築地魚河岸昔がたり(27) 灯の消えた魚河岸

朝売りの様子
「朝千両の商い」といわれ、魚河岸は吉原、芝居町と共に
江戸を代表する繁昌を誇ってまいりました。
しかし、江戸が終わりに近づくにしたがって、やや元気をなくしてまいります。
どことなