築地魚河岸昔がたり(13) 魚河岸の洒落者

杉山杉風と並ぶ芭蕉の代表的門人に寶井其角(たからいきかく)がいます。
かれもまた魚河岸生まれの生っ粋の江戸っ子俳人です。
鐘ひとつ売れぬ日はなし江戸の春
夕涼みよくぞ男に生まれける
わが雪と思えばよろし傘の上
名月や畳の上に松の影
越後屋にきぬさく音や更衣
其角の作風は軽妙で庶民的な江戸情緒をたたえたものが多く、師芭蕉の枯淡な風情といかにも相容れないものでございましたが、
師匠はその洒脱な妙味を愛したといいます。
洒落者、其角には親しみ深い句と共に、数々のエピソードがあります。
たとえば雨乞いの話。これは元禄六年(1693年)の夏のことです。
其角が門人と三囲神社に参詣したおり、土地の農民らが集って雨乞いの祈願をしておりました。
その頃、其角は坊主頭をしていたのですが、それを見つけた農民たちが、
「これは和尚様、よいところへいらっしゃいました。私共は長く日照り続きで困っております。ぜひ雨乞いの妙法を唱えてください」
などと言ってきましたから、其角は驚いて、
「あたくしは坊主じゃなくて、ただの俳人なんですヨ」と断ります。
「まあ、それでも構いませんから」
とにかく頼みこまれた其角は、仕方なく開き直って、もうどうにでもなれと一句詠みました。
夕立や田を三囲の神ならば
すると俳句が天に通じたものか、一天にわかにかき曇り、大粒の雨がポタリポタリと落ちてくるではありませんか。農民たちはそれは大喜び。
その脇で雨にしとどに濡れながら、其角たちは狐にでもつままれた心持ちだったといいます。
また、講談などでも有名な赤穂浪士討ち入りの前夜、大高源吾との両国橋での別れがございます。
時は元禄十五年(1702)十二月十三日、舞台は江都両国橋。
其角が橋詰にかかると、向こうからやってくるみすぼらしい笹売りにふと足をとめました、
「お前は子葉ではないか」
はっと上げたその顔はまさしく其角の俳句の弟子である大高子葉こと源吾。
はて、その格好はさても困窮してのことであろうと察し、それには触れないで様々な世間話などした後、別れ際に其角が
年の瀬や水の流れと人の身は
と上の句を詠みますと、源吾がただちに
あした待たるるその宝舟
と返しました。
其角は源吾の身を哀れんだの対して「その宝舟」とつけたその真意を知らず、きっとどこかへ仕官でもしたいのだろう、などと勝手な解釈をいたしました。
その翌日、其角は赤穂浪士討入りの報せを受けます。
あの笹売りの姿こそ吉良邸密偵のために源吾が身をやつしたものだったのです。
其角は己の無知を大いに恥じたといいます。
翌元禄十六年二月四日、鶯の鳴くしずかな春の日。
大石良雄以下四十六名の赤穂浪士は自刃します。
家で一杯飲っていた其角は、この突然の報に、
うぐいすに此芥子酢はなみだかな
と詠み、はらはらと涙を落としました。
其角四十歳のことです。