« 2006年04月 | メイン | 2006年06月 »

2006年05月01日

ふくちゃんのむかしばなし

   mukashibanashi1.JPG


オジイサンは、やまへシバカリに
オバアサンは、かわへセンタクにいきました…
 
 
 

 
mukashibanashi2.JPG
オバアサンが、かわでセンタクしていると、
おっきなモモが、ドンブラコとながれてきました…
 
 
 
album3.JPG
     はっ!
 
 
 
mukashibanashi4.JPG
それでは、やまへいったおジイさんは、
なにも えるところはなかったのですか
 
 
 
 
   dakara.JPG
 

2006年05月02日

刑務所で解体ショー

kenka.jpg
     すぐにケンカ
 
 
昔むかし、魚河岸がまだ日本橋にあった頃のお話です。

その頃の河岸の人たちの娯楽といえば、何といっても色事。
それから博打に喧嘩ということになりますな。
 

 
博打は「チーハー」、「キツネ」に「チンチロリン」。
もっと手軽なところでは「ジャンケン」と、
河岸引けにはあちこちで打ち興じたようです。
喧嘩の方も日常茶飯事。
売り言葉に買い言葉、それがちょいと高じればポカリ。
でも、そこは心得たもので、手加減もしますし、頃合に仲裁も入る。
手打ちの後は互いにいがみ合ったことなど忘れているという寸法で。
 
 
まあ、こんな娯楽も、どうかすると、ちょいと度が過ぎて、
警察のご厄介になるといったことも、ままありました。
「御用だ」とばかり捕まりますと、
その頃、石川島にありました懲役場に送られます。
 
 
仲間が刑務所に入れられちまった、ということで
さっそく河岸の連中から刑務所に差し入れが届きます。
もちろんこれは魚です。
ムショのなかでこいつでいっぺえ飲ってくれい、ということでしょうか。
 
 
しかし、刑務所の決まりで、魚の差し入れは一尾のみとなっていたそうです。
そこで魚河岸の連中は、なんと大きなマグロを一本差し入れてしまいます。
マグロでも一尾にはちがいないので、刑務所でも許可せざるを得ません。
それに看守たちもご相伴にあずかることができましたから、
「魚河岸者」が入牢すると牢内では「そのうちマグロが届くぞ」と
むしろ期待されたそうですな。
 
 
ただ、さばくことができないということで、
持っていた連中がその場でマグロを解体したという、
これがマグロ解体ショーのはじまりだといわれてます。
 
 
本当にいわれてるかな、
まあ、よく分かりませんが、そんなところでしょう。
 

2006年05月03日

帰省ラッシュ

jyuutai1.JPG
 
      渋渧しています

2006年05月06日

Uターンラッシュ

jyuutai2.JPG
 
      渋渧しています

2006年05月08日

河岸のサメ男

   hakari.jpg
 
 
これまた明治時代の魚河岸のお話でございます。
今はこの世を去られた河岸の伝説的古老からうかがいました、
魚河岸の鮫男の由来でございます。
 
 

むかしの河岸の人たちはたいそうな博打好きでございました。
朝が早いといいますのに、世間が寝しずまる頃になると、
町内のちょっといわくありげな家の二階なんぞで
張ったり張ったりの勝負に打ち興じます。
 
 
博打というのは、ビギナーズラックといいますか、
最初はわりと勝たせてもらえるので、これは面白いと入れ込むうちに
だんだん負けが込んでくる。
今度はそれを取り返そうと、もうやめられなくなるそうですな、
道楽ですまずに、どうかすると財産も家作も失くしてしまった、
なんて人が、魚河岸にもいたそうです。
 
 
とある老舗魚問屋の大番頭は評判の働き者でございましたが、唯一の欠点が大の博打好き。
毎晩のように賭場へ通いつめては負けが込み、借金でクビが回らなくなると、
とうとう店の金にまで手をつけてしまう、というありまさ。
 
 
「もうダメだ。オレはお仕舞いだ。」
みんなに合わせる顔もない。いっそ海へ身を投げて死んでしまおう、と
夜更けに日本橋川に停泊していた発動汽船を盗みますと、川づたいに東京湾まで出ました。
「ああ、ここいらなら浮かび上がるこたあねえだろう」
沖合いで船を停めまして、自分の足に重りの石をくくりつけ、
今しも海に飛び込もうとしたその瞬間です。
 
 
ザザザザザーッ
 
 
そこへ突然、何の脈略もなく、「ジョーズ」を思わせる巨大サメが
波頭をあげて襲いかかってまいりました。
なぜこんなところにサメが!?
 
 
「誰がテメエなんかのエサになるかい!」
 
 
これから死のうというんだから、食われてしまっても良さそうなものですが、
男は必死の抵抗をこころみ、ついにサメを叩きのめしてしまいました。
「ふう、あぶなく殺られるところだった。しかしでけえヤツだな・・・・・・そうだ!」
 
 
男は何を思ったか、巨大サメを船に積み込むと、魚河岸にとって返しました。
「今朝獲れたての近海ものだよお!」
何とかれは早朝の市立で大サメを売りさばいたんですな。
それでめでたく借金も返したばかりか、自分の店を持つことができたという、
ウソのようなホントのお話でございます。
 

2006年05月09日

ふくちゃんの ・ -

 
 
tsuushin1.JPG
 
 
tsuushin2.JPG

2006年05月11日

築地魚河岸昔がたり(25)建継事件

 edokko.jpg
       江戸っ子気質
 
 
過酷な納魚にたまりかねた魚河岸が、
相互扶助のためにつくった「建継所(たてつぎじょ)」でしたが、
これがよけいに魚河岸を苦しめることとなりました。
それというのも、その運営にあたる行事連中が
次第に横暴な態度に出てまいったからでございます。

 
 
親方日の丸お役人 一流会社の勤め人
バックが強けりゃ 自らが 偉くもなった気がするは
まこと世の常 人の常
 
 
建継所の行事らも 我こそお上の代理人 すべて我らの思うまま
官僚気分に ふんぞり返る
役人らには良い顔し 魚屋風情にゃあ 屁の河童
御用魚の取り立ては 厳しくあたる一方で 助成金は出し渋る
お定まりは袖の下 自らうるおす お手盛り役目
 
 
あげくの果ては役人と 一緒になって問屋連 絞るありさま惨たらし
何のことない以前より ひどいことになりました
 
 
さて、ここで魚取立てにあたる役人というのは、
十俵取り、十五表取りといった軽輩武士でございまして、
城中にても食事方賄いの役得で生計を立てているような者が多くおりました。
かつおぶしは二、三度削ると取り捨て、魚も真ん中以外は除き置き、
かまぼこなども二十本のところ四十本取り寄せて余らせる。
そうして捨てたものや余りものを家に持ち帰っているような始末。
 
 
たのみにしている魚河岸の行事連中がそうした小役人とグルになり、
完全に敵に回ったことで、最早打つ手がなくなったわけでござます。
 
 
このままでは魚河岸に将来はない!
もはやすべての元凶の 建継所をば打ち壊し 活路を開く他なしと
ついに我慢の限界に 達した河岸の兄ぃ連
すなわち 河岸のなかでもとびきりの 男の中の男を自認する
 
 
西宮利八(にしのみや りはち)
伊勢屋七兵衛(いせや しちべえ)
神崎屋重次郎(かみさきや じゅうじろう)
佃屋彦兵衛(つくだや ひこべえ)
伊勢屋亀太郎(いせや かめたろう)
 
 
血気盛んな五人の男 大包丁を振りかざし 暁のなか 建継所
いざ出陣と 踊り込むぅぅぅ……
 
 
 
       continue.JPG
 

2006年05月12日

築地魚河岸ことば “やっつける”

やっつける

威勢良くやる。
「あのマグロをやっつけよう」マグロをおろすの意味。

2006年05月15日

築地魚河岸昔がたり(26)建継事件顛末

soudou.jpg
   大変なことになった魚河岸
 
  
このままでは魚河岸に安泰の日は来ない。
西宮利八を先頭とする男気を絵にかいたような五人の若者は、
それぞれ大包丁を手に建継所に殴り込みました。

 
かれらの決死の突撃に 色めき立ちます魚河岸の
喧嘩のことなら飯よりも好き 
よその喧嘩も買って出る 血の気の多い連中だ
 
 
常々憎きは 建継所(たてつぎじょ) その不満は爆発し
手かぎ、包丁、得物を持って 五人衆の後を追う
 
 
「かれらに怪我をさせるな!」
「役人に化けた泥棒を打ち殺せ!」
皆 口々に 叫んでは 上げた拳を下ろさない
 
 
いつのまにやら橋詰めは 百人を越す大群衆 
鼻息荒き連中がぞろりと囲んだ 建継所
 
 
心強き助っ人の 熱狂 声援 背に受けて
思わず知らずに 熱くなる はやる心の五人衆
頭にカーッと血が上り 身体も動(いご)いてまいります
はじめは脅しのつもりでいたが ついには包丁振り回し
相手に怪我を 負わせてしまった!
 
 
さあこうなると大事件 ただでは済まぬ お定めだ
罪人 下手人 縛り首 下手すりゃ魚河岸取り潰し
問屋・組合・お偉方 血相変えて駆けつけて
何とか事を治めたい 割って入ってみましたが 頑と動かぬ五人衆
 
 
ここでこの手を引いたなら 我らの行動 無駄になる
いざとなればこいつらと 刺し違えて死ぬ覚悟
役人たちの咽喉仏 二尺五寸を突きつけて
一歩も引かぬ心意気!
 
 
これでは生きた 心地もせぬと 音を上げたのは役人だ
命ばかりはお助けを
河岸の群集証人に この建継所をば取り潰す
約束交わす起請文(きしょうもん) 泣きの涙で書きまする
 
 
公儀の役人向こうに回し 大立ち回りの魚屋風情
まこと天晴れ 魚河岸の 勇み肌なら天下一
その男気を知らしめた 
五人は江戸中の評判になりました
 
 
こうして魚河岸を苦しめていた癌は一掃され、
ふたたび平安が戻ってまいりました。
しかし、さすがにこれだけの騒動を起こしては何のお咎めなしとはまいりません。
即刻五人は召捕られ、残念なことに吟味が済む前に五人とも牢死してしまいました。
 
 
魚河岸の人々は彼らの冥福を祈り、
回向院境内に石造の五輪塔を建てて手厚く供養をいたしました。
これが歴史に残る魚河岸の「建継事件」の一幕にございます。
 

2006年05月16日

築地魚河岸昔がたり(27) 灯の消えた魚河岸

   ichidate.jpg
        朝売りの様子


「朝千両の商い」といわれ、魚河岸は吉原、芝居町と共に
江戸を代表する繁昌を誇ってまいりました。
しかし、江戸が終わりに近づくにしたがって、やや元気をなくしてまいります。
どことなく暗雲がただよってきました。
 
 

天保十二年(1841)五月、
おりしも神田明神大祭の準備に沸く江戸市中に、突然の町触れが下されます。
「祭礼の節約禁止」という令でございまして、
庶民の一番楽しみにしていた祭礼が事実上中止となりました。
それにつづき「七夕の祭礼制限」、「打ち上げ花火の中止」、と
幕府は矢継ぎ早に禁令を発します。
以後、十四年までの二年半の間に、何と百七十二もの禁令が出されたという、
これが悪名高き「天保の改革」にございます。
 
 
何しろ水野忠邦という人が、物価の高騰は庶民の贅沢が原因だといって、
着る物、食べる物、箸の上げ下げまでやかましく指図するものですから、
江戸市中は灯の消えたようになってしまいました。
魚河岸でも初売りも消え、七夕の飾りもなくなり、祭りもできないという有様です。
 
 
そればかりではございません。
専売化した問屋が価格協定をして暴利をむさぼっているとして
問屋、株仲間に次々と解散を命じます。
自由競争による価格安定がそのねらいでしたが、
これによって江戸の商人たちは大打撃を受けます。
 
 
幸いにも魚河岸の問屋だけが存続を許されましたが、
事実上、魚河岸株は失われたも同然で、
それまで日本橋だけに認められていた魚市場が自由に開けることとなり、
深川と築地にそれぞれ新市場ができます。
 
 
これまで魚河岸は問屋が自分の持浦である浜方を強固な契約によって縛る、
ということで成り立っておりました。
ところが、新市場が各地の浜に向かって「魚河岸よりも高く仕切りますぜ」
と触れ回ったのと、魚河岸の高慢な仕法に反発を持っていた浜方も多数いたことで、
多くの魚が深川、築地に集まるようになります。
 
 
「天保の改革」は水野忠邦の失脚により頓挫し、
やがて世情も安定してまいりますが、
魚河岸が失った既得権は原に復することはございません。
その後も魚河岸は新市場との確執の年月を重ね、疲弊していくのでした。
 
 
このままでは商売成り立ちがたい。何とかしてもらえないか。
お上としても、天下の魚河岸が灯の消えたままでは具合が悪いということで、
当時南町奉行でありました遠山佐衛門尉景元、ご存知「遠山の金さん」が間に入り、
“この桜吹雪にァお見通しよ……”ともろ肌脱ぐと思いきや、
 
「まあまあ、お前さんがた、仲良くおやりよ」
 
と仲介いたしましたので、
深川・築地を日本橋魚問屋に編入させるという折衷案で一件落着をみたのでございます。
 
 
これが消極的な方策としても、あらたに深川・築地の新興問屋を加えたことで、
魚河岸もかつての賑わいを取り戻すかに見えましたが、
そんな折、世の中がひっくり返るような大騒ぎが持ち上がるのでございます。
 

2006年05月17日

ふくちゃんの謝罪

syazai1.JPG
 
        このたびは太変に
  ご迷或をおかけいたしましたことを
       おわび甲しあげます
 
 
 

syazai2.JPG
  
           背様どうも…
 
 
syazai3.JPG
 
       甲しわけありませんでした
 
 
syazai2.JPG

             ハァ!
 
 
 
 
syazai4.JPG


 
 ~♪ちょいとでました、あやまり野郎がぁ…
 
 
 
 
 
 
         syazai.JPG
 

2006年05月18日

今川焼の恐怖

カマボコ屋のケンジは甘いものに目がない。今日も河岸の屋台店で今川焼を5つ買うと、
 
「おっ! ひとつ多く入ってるぞ。6つもある」
 
今川焼屋のオヤジが数えまちがえたのだろうか、これはもうけだ。
ケンジは至高の喜びに包まれながら片っ端からほおばった。
4つ、5つと食べ、最後のひとつを口に入れようとした時である。
 
「その今川焼を食べることはまかりならん!」

突然、けたたましい声を上げて目の前に現れたのは、一人の山伏である。
 
          yamabushi.jpg
 
「ふははははは、わしは五雷天心今川道士じゃ。
お前の手にしておる今川焼からは、ただならぬ妖気がただよっておる。
それを口にしたらお前、命を落とすぞ!」
 
「何だって、妖気だあ? ふーん、じゃあ食うのやめとくか」
 
「いいか、食ったらホント大変だぞ。絶対悪いことがあるぞ。
食えばうまいがな。だが食うと何かあるぞ。嘘じゃないぞ。食うなよ。
それでも食うというのか」
 
「だから、食わないって言ってるじゃねえか」
 
「だが、お前は食うのだ。餡の甘さにほだされて。ああ、愚かな……。
甘さにたぶらかされた愚かな男。ほうら、甘いよ。餡は甘いよ。
甘いものには毒があるよ。お前の喉に毒が入ってくよ……」
 
山伏はケンジをつかまえて、無理矢理に今川焼を口に押し込んだ。
 
「ぶあっ! ごほっ、ごほっ! 何すんだ、このやろう!」
 
「あーっ。食っちゃったな。あれほどよせと言ったのに。大変だぞお~」
 
山伏はそう言うと韋駄天のようにどこかへ走り去っていった。
 
「何だ、あの野郎は?」
ケンジはキツネにつままれたようにつぶやいた。
 
その帰り道である。
 
「うー、いつのまにかあたりは真っ暗だぞ……うわっ!!」
 
ドスンッ! 突然ケンジは高い所から落ちて尻餅をついてしまった。
見回すと彼は巨大な円形の中にいた。
 
「誰だ、こんなところに穴を掘ったのは!」
 
何とかそこから這い出そうとするが、足元に油がしかれているため、ツルツルすべって上がれない。そうこうするうちに地面が焼けるように熱くなった。
 
「アチチチチ!」
 
あまりの熱さに飛び跳ねていると、
 ザザザザー
頭上から水で溶いた小麦粉が大量に降ってきて、危なく溺れかけた。
すると今度は
「うわあ、アンコだあ!」
 
巨大な餡が彼をモッテリと押しつぶすのであった。
 
 
「このように、世の中には様々な危険があるのです」
 
山伏はそう言い、焼きあがったばかりの今川焼をほうばると、
天から降りてきたロープにつかまりスーッと、どこまでも昇っていくのだった。
 

2006年05月19日

築地魚河岸昔がたり(28)黒船来航

嘉永六年(1853)六月、ペリーひきいるアメリカの軍艦四隻が浦賀に来航。
武力をかさに開国を求めてまいりました。
十二代将軍の家慶は、突然の報にびっくりして熱を出して寝込み、
十六日目に死んでしまったのですから、これは大変です。
 
 
    fukuchan.GIF
     太変ですか

 
 
