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2006年04月03日

築地魚河岸昔がたり(15)大岡越前魚河岸裁き(前編)

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享保十二年(1727年)四月十二日の朝でございます。
日本橋魚河岸は本船町麻店前でちょっとした騒動が起きました。
かねてより店先を借りている魚市場仲買人と麻店家主との間でトラブルが絶えなかったのが、この日の朝に激しい口論となり、ついに刃傷沙汰にまでおよんでしまったのです。

 
 「なに言いやがる、このべらぼうめ。こちとら、鮮魚の目ン玉見ながら商売してんだ。魚がもういいと言わねえうちから店じめえしろたあ、どういうわけだい!」

 「ぞんざいな口を聞くじゃないか。お前さん方には朝六ツまでという約束で店先を貸しているんだ。それも不都合があれば何時でもお返ししますという一筆も入っている。文句があるなら出ていって貰おうじゃないか、ええ。こちらは閑漁期で商売も忙しいんだ。さ、出ていってもらおうか」

 「何だと、このきんかくしの因業大家め。閑古鳥鳴いてる手前ンとこの店先を使ってやってるだけ有りがたいと思え。でえいち、ここは天下の大道だ。生き馬が目ン玉抜かれても三町歩かねえことにゃ気がつかねえ魚河岸のど真ん中だ。うろうろしてるてえと、向う脛かっぱらうぞ」

 「ひ、ひどい事を。おい、みんな出といで。さあ早く、仕事はいいから、出てきてこいつをどうかしておくれ。たかが“あかとり”の魚屋風情になめた口聞かれるじゃないよ」

このやりとりに、麻店からバラバラッと若い衆が出てまいりして、仲買人を取り囲みます。
一方、仲買人の仲間達もバラバラとやってまいりますと、麻店前では敵味方に十数人に連中がくんずほぐれずの喧嘩をはじめます。
といっても、もとより本気の喧嘩ではございません。
普段から仲の良くない連中が鬱憤晴らしに始めた軽いいざこざだったのですが、その時仲買の持っていた手カギがひょいと麻店若い衆の足をえぐったから大変。
ざっくりと切れた膝がしらから血が吹き出してきたから、すわっ刀傷事件だと、店主は奉行所に訴願いたします。

ここでいう麻店は、本船町に先に住みついた船具商のことで、後に魚問屋らが、この地域の河岸地という好条件を得たくて、徐々に進出してきて、今では本船町の多くは魚問屋に占拠されるかたちとなりました。
魚問屋は当初地借りや店借りというかたちで、空き家などに正規に入り込んだのですが、いつのまにか夜明け前に麻店前の公道に板舟を置いて商売をするようになっていました。

天下の公道で刀傷事件とはおだやかではございません。
さっそく南町奉行所で裁判と相成ります。
これにあたったのが、かの有名な大岡越前守忠相でございます。

2006年04月04日

築地魚河岸昔がたり(16) 大岡越前魚河岸裁き(後編)

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 「近年、本船町地引河岸麻店前にて、明六つ迄という約束で魚市場仲買が魚売買を始めたが、時間を過ぎても売買を続け、のみならず往来へ荷を出張って道を塞ぎ、耳障りな大声で叫ぶ、暴れるなど不届きな行状、さらに今回の刃傷沙汰に対する訴えにつき吟味いたす」

 大岡越前守はぎろりと仲買人らを睨みつけると、厳しい口調で言いました。

 「平生より魚河岸はおびただしく混み合っていて公道をふさぎ、その上、売人らの風俗がきわめて悪く乱暴の多いことは奉行も聞き及んでいる。かねがね戒めようと考えていたところである。そこで仲買人どもに申し付ける。魚河岸での商売は古来の定法どおり道へ出張らぬこと、麻店前で営業している者はただちに場所を明渡すこととせよ」

 これで困ったのは営業停止を食らった仲買とかれらをかかえる問屋たちです。さっそく会所に集まって協議の上で、
 一、 夜明け前に限って営業すること
 一、 往来には出張らないこと
 一、 武家方がご通行の折には無礼をしない
 一、 喧嘩口論は禁物とし、もしも口論が起こったときは仲間一同で立会いすぐに静めて町内の迷惑にならないようにする
 一、 ごみは往来へ掃き捨てず掃除を怠らない、
 以上事柄を問屋、仲買、小売の者ども協議の上違反させない、万一みだらなことあれば、いずれへ訴えられても異議はない、という魚問屋連判状を作成して家主へ差し入れました。

魚問屋側よりわび証文が出されたことで、今回に限り麻店前の営業を再開してもよろしいということになりました。
結局はこのお裁き、麻店側が一方的に勝訴したかに見えますが、実のところ、かれらは魚河岸からある種の店賃のようなものを受け取っていたことは間違いなく、それは店前の占拠であるとか、早朝から客寄せの大声による安眠妨害といったことに対する迷惑料といったものでしょうが、いくらかでも貰っているから妥協しないわけにはまいりません。
奉行もそれを知っていて、一時的に営業禁止措置をとることで魚市場の秩序を回復しようという、いわばひと芝居打って魚問屋らを威嚇したというのが本当のところでしょう。
人情味ある「大岡裁き」によって、麻店と魚河岸の長年の対立を丸くおさめたともいえます。

この争いを契機として、仲買の営業権がクローズアップされることになり、「板船権」というものが出てきます。これは仲買人にとっては魚を売るための板船を軒先に広げるための権利であり、麻店にすればその場所代を得る権利です。「板船権」の確定で仲買人の権利も明確化するわけで、それまでの問屋の従属から独立して、問屋業務と仲買業務の分業化がはじまることになります。

ところで、これより二百年以上も後のことになりますが、魚河岸が日本橋から築地へ移転するにあたり、この「板船権」の補償をめぐって、魚河岸側が代議士に賄賂を贈ったことが発覚したことによる、いわゆる「板船権疑獄」が起こります。これは世の中がひっくり返るほどの大騒動になるのですが、その根源をたどれば、享保時代の「大岡裁き」に行きつくわけで、ささいな口論が、世の中をひっくり返す大事件にまで至るという、講談の「大岡政談」でも語られなかった逸話がそこにはあります。

2006年04月07日

ふくちゃんの行列のできるふくちゃん

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このたびアタクシは、丗の中の脳める入のために、
入生柏談をはじめようと恩います。

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行例のできる柏談所にしたいと恩います。
 
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    おや?
 
  
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  なぜ行例をつくりますか

2006年04月10日

ふくちゃんの人生相談(1)

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 入生の疑間について 伺なりとご柤談をうけたまわります

 
 
 
 
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    これは難門です
 
 
 

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なぜですかなぜですかなぜですか
 なぜですかなぜですかなぜですか
なぜですかなぜですかなぜですか
 
 
 
 

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わかりましたわかりましたわかりました
 わかりましたわかりましたわかりました
わかりましたわかりましたわかりました 
 
 
 
 
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はじめからリポビタンをのまないのが原困です。
しにそうになったあと、なぜのみますか。
 
 

2006年04月11日

築地魚河岸昔がたり(17) 初鰹、袷を殺す毒魚

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         鰹売り
 
 
江戸時代には魚の値段は総じて高いものでしたが、とりわけ威勢の良かったのが初鰹ですな。
初鰹の景気というのがいつ頃からはじまったのかと調べてみますと、江戸期のバブルともいえる元禄の頃にはだいぶ高くなり、天明期(1781-1789)にピークを迎えたそうでございます。

