復刻版『築地市場ガイド』 (1)不思議の国ツキジ

『Tsukiji Fish Market』J.B.Haywood著より
ニッポンは日出ずる国といわれ、夜明けの始まる場所だというが、
とりわけこのツキジ魚河岸では、未だ夜のとばりの上がらぬうちから、
長靴を履いた騒々しいツキジ原住民たちが忙しく動き回り、暁の準備に余念がない。
世界中の朝はここから生まれるのだろう。
「ア、ソー、ばかやろう! ぼやっとするねい!」
突然、小車を引いた図体の大きな男が後ろからぶつかってくるなり怒鳴った。
「ドウモドウモ、この下司野郎! 何ィ突っ立ってやがる、コンニチハ!」
「カイシャ! ぼやぼやしてると、向こう脛かっぱらうぞ! カブキ! スシ!」
「カラオケ! 手前の足下の明るいうちにとっとと失せやがれ! バンザイ!」
意味不明の、しかもひどく耳ざわりな口調は、何も喧嘩をしているのではなく、
ここツキジにおける軽い挨拶であると理解するのに、少し時間がかかるだろう。
ツキジ部族の間では“ばかやろう”というのは
「ごきげんいかが?」というのに等しい意味として用いられる。
ツキジを行き交う人びとはめいめいにウタマロをぶらさげ(手カギのことか:訳者註)
何とかいう尾頭付の魚を手にし、その黄ばんだ顔の真ん中に胡乱な眼つきがある。
何を考えているのか分からない、あるいは何も考えていない表情。
半開きの口もとにたたえる微笑は、この国の住民に共通するブッディズムの現れであろう。
だが、その行動はきわめて敏速に、すべての動作に抜き差しならぬ緊張感が走る。
魚河岸は1600年頃にショーグン徳川家康の食事賄いを目的につくられた。
その創始者といわれる森孫右衛門は、戦国時代には徳川家に仕え、
大坂の陣、小田原攻めなどで数々の軍功をあげたというが、その正体には謎が多い。
しかして、その実体は伊賀忍法の総元締め服部半蔵配下の者であることが、
数々の史料によって明らかとなりつつある。
孫右衛門の末裔であるツキジの住民たち。
魚に対する超人的能力を有する手だれの集団が、
400年にも及ぶ忍術使いの秘法を受けつぐ者たちであると考えれば、
かれらの不可解な言動についての理解が深まるだろう。
ニッポンにすでにニンジャは存在しないとしても、
不思議の国ツキジには依然としてその血筋が跳梁していることに戦慄を覚える。
(つづく)