「異国船がもしも内海に入ってきた時には
定火消役が半鐘を打ち鳴らし、市中に知らせるように」
 
などとお上が町触れを出したので、江戸の町は上を下への大騒ぎとなりました。
これは戦争がはじまるかもしれない、とうろたえる者や途方に暮れる者、
なかには商売を休み、家財をまとめて疎開を始める者もでてまいります。
一方、武具や馬具がいつもの十倍もの値で売れるため、
道具屋のなかには密かに「黒船大明神」とあがめる者もいる始末で、
いやもう江戸全体が騒然となったのでございますな。
 
そんな折、町奉行所から魚河岸にとんでもないお達しがまいります。
 
「浦賀に物見の舟を出し、日々、異国船の動向を探り御番所へ注進せよ」
 
魚河岸側はこれをふたつ返事で引き受けました。
そこには、これを機にお上に点数を稼いで自分達の権益を守りたい、
前回申し上げたように、他市場とせめぎあっている最中でしたから、
まあここで点数を稼ごうという腹もあったのでございましょう。
でも、何よりも血気盛んで物見高い魚河岸の連中ですから、
江戸市中の混乱を見過ごせないという気持ちが強かったのでございます。
 
ツワモノで鳴らした鮪問屋の万公などは、鮪包丁をふりかざし、
 
「もしも捕まった時にァ、おれっちは魚屋だ、魚河岸のモンだ、
と言ったところで相手は異人じゃ分かるめえ。
そん時ァ首と胴体が別れる仕事だ」
 
などと叫んだものですから、みんないきり立ち、
「唐人どもを切り倒せ」「江戸っ子の気前を見せろ」と無闇な気勢を上げるのでした。
 
     hacchouro.jpg
 
その翌朝、万公をはじめとする魚河岸でも特に血気にはやる七人の者、
ワイワイと押送船に乗り込むと八丁櫓の船足も速く江戸湊を抜け、
午後には浦賀にやってまいりました。
 
「何だい、ありゃ。」
 
一同初めてお目にかかる軍艦の威容さ、不気味さに息を飲みました。
黒々とした船体からニョッキリと覗く砲門が今にも火を噴くのではないかと
ビクビクしながら、周囲をグルグル回ります。
まあ、これでお役目も済んだ。まずは帰ろうではないかという時です。
万公がふんどし一丁でやおら立ち上がり、鞘入の鮪包丁を背中に
 
「おらァ、ちょいと唐人の顔を拝んでくるぜ」
と言ったと思うと、一同が「あっ」という間に海へと飛び込んでしまいました。
 
無鉄砲な万公はお得意の潜水術で軍艦の船底近くまで達すると、
ひょいと海面から顔を上げました。
その時、偶然にも軍艦の甲板に出ていた乗組員がおりまして、
かれがひょいと海面を見下ろすと、浪間から急に真っ黒い顔が出てまいりましたから、
大変だ、海坊主だ! と腰を抜かさんばかりに驚いたのでございます。
しかし、びっくりしたのは万公の方も同じで、
はじめて出会った真っ白い顔に慌てて、
 
「ありゃあ、お白粉を塗りたくった化け物だぜ。
おれァ危なく尻子玉を抜かれるところだった……」
 
と魚河岸に戻ってからも、うわ言のようにつぶやきながら床に伏せったということです。
 
数日後、ペリーは錨を上げて去って行きました。
しかし、翌年の正月には、今度は七隻の軍艦と共にしつこくやって来て、
やかましく言うので、幕府はご機嫌取りに吉原の遊女数名を差し出したといいます。
 

2006年05月22日

J.B.ヘイウッド著『Tsukiji Fish Market』のこと(1)

     tsukiji fish market.jpg
  Tsukiji Fish Market   J.B.Haywood著
 
 
俺がJ.B.ヘイウッドの名を知ったのは、今から5年前、
築地市場のなかにある図書館『銀鱗会』で蔵書の整理を手伝っていたときのことだ。
古びたゾッキ本の詰まったダンボールの底からそれは出てきた。