 
  高い物の親玉初鰹 五両してもかまわぬ
 
これは文化十年(1813年)に流行った「かまわぬ尽し」という歌の一節で、一両を今の十万円ほどの換算でみますと、五両とはずいぶん高い気もします。
 
  初鰹袷を殺す毒魚かな
 
初鰹の出る季節にはもう袷の着物は必要ないと、これを売り飛ばして一尾を買い求めるなどという江戸っ子特有の見栄をうたった句ですね。
 
初鰹を運ぶ押送舟(おしょくりぶね)は夜着きました。
後にこれが猪牙舟(ちょきぶね)となり、さらに馬で運ぶ陸送もはじまって、海と陸が競争するように届けたといいます。
河岸に揚がった初鰹は、先を争うように取引され、大急ぎで市中に売りに出されるのですが、初鰹売りというのは、とても気が強くて侠客のようだったそうです。
言い値で買わないで値切るような客には絶対に売らない。
「わたしは売りたいけど、魚がいやだというのでね」などと悪口を言って行ってしまったそうです。
 
ところで初鰹といえば、かの豪商紀伊国屋文左衛門のエピソードが有名ですな。
 
あるとき吉原の大店を仕切る重兵衛という者に、今年はぜひ初鰹を吉原で食いたいから、何とか江戸に一本も入らないうちに料理して食わせるようにしてくれ、などと無理難題を紀文が頼んだそうです。
重兵衛はさっそくすべての肴問屋に前金を打って、鰹の荷をすべて押さえます。
そうして紀文が大勢をひき連れて吉原へやってくると、たった一本の鰹を料理して出しました。
ところが、大勢なのであっという間に食べてしまう。
皿をながめていても仕方ないから、もっとないのかと催促するけれども重兵衛は出しません。
紀文はもどかしくなって、なぜ後を出さないのかというと、重兵衛は大きな箱のフタを取って、鰹はこんなにありますが、初鰹は一本のみです。
残りはあとで皆にやってしまいますと言いいました。
紀文はこれを聞いてむしょうに嬉しくなり、当座の褒美だとかれに五十両をやったそうです。
 
食通の心持というのはおかしなものでございますな。
 

2006年04月14日

築地魚河岸昔がたり(18) 魚河岸の景気

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         日本橋の賑わい
 

“世界の築地”などといわれ、膨大な取引高を誇る東京築地市場。
これほどの水産基幹市場は世界的にも類がございません。
先日はトム・ハンクスも見学に来るなど、外国人の注目度も高こうございますな。
まこと築地は活気に満ちた土地柄でございますが、
さて、江戸時代の魚河岸も現代の築地に劣らず、たいそうな賑わいを見せておりました。

日本橋魚河岸は現在の築地市場と比べれば、市場規模も取扱量も比べものになりませんが、
こと勢いに関しましては、むしろ現代以上だったかもしれません。
将軍家御用達のお魚を運搬しているときには大名行列さえも道をゆずったなどというエピソードに
気骨に満ちた、鼻っ柱の強い魚河岸の気風が感じられます。
威勢が良くて義理堅い魚河岸の兄ィのイメージは「江戸っ子の見本」でございまして、
世間様に与える影響力も馬鹿にできないものがあったのでございます。


「朝千両」と申しまして、魚河岸では朝だけで千両という商いがなされます。
ほかに昼千両は芝居小屋で、夜千両は吉原、という具合でございまして、
これら3点セットをもって江戸人の食欲・知識欲・性欲を満たしておりましたから、
魚河岸はお江戸に欠くべからざる存在であったわけです。


何しろ景気の良い魚河岸の旦那衆は遊び方もそれは粋でございますから、
歌舞伎の総見をしてみたり、吉原でも突き出し(まだ客を取らない新造)へのご祝儀にポーンと五百両呉れてみたります。
その一方で寶井其角や杉山杉風(すぎやまさんぷう)らのように魚河岸の旦那衆が江戸の代表的文化人でもありました。
魚河岸は財力にものを言わせて江戸文化のパトロンとしての役割を果たしたともいえましょう。

魚河岸に最も勢いがあったのは、江戸のバブル期ともいわれる元禄時代頃でしょう。
当時の景気に水をさしたのが、200年に一度起こるといわれる相模トラフの大地震、
いわゆる元禄江戸地震といわれております。
江戸市中が灰燼に帰すなか、魚河岸もまた丸焼けになってしまいましたが、
何となればバラック建ての市場なぞ、焼けたところで多寡が知れております。
しかし、40メートルの大津波より房州の漁村が全滅したことで、
ここに物的、人的な資本を投下しておりました魚河岸は大損害。
威勢の良さも、少しばかり怪しくなってまいります。

せちがらい時代には、さまざまの事件が起きるのが世の常。
これから魚河岸も大事件続出の激動期を迎えることとなるのでございます。

2006年04月17日

築地魚河岸昔がたり(19) 魚河岸の「助六」

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         魚河岸の引き幕
 
 
江戸っ子は判官贔屓と申しまして、仇討とか忠君のお話が大好きですな。

この判官とは、もちろん源義経のことでございまして、
兄頼朝に追われて悲劇的な最後を遂げた人気者でございます。
同じように頼朝にヒドイ目に遭わされた曽我兄弟も江戸っ子好みで、
とくに弟の五郎は多くの芝居の主人公となりました。

なかでもこの伝説の人気者曽我五郎に
大坂の「千日寺心中」という竹本義太夫をとり込んでつくった「助六」は、
まったく江戸前の芝居になりました。

 
 
曽我五郎になぞらえた主人公の花川戸助六のモデルは、
持ち前の男気から人の身代わりに牢に入り獄死した魚問屋とも、
宝永年間(1704~10)に花川戸にいた助六という侠客とも、
江戸の粋人、大口屋暁雨ともいい、諸説さまざまでございますが、
江戸っ子の典型ともいう「助六」を演じた団十郎の人気は、そりゃもう大沸騰! 
現代でいえばペ・ヨンジュン以上だったと申しますから、
どれほどの人気者であったかはお分かりでしょう。
言っているアタクシには分かりません。
 
 
さて、助六といえば河東節が有名でございます。
河東節とは十寸河東(ますみかとう)というお人が創始した清元の一派だそうです。
で、この十寸河東さん、実は魚河岸出身でございまして、
いろいろ由縁が深こうございます。
歌舞伎で「助六」を河東節でやる限り、魚河岸の承諾を得なければならない
という不文律がいつからか生まれました。
歴代団十郎も、助六上演の際には必ず魚河岸に挨拶に来たといいます。
 
 
魚河岸の方でも立派な引き幕を贈る、初日には総見し、
助六が花道で見得を切るところでは魚河岸連中のお手を拝借して
シャンシャンというのがしきたりになりました。
それから、火事などで芝居小屋が焼失したときなどは、
魚河岸がかなりなお金を出したと申します。
 
 
そんなわけで、魚河岸の人々の芝居への入れ込みは相当なもので、
旦那衆ばかりでなく、若い者や娘子供まで、
みんな芝居見物が何より好きだったようですな。
 
 
ところで、十寸河東さんは、享保十年(1725)に没し、
築地本願寺にお墓が建てられました。
歌舞伎の好きな方は、お参りなどしてみてはいかがでしょうか。
 

2006年04月18日

築地魚河岸昔がたり(20) 鮮魚街道のガラッパ

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     文中とまったく関係ない河岸の風景
 

人口百万をこえる大都市江戸の膨大な消費に応じるために、日本橋魚河岸には毎日全国各地から産物が押送船で送られてまいります。

なかでも房総地方は江戸の台所といわれ、魚介類の豊富な供給地でございました。

その内、銚子沖で獲れる魚は、房総半島を南回りで江戸湊に運んでいたのでは、あまりに遠く、海難事故の恐れもありますので、利根川・江戸川水運を利用するという特殊な方法がとられておりました。

しかし、全行程を船で運べる春から夏にかけては順調にいくのですが、八月から四月の間は利根川が渇水期となる上、ナライ(北西)の風が強く吹いて船が使えなくなります。
どうしても途中で陸路をとらなければなりませんでした。

そのため、利根川で運ばれた魚荷は、布佐で一旦荷揚げされ、陸路を馬の駄送によって

  布佐→発作→亀成→浦部→平塚→富塚→藤ヶ谷→佐津間→金ヶ作→松戸

というルートで運ばれ、松戸から再び水路で日本橋へ送られることになります。
この布佐から松戸まで、七里半の道のりは「鮮魚街道(なまかいどう)」と呼ばれました。
布佐村とその周辺の村人が百二、三十疋の馬に魚荷を背負わせて毎日ここを通ったのでございます。

銚子を夕刻に出発した魚荷は、翌朝に布佐着、その日の夕方には松戸に運び、遅くとも翌早朝には日本橋に届けねばなりませんでした。
もしも三日目の日本橋魚河岸の朝市に間に合わない場合には、銚子の荷主に対して村人が損金を支払うという厳しい取り決めがありましたから、運ぶ者たちの苦労といえば、それは並大抵ではございませんでした。

「鮮魚街道」の運搬は困難をきわめました。好天に恵まれればまだしも、風雪や大雨による川の増水にはそのつど悩まされます。
さらに、説明のつかぬ出来事に襲われることがあったと申します。
突然、石つぶてが雨のように降ってきたり、理由もなく馬がへばって動けなくなるなどです。そんな時、村人はガラッパのイタズラだと怖れたのでございます。
ガラッパというのは川に棲む、頭にお皿をのせた伝説上の生物である、あの河童でございます。
そのようなものが本当にいたのでしょうか。
上総地方には次のような言い伝えが残っております。

天保九年(1838)十月のある朝、治兵衛という者が鮮魚街道を行きますと、亀成を過ぎ湿地にかかったあたりで、急にカラカラカラという耳をつんざく笑い声が響きました。
そのとたん、空から大量の石が降ってまいります。
それは一瞬のことでしたが、大切な馬が驚いて倒れた拍子に脚を折ってしまいました。

「何ということだろう」

治兵衛が途方にくれて立ちつくしておりますと、どこからかゲロゲロという哀しげな声がきこえてまいります。
見ると小さな子ガラッパが倒れた馬の下敷になって鳴いておりました。
「さてはこいつの仕業か」
治兵衛は憎くもありましたが、妖怪とはいえ、小さな子どもゆえ哀れに思い、抱き起こし、自分の衣服を裂いて傷口の手当てをすると、近くの川まで運んでやりました。
そうして子ガラッパが帰っていくのを見届けた後、「今日の損害をどうしたものか」と考えながら引き返しますと、何と、不思議にも馬は怪我一つなく、何事もなかったかのようにそこに立っているのでした。

この事件以後、ガラッパたちは村人たちへの悪さを止め、川が氾濫して橋が流された時など河童の橋をつくって村人を助けたといいます。
村人たちもお礼に収穫物を川に供えることを忘れませんでした。

こんな伝説からも当時の人々が大変な苦労をして魚を運んでいたことがうかがえます。
魚河岸にあふれる魚は、命がけで漁をする人々がいて、さらにそれを非常な労苦で輸送する人々に支えられておりました。

それは江戸の昔も現代も何ら変わることはございません。

2006年04月20日

築地魚河岸昔がたり(21) 魚河岸歳時記・春夏

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アタクシの敬愛する岡本綺堂先生に「魚河岸の一年」(明治三十六年)
という文章がございまして、日本橋魚河岸の威勢の良さを見事に描写されております。
少し長いため、ここに全文をご紹介はできませんが、
本日はこの名文をもとに、魚河岸の一年間をかけ足で見てみたいと思います。

 
 
 
鳥の啼かぬ日はあれど魚河岸に休日はなしと誇っておりますが、
さすがに元日の初鳥が啼く朝だけは休業と相成ります。
主人も若い衆も懐ろ手で店を飛び出し、恵方参りに芝居見物、
思い思いの方角で一日遊び過ごしますな。
 
 
しかし、灯ともりし頃には必ず帰宅し、早や初売りの準備にかかります。
店の軒先に定紋付の高張提灯、軒端には屋号を書いた長提灯、
そして魚を列べた盤台にも雪洞が灯り、
魚河岸の一区画はさながら画のような美しさでございます。
 
