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築地魚河岸昔がたり(11) 若き日の芭蕉

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 魚河岸の賑わい(江戸中期)
 
 
「おくのほそ道」で知られる俳人松尾芭蕉は、寛文十二年(1672年)江戸に下りまして、日本橋本小田原町の魚問屋の二階に草鞋を脱ぎました。

 
 
その前年、芭蕉は初の著作「貝おほひ」を著し、意気軒昂として東下の旅に出たわけでございますが、その時芭蕉29歳。
独自の蕉風俳諧を確立して、いわゆる「わび」「さび」の境地にいたるのはまだまだ先のこと。
いわば試行錯誤にあった若き日々を日本橋魚河岸で過ごすことになったのでございます。

「これはまあ、何と賑わしいことか」
芭蕉は早朝のまどろみを破る魚河岸の喧騒にきっと面食らったことでしょう。
 

 鎌倉を生きて出でけん初鰹
 

これは魚河岸の繁盛と初鰹の景気を詠んだ気持の良い句です。
荒っぽいくらいの活気も好ましく感じていたのでしょうか。
杉風を通じて由縁をもった魚河岸は、芭蕉にとっては馴染み深い土地であったようでございます。

芭蕉が身を寄せていた魚問屋というのは、北村季吟の同門下だった小沢仙風の俳号を持つ鯉問屋、杉山賢水宅でした。
そして賢水の長男にあたる杉風(さんぷう)こそが、芭蕉がまだ有名にならない前からの支持者であり、芭蕉十哲のひとりとして名をはせた杉山杉風(すぎやまさんぷう)その人です。
杉風は師に対して経済的な援助を通じて、スポンサー的役割も果たし、のちの蕉風俳諧を築いていく上での最大功労者といわれています。

杉風の家業は鯉問屋。その頃、鯉問屋というのは魚河岸では特別の存在で、たいへんに羽振りが良かったことが芭蕉への庇護を可能にしたのでしょう。
鯉屋では鯉を囲っておくための生簀を深川に二ヶ所持っていたといいますが、そこにあった番小屋を改造したのが芭蕉庵であり、その名も生簀に植わっていた芭蕉からつけられました。

 
 古池や蛙飛び込む水の音

 
この有名な句はまさに芭蕉庵で詠まれたといいます。


しかし、やがて別れの時がやってきます。
芭蕉は想い出深い江戸の地をあとにして、北へ向かいます。
「おくのほそ道」への旅立ちです。
この旅立ちに際して、芭蕉が杉風に送ったといわれる句があります。
 

 ゆく春や鳥啼き魚の目はなみだ
 

元禄二年(1689年)三月二十七日、芭蕉庵を出てから舟で隅田川をさかのぼり、千住で送別の人たちと別れたといいます。
そのときに芭蕉は長年世話になった杉風に対してこの句を詠みました。
杉風は芭蕉の北行にあたって、春先の寒さを案じ、その出発をとどめたといいます。
互いのあたたかい心の通じ合いが、旅立ちにあたってこのような留別の句を詠ませたのでしょう。
あるいは魚という一文字には、自らが魚河岸で過ごした若き日への決別の念がこめられているのかもしれません。
 
 
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