“Tsukiji Fish Market –J.B.Haywood”

クロス製の表紙にシンプルなタイトルが打たれた洋書。
英文をざっとひろい読みすると、どうやら築地市場のガイドブックのようだ。
外国人によって書かれた築地で、しかも1976年刊とあるから、
もう30年も前に出されたものだ。
俺はちょっとめずらしさに興味をそそられたんで、そいつを借りていった。

さて、家に帰って辞書を片手に読んでみると、これがとんでもない内容だった。
その一部を以前にコラムでネタにしたので、 こいつ を読んでもらえれば分かると思う。
要するに西洋人のイメージする、ありがちな東洋的エキゾチズムにあふれた、
誤解された日本の姿がそこに描かれていたのである。

サムライ、ゲイシャ、ニンジャが闊歩する
アナザーワールド築地の描写は、まあ面白いといえば面白いのだが、
しかし、こんなものがガイドブックとして出回っていたなんて……。
earnest-goldwin社という出版社から出されているが、
果たしてどれほど売れたもんだか。
 
    jb.jpg
 J.B.ヘイウッド(J.B. Haywood)
 1921年イリノイ州生まれ。冶金技師、コラムニスト。
 コンラッド大学卒業後、ドラゴニア社の顧問技師として高山採鉱に携わるかたわら、
 コネティカット・トリビューン紙に風刺コラムを連載。地元で評判になる。
 現在、日本の築地に帰化し、早朝から魚を食する生活をしている。
 
 
これが本に記された著者の略歴だ。
帰化というのが、どういういきさつかは知らないが、とにかく日本にいるのだろう。
俺はこのおかしな本の著者にコンタクトをとってみたいと思った。
それで何人かの知人を通じて調べてもらったが、
みな口をそろえて、そんな外国人はきいたことないという。
もしかしたら経歴もでっち上げで、本当はJ.B.ヘイウッドなんて人物は存在しない、
などは、まあ、よくある話だ。
その後、俺は日々の多忙にまぎれて、奇妙な本も著者のことも頭のすみに追いやってしまった。

それが先週のことだ。
図書館で発行している機関紙「銀鱗」のバックナンバーをめくっていると、
昭和59年第2号の通信欄に次のような見出しを見つけた。

 “ゼイムス平森氏死去。築地を愛した青い目の帰化人”

2006年05月23日

J.B.ヘイウッド著『Tsukiji Fish Market』のこと(2)

     seriba. s25.jpg
        J.Bの見た築地市場


  “ゼイムス平森氏死去。築地を愛した青い目の帰化人”

  ……“青い目の日本人”として、市場や地域の人たちから親しまれていた
  ゼイムス平森氏が先月29日、トラホームにより死去した。享年64歳。
  「私はニッポンが大好きだ。ツキジは世界一エキサイトな街である」
  はるばるアメリカのイリノイ州からやってきた氏がそう言って日本に帰化し
  たのは今から26年前のこと。中央区月島に住まいを求め、本名ヘイウッド
  を日本名「平森」とあらためて、まったくの日本人として生活をはじめた。
  新鮮な魚が大好物という氏は、毎朝築地市場へ出かけるのが日課だった。
  世界に名だたる築地市場と日本の文化が歪んだ形で海外に紹介されてい
  るのを嘆き、「世界のツキジ」の真の姿を伝えることをテーマに取材を続けた。
  その成果として、『Tsukiji Fish Market』(1979)をアメリカで上梓する。
  築地を見事に活写した同書が本国で評判を呼んだことで、その続編として、
  『Tsukiji Empire Strikes Back!』を準備中の矢先、惜しまれる死であった。
  告別式は3日、築地善林寺にて、地域の人や市場関係者によってしめやか
  に執り行われた……(『銀鱗』昭和59年2号)
 

 
 
J.Bはすでにこの世の人ではなかったのだ。
もう20年近く前に逝去しているのでは探しようがない。
それにしても、この『銀鱗』の記事によれば、
真の築地を伝えることを目的として、あの本を出版したそうだ。
いったい、ニンジャやダイミョウのいる築地のどこが“真”なのだろう。
J.Bのトラホーム(!?)に罹った目にそれが見えたのかもしれない。
あるいは単にウケ狙いか――アメリカではそこそこ売れたようだし。
どっちみち長いこと築地を取材した結果があの本だというのはいかがなものだろうか。
 
