の御楽しみになさるべく候」
杉風に申します。
長い間親切な志をたまわりましたことを死んでも忘れません。
思いがけない所で命果てることとなり、お別れを伝えに行けないことが、
互いに心残りですが、仕方のないことだと思っています。
あなたはこれからも俳諧に力を入れて、老後の楽しみになさってください。
白分がふたりいますが、
となりはニセモノです
おや?
なぜ、熔けますか
ロデムですか
またニセモノがでました。
おおきいのと、ちいさいのです。
あ、また熔けますか
ヒューヒュー、ポーポーですか
ヒューヒュー「ギュギュギュ・ギュギュギュ・・・」
ポーポー 「キュキュキュ・キュキュキュ・・・」

杉山杉風と並ぶ芭蕉の代表的門人に寶井其角(たからいきかく)がいます。
かれもまた魚河岸生まれの生っ粋の江戸っ子俳人です。
鐘ひとつ売れぬ日はなし江戸の春
夕涼みよくぞ男に生まれける
わが雪と思えばよろし傘の上
名月や畳の上に松の影
越後屋にきぬさく音や更衣
其角の作風は軽妙で庶民的な江戸情緒をたたえたものが多く、師芭蕉の枯淡な風情といかにも相容れないものでございましたが、
師匠はその洒脱な妙味を愛したといいます。
洒落者、其角には親しみ深い句と共に、数々のエピソードがあります。
たとえば雨乞いの話。これは元禄六年(1693年)の夏のことです。
其角が門人と三囲神社に参詣したおり、土地の農民らが集って雨乞いの祈願をしておりました。
その頃、其角は坊主頭をしていたのですが、それを見つけた農民たちが、
「これは和尚様、よいところへいらっしゃいました。私共は長く日照り続きで困っております。ぜひ雨乞いの妙法を唱えてください」
などと言ってきましたから、其角は驚いて、
「あたくしは坊主じゃなくて、ただの俳人なんですヨ」と断ります。
「まあ、それでも構いませんから」
とにかく頼みこまれた其角は、仕方なく開き直って、もうどうにでもなれと一句詠みました。
夕立や田を三囲の神ならば
すると俳句が天に通じたものか、一天にわかにかき曇り、大粒の雨がポタリポタリと落ちてくるではありませんか。農民たちはそれは大喜び。
その脇で雨にしとどに濡れながら、其角たちは狐にでもつままれた心持ちだったといいます。
また、講談などでも有名な赤穂浪士討ち入りの前夜、大高源吾との両国橋での別れがございます。
時は元禄十五年(1702)十二月十三日、舞台は江都両国橋。
其角が橋詰にかかると、向こうからやってくるみすぼらしい笹売りにふと足をとめました、
「お前は子葉ではないか」
はっと上げたその顔はまさしく其角の俳句の弟子である大高子葉こと源吾。
はて、その格好はさても困窮してのことであろうと察し、それには触れないで様々な世間話などした後、別れ際に其角が
年の瀬や水の流れと人の身は
と上の句を詠みますと、源吾がただちに
あした待たるるその宝舟
と返しました。
其角は源吾の身を哀れんだの対して「その宝舟」とつけたその真意を知らず、きっとどこかへ仕官でもしたいのだろう、などと勝手な解釈をいたしました。
その翌日、其角は赤穂浪士討入りの報せを受けます。
あの笹売りの姿こそ吉良邸密偵のために源吾が身をやつしたものだったのです。
其角は己の無知を大いに恥じたといいます。
翌元禄十六年二月四日、鶯の鳴くしずかな春の日。
大石良雄以下四十六名の赤穂浪士は自刃します。
家で一杯飲っていた其角は、この突然の報に、
うぐいすに此芥子酢はなみだかな
と詠み、はらはらと涙を落としました。
其角四十歳のことです。

「おい、三宅島の荷は着いてねえか」
まだ明けやらぬ本船町の河岸揚、先刻から大声で呼ぶのは河岸の俳人、其角でございます。
「へえ、どうかあちらの親方に聞いておくんなせえ」
小揚の若い衆にうながされて、しぶしぶ問屋の店内に入ってゆくと、小僧に向かって
「旦那はいるかえ、いねえ? なら番頭でも良い。ちょいと取り継いでくれ」
すると、すぐに奥から番頭が飛んでまいりまして。
「これは榎本の旦那、こんなところまでご足労いただきまして面目ございません。
どうにも私共の若い衆が気がつきませんもので、へえ、三宅の荷なら着いてございます。
旦那がいらっしゃると思い、別にこちらに分けてございます」
其角はすぐに荷を開けさせると、狂ったように中を引っ掻き回しはじめました。
しばらくすると中から「くさや」のひと包みをつかみ出し、「おお、無事であったか」と歓喜の声をあげるのです。
其角が大切そうに手にしている「くさや」の包み。
それは江戸中期を代表する町絵師、英一蝶(はなぶさいっちょう)からのものでした。
其角最愛の友、英一蝶は、俳句の弟子であり、同時に絵の師匠として、ふたりは長く親交を続けてまいりましたが、
一蝶が「朝妻船」という絵で、時の権力に追随して立身した柳沢吉保が、自分の娘を将軍綱吉の側室にしたことを風刺的に描いたため、
これがお上の怒りにふれ、三宅島に遠島となってしまったのです。
一蝶は永代橋の別れ際、親友の其角にこう言いました。
「三宅島での無事の知らせに、特別の印をつけた「くさや」の包みを送るから、それがある限り自分は健在と思え」
それからというもの其角は毎朝魚河岸を訪れては、
「おい、島の荷はまだ着いてないか」とあたりかまわずに大声で呼ぶのを日課といたしました。
其角は一蝶の身を心配しながらも、一方では反骨精神のために三宅島に流されてしまった友にひき比べ、
時勢をうたいながら世を渡ってきた自分に対する嫌悪を感じておりました。
世間で囃されるように自分は幇間俳諧師なのだ、そんな自嘲的な思いが沸き上がってきて、えもいわれぬ淋しさに襲われるのでした。
英一蝶が江戸に戻ったのは、それから十数年後。
その時すでに其角はこの世を去っております。
鶯の暁寒しきりぎりす
其角辞世の句でございます。
放蕩に明け暮れ、絢爛華美をきわめた其角でしたが、その晩年はとても辛いものでした。
師芭蕉が逝き、門弟たちにも先立たれた後、長年の放蕩に見切りをつけた妻子からも去られ、失意のうちに息をひきとりました。
享年四十七歳。江戸の庶民感覚を痛快に詠んだ俳人のあまりに若く、せつない最後でありました。