 
さて、夜も白んで二日の初売りには、料理店主、小売商はじめ
平素魚河岸に関係のある者は、言わば一種の義理として必ずは買出しに参ります。
当日は各問屋から馴染みの客にお年玉の手拭いを出すのが通例で、
仕入れの多い料理屋の主人などは数十本の手拭いを
懐中にふくらませて群集を押し歩くのを見栄としました。
 
  
初売りの雑踏も三日には落ち着き、
午後の閑な時間には各問屋の息子株、十八、九の血気さかんな若者を先頭に
仲買などの若者二、三十人が歳末のうちに拵えておいた大紙鳶(たこ)を持って、
他の町内の紙鳶と絡み合いにまいります。
むかしは山の手の屋敷町まで押し出して旗本邸の紙鳶と闘って、
血を流すほどの大喧嘩までしたと聞きます。
 
 
二月の初午には長浜町の常盤稲荷のお祭りです。
魚河岸ではこのお稲荷様をたいそう大事にし、
初鰹、走りの秋刀魚など何をおいても供えたと申しますから、
このお祭りも賑やかなものでした。
河岸の若者が他の町内に繰り出して地口行灯を壊したり、
お神楽堂の縄を切ったりと様々な悪戯をしたものだと申します。
 
 
三月の雛祭を当て込み、各地の浜から栄螺の荷が送られてくる頃には
河岸も賑わいますが、節句を越すとにわかに下落して道端の壷焼きに早変わりします。
また、この三月は問屋と浜の契約更新の時期なので、
主人にはいささか心配な月でもございますな。
 
 
四月に入って初めて河岸に着いた鰹を初鰹と賞味することは、江戸人の習わしですが、
この月は花見もあり料理屋向きの注文で河岸は随分と忙しゅうございます。
 
 
五月の節句には魚河岸でございますから、
ど派手な吹き流しの大鯉を上げるのはもちろん、
塩物問屋が干鱈、干河豚を将軍家に献上するという毎年の通例などもございます。
 
 
六月は小舟町の天王祭。
どういう訳かこの祭には、揃いの単衣の他に「ふんどし」を見栄とする
変わった習慣がありまして、河岸の連中は紅白や黄色の縮緬を幾重にも巻付けて、
ほとんど下を向くことも出来ぬほどに腹を膨らませます。
魚河岸では二年越しに同じ「ふんどし」を付けぬという風習がありますので、
この着飾ったふんどし野郎たちが揃って砂の上をころげ、泥だらけ水びたしになる図は、
他の祭では見られない光景でござります。
 

2006年04月21日

築地魚河岸昔がたり(22) 魚河岸歳時記・秋冬

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七月の七夕祭は非常に盛んでございまして、
お決まりの短冊の他に、紙でこしらえた鯛に平目に鰹などをぶらぶらと吊る様は、
魚河岸一面の空にさながら魚の群がり浮かぶ如くでござります。
しかし、この月は盆の精霊月といわれて売れ口悪く、
河岸の盤台も干上がるというありさまでした。

 
 
薮入も河岸では世間の様に十五、十六日と決まったものでなく、
この月で最も不漁な日を選んで一日の休みを与えたというくらいで、
売れない、腐敗しやすい、しかし休めないと七月は
河岸にとって最も御難の季節だったと申します。
ただ、上総方面から押送船で運ばれる小魚の余りを午後に売る
夕河岸というのが立ちますと、朝市ほどでないにしても賑わったようです。
 
 
秋刀魚と鰯の準備に忙しくなるともう九月でございます。
名月やら重陽といった風情など、
気が荒く殺風景極まりない魚河岸には何の関係もございませんが、
恒例の水神祭の執行となりますれば魚河岸挙げて盛大に騒ぎ立てます。
水神祭は魚河岸の守護神ともいうべき水神様の御神体を
神田明神から担ぎ出すのでありますから魚河岸連中の気組も格別で、
山車に踊り家台、地走り、曳物、積と、数を尽くした繁昌ぶりは
大江戸随一でございました。
 