まあ、こんなことは取りに足らない小事として、すぐに忘れてしまうもんだが、
俺はまだ少し興味があったので、さらに調べてみた。
すると、ヘイウッド、という名には覚えがなくとも、
ガイジンの平森さんなら知ってるよ、という市場人に何人かお目にかかれた。
月島温泉で見たよお、とか、ああ、いつも活けもんのセリ場にいた人だね、とか
毎週食べに来てくれましたよ、コハダが好きでしたね、という某寿司店主とか。
誰もが口をそろえて、あいつはイイ奴だった。外人にしとくのはおしいよな、などと言う。
J.Bが築地を非常に気に入っていて、人びとにとけ込んでいたのは確かのようだ。
 
そんな噂をきいたうえで、あらためて本を読み返してみると、
なるほど、変テコな表現こそあれ、とても詳細な築地のガイドブックであることがわかる。
誰も描かなかった築地市場の生の姿を映している点で、
これはむしろ名著といえるかもしれない。
ニンジャやサムライなどは何かの暗喩で、とても重要なものごとを伝えているのでは、
などという考えすら浮かんでくる。
 
いずれにしろ、元外国人の目から見た昭和50年代の築地市場の描写は貴重だし、
このまま埋もれさせてしまうのは惜しいと思った。
そこで俺は、原書の訳文を今後何回かに分けてこのブログで紹介したいと考えている。
 
 
著者はすでにこの世には存在せず、出版元であるearnest-goldwin社も
ネットなどの手段を使っても、その存在が確かめられないため、
この『Tsukiji Fish Market』日本語版は正式なライセンスによるものではない。
あくまでも個人的興味の対象として、もしも第3者に不都合の生じるときは、
ただちに全文削除をもって対処するものとする。
 
また、素人が翻訳するために、訳文の稚拙さ、構成が必ずしも原著のままではない、
などは、どうかご容赦願いたい。
 

2006年05月25日

ダヴィンチ・コードってなんですか

         davinci1.JPG
     ダヴィンチ・コードみましたか?
 
 
      davinci2.JPG
     みましたか? みましたか?
 
 
 
    davinci3.JPG
   みましたか? みましたか? みましたか?
 
 
davinci4.JPG
みましたか? みましたか? みましたか? みましたか?

2006年05月26日

築地魚河岸昔がたり(29)富士を三井の大かがり

  syoumon.jpg
  魚河岸が三井呉服店にあてた起証文
 
 
文久3年(1863)11月23日、
駿河町は三井呉服店、現在の三越デパートより出火、
折からの西風にあおられまして、五千坪を焼きつくす大火災となりました。
これによって魚河岸もまた全焼の憂き目に遭うのでございます。
 
この火事、昼餉の支度をしておりました
同店のカマドより出火したものといわれますが、
その頃世間を騒がせておりました攘夷浪士による放火ではないかと噂されました。
 
 “糸会所取立所、三井八郎右衛門、糸類高騰之罪不届也
  若是正無クバ 天火ヲ以テ焼立申ス可ク”
 
などという張り紙が火災に先立って店前に張られていたともいわれています。。
これが世に言う天誅組張紙事件。当時、豪商がよく狙われたといいますな。
 
さてもこれで黙っていないのが、魚河岸連中でございます。
お前のところがだらしないから、浪士なんぞに狙われるのだ、
と三井相手に談じ込みます。
 

 
「やいやいやいやい、いってえこの始末どうつけてくれるんだァ!」
 
このとき乗り込んだのが相模屋武兵衛、といえば河岸のなかでは知らぬ者のない、
全身に彫り物をほどこした、まことに侠気に富んだ勇み肌でございまして、

「災難はお互い様といえ、もらい火で納魚にぬかりがあったとなりゃあ、
御城の台所をお預かりするこちらとしちゃあ、お上に顔が立たねぇ」
 
びっくりしたのは三井側でございます。
何とか示談にしようと、まずは各問屋に見舞金を差し出す約束をいたしますが、
それでは武兵衛、首をタテには振りません。
 
「天下の魚河岸を丸焼けにして、五両、十両のはした金とは…」
 
結局、十年無利子で助成金を請いたい。一店舗十両として二十万両。
まあ、ふっかけたものでございます。
しかし、そりゃあんまり高い、ということで双方話し合い、
大マケにマケて一万五千両でどうだ、というところで落ち着きました。
 
しかし、さしもの豪商も一万五千両ともなれば、その調達に苦心します。
仲間内の両替商に借用証文を入れて費用をまかないますが、その際に
“何しろあの乱暴な魚河岸から強談にあったもので…”などと言ったそうですから、
昔から魚河岸が世間よりどう見られているか分かるというものですな。
 
借用した大金のうち本当に返済したのは一部だけ。
ほとんどは維新のごたごたもあり“貸し下され”だったといいます。
だいいち、江戸は火事多発の町。魚河岸も平均3年半に一度焼失しているほどで、
いってみれば魚河岸はうまく焼け太りしたようなものです。
 
  駿河町富士を三井の大かがり 裏が五両で表が十両
 
当時、このような落首が詠まれたそうです。
富士の良く見える駿河町の三井で火事が出て、
魚河岸の裏店、表店にそれぞれ五両、十両を見舞金として出した、という意味と、
歌舞伎の曽我兄弟で、富士のすそ野でかがり火が炊かれ、
曽我の五郎(五両)と十郎(十両)が仇討ちをしたという意味がかけてあります。
 
 
魚河岸は“強談”でまんまと金をせしめましたが、
今度は見舞いとして、三井の店先にたいそう立派な板囲いを建てたりします。
まったく変なところで見栄を張るのがいかにも魚河岸風ですが、
三井の方でも「さすがは魚河岸だ、粋なこしらえだ」などと感心したそうです。
 

2006年05月29日

復刻版『築地市場ガイド』 (1)不思議の国ツキジ

      book.jpg
『Tsukiji Fish Market』J.B.Haywood著より 
 
ニッポンは日出ずる国といわれ、夜明けの始まる場所だというが、
とりわけこのツキジ魚河岸では、未だ夜のとばりの上がらぬうちから、
長靴を履いた騒々しいツキジ原住民たちが忙しく動き回り、暁の準備に余念がない。
世界中の朝はここから生まれるのだろう。

 「ア、ソー、ばかやろう! ぼやっとするねい!」

突然、小車を引いた図体の大きな男が後ろからぶつかってくるなり怒鳴った。

 「ドウモドウモ、この下司野郎! 何ィ突っ立ってやがる、コンニチハ!」
 「カイシャ! ぼやぼやしてると、向こう脛かっぱらうぞ! カブキ! スシ!」
 「カラオケ! 手前の足下の明るいうちにとっとと失せやがれ! バンザイ!」
 

 
意味不明の、しかもひどく耳ざわりな口調は、何も喧嘩をしているのではなく、
ここツキジにおける軽い挨拶であると理解するのに、少し時間がかかるだろう。
ツキジ部族の間では“ばかやろう”というのは
「ごきげんいかが?」というのに等しい意味として用いられる。
  
ツキジを行き交う人びとはめいめいにウタマロをぶらさげ(手カギのことか:訳者註)
何とかいう尾頭付の魚を手にし、その黄ばんだ顔の真ん中に胡乱な眼つきがある。
何を考えているのか分からない、あるいは何も考えていない表情。
半開きの口もとにたたえる微笑は、この国の住民に共通するブッディズムの現れであろう。
だが、その行動はきわめて敏速に、すべての動作に抜き差しならぬ緊張感が走る。
 
 
魚河岸は1600年頃にショーグン徳川家康の食事賄いを目的につくられた。
その創始者といわれる森孫右衛門は、戦国時代には徳川家に仕え、
大坂の陣、小田原攻めなどで数々の軍功をあげたというが、その正体には謎が多い。
しかして、その実体は伊賀忍法の総元締め服部半蔵配下の者であることが、
数々の史料によって明らかとなりつつある。
 
孫右衛門の末裔であるツキジの住民たち。
魚に対する超人的能力を有する手だれの集団が、
400年にも及ぶ忍術使いの秘法を受けつぐ者たちであると考えれば、
かれらの不可解な言動についての理解が深まるだろう。
ニッポンにすでにニンジャは存在しないとしても、
不思議の国ツキジには依然としてその血筋が跳梁していることに戦慄を覚える。
 
                                              (つづく)