 
十月は恵比寿講。大小の鯛は羽が生えて飛ぶ勢いで売れます。
十九日の「べったら市」に出る五、六寸の小鯛は魚河岸の若い衆の内職で、
毎晩夜なべで紅い糸を編み、尾ひれを綺麗にこしらえ、本物の鯛にかがり、
市の当日に伝馬町に持ち出して売るのでございます。
その頃には、いよいよ秋刀魚が大量に入ってまいります。
江戸では秋刀魚といえば初鰹に劣らぬ人気魚で、
これが出回ると魚河岸では他の魚そっちのけで、こぞって秋刀魚に取りかかります。
その騒ぎはまさに狂気で、魚河岸の冬は秋刀魚で賑わうといっても
過言ではございません。
 
 
十一月の七五三の頃には魚価も高騰し、売れ口も良くなり、気候もおいおい寒くなって
生魚の手当も楽になってくるという具合で魚河岸はこの頃から勢いづいてまいります。
やはりこの商売、寒空でなければいけません。
 
 
十二月は他と同じく餅つきと煤払いでございますが、
何しろ午前中は忙しい商売でございますから、
世間並みに早朝からトントンバタバタと掃除をするわけにもまいりません。
そこで、大抵は暮れの二十七、八日頃から大晦日にかけて
午後から店と納屋の大掃除を行います。
餅つきもやはり二十日過ぎから行いますが、これは何と真夜中につきます。
若者大勢の土地でございますのでそれは大変な賑やかさで、
これが他の町内であったら、近隣から安眠妨害の苦情が来るところですが、
そこは近所同業者の集まりでございますので、
言わばお互い様で咎める者も怪しむ者もおりません。
 
 
押し詰まると、佃名物の白魚が現れ、春を当て込んでの魚類もどっと入ってまいります。
問屋仲買ではお年玉の手拭いの拵えに余念がなく、
そんなことでワヤワヤと賑やかに一年を送り出してしまいます。
 
 
以上、駆け足で過ごしました魚河岸の一年でございます。
 

2006年04月24日

ふくちゃんの懐ゲー

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2006年04月25日

築地魚河岸昔がたり(23) 納魚に苦しむ

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   次第に抜け荷が横行してくる
 
 
日本橋魚河岸は創業以来、幕府納魚の義務を負ってまいりました。

納魚の買上げ価格は時価の一割以下というお話にもならないもので、
損失も大きかったのですが、幕府も折りにふれて
助成地や助成金を出すとかして魚河岸を保護してまいりましたし、
魚河岸としても幕府の御用達ということを誇りに思っておりました。

 
 
それと申しますのも、幕府上納の高札をつけた荷車で納魚を運ぶときには
大名行列も避けたといわれるほど、
それは重みのある名誉な役目だったのでございます。
 
 
ある時、千住青物市場の上納の車が伊達百万石の行列とぶつかりまして、
その際、将軍御膳の蓮根が一本折れてしまいました。
普通なら無礼は町人の方にござりますが、
何しろ将軍様のお野菜ということになると、そうはまいりません。
伊達側はいろいろと取り繕おうとしますが、市場側は幕府御用を盾に一歩もひきません。
とうとう伊達候が詫び証文を書いたという事件がありまして、
この証文が今も千住市場に残されております。
これは青果の話でございますが、魚河岸はこれ以上に強気だったと申します。
 
 
しかし、江戸時代も中頃になりますと、この納魚も次第に苦しくなってまいります。
それは、納める魚種には決まりがあって、
鰯や秋刀魚といった多獲魚は入らず、もっぱら白魚や鯛や鱧といった高級魚ばかり。
しかも城中での需要は増える一方でございますので、
なかなか品を揃えるのも難しくなったことがございます。
 
 
さらに町人の生活も贅沢になってまいりまして、
いきおい高級なものは儲かる町人の方に回して、
納魚には、まあそこそこのものを用意しようといった駆け引きも出てまいりました。
 
 
たとえば、初鰹が魚河岸に着くと、まず幕府に注進して納めなければ
一般に売り出すことは出来ませんでしたが、
魚問屋たちはこれを隠して富豪な町人に高く売りつけるのでした。
 
 
大名に借金をする将軍も現れ、贈収賄も横行するようになると、
幕府の威光も怪しくなりまして、魚河岸にとって納魚など何のありがたみもなくなります。
しかし、将軍も大奥や旗本も口が奢っておりますから、
お義理の上納では我慢ができません。
 
 
ついに幕府は寛政四年(1792)、それまでの納魚制度をとりやめ、
江戸橋際に御納屋役所を設け、半ば強制的に魚を取り上げる組織をつくりました。
その取り立ての厳しさは横暴を極め、多くの問屋、仲買、小売が泣かされたと申します。
 
 
ここに寛永以来百七十年、幕府と魚河岸の信頼のうちに続けられた納魚の伝統は崩れ、
やがて暴権と贈賄の横行が魚河岸の存在を揺るがし始めるのでございます。
 

2006年04月26日

築地魚河岸昔がたり(24) 役人の横暴

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       御納屋役人
 

御城の御膳のお魚を、毎日確実に確保するために、
幕府は御納屋役所(おなややくしょ)を設けて、
しぶる魚河岸から魚を取り上げていったのでございます。
 
 
 

御納屋役所(おなややくしょ)の取立ては 峻厳・過酷きわまりて
問屋・仲買・小売商 泣きの涙に暮れました
河岸の事情に通じる者が 取立人に雇われて
御用御用の乱用で 役人風を吹かせます
  

懐手にして手かぎ持ち 店のなかまでかき回す 小売の盤台取り上げる
どこの問屋に入荷があると 聞けばすぐに飛んでいき
すべてを分捕る凄まじき
我が物顔で闊歩する 取立人の横暴に さても商い成り立ちがたしと
進退窮まる魚屋の 一計案じて取るすべは
浜から届くお魚を 右から左に隠しては
つづら長持ち 仕舞いこみ 箪笥の中に秘匿する
 
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       家中に魚をかくす
 
 
ひどい時には雪隠(せっちん)の 鼻をつまんだ隠し事
問屋の店先魚なく 家の中では生臭い
まったくもって逆さまの おかしなことになりました
 
 
魚河岸では取立人とのこのような丁々発止が来る日も来る日も続いたものですから、
とうとう疲れ果ててしまいまして、お上に「何とかして下さい」と泣きつきます。
そこで役所と魚河岸の間に「建継所(たてつぎじょ)」というものが設けられることに
相成りました。
 
 
これは上納品の一切を調達する機関でありまして、
その運営には問屋が浜から魚を仕入れる際に仕切金の百分の一を積立て、
役所からの支払が魚の値段に見合わない場合はそこから不足分を補充するという制度。
まあ、言ってみればみんなで苦労を分け合おうや、というかなり妥協的なものですな。
 
 
この制度が功を奏して一時は騒動も収まりかけたのでございますが、
これが長続きしなかった。
というのも、この「建継所(たてつぎじょ)」を運営する行事連中が
次第に横柄な行動に出てまいったからでございます。
 

2006年04月27日

ふくちゃんの秘技

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   鼻皿がでました

 

 
 
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   ………………
 
 
 
 
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  関けたばかりのティッシュから
  1杖だけとることができました
 
 
 
 
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2006年04月28日

築地魚河岸ことば “うわみとしたみ”

うわみとしたみ【上身と下身】

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マグロは水揚げされて船上で置かれると、
その後、河岸のセリ場に並ぶときも、仲卸が店に運ぶときも
ずっと同じ向きのままで寝かせる。
このとき上側の方を上身、下側を下身と呼ぶ。
下身には魚体の重みがかかるため、身割れを起こし、
鮮度が落ちるなどといわれ、一般に上身の方が価値が高いとされる。
しかし、実際に上身の方が上質かどうかは、割ってみなければ分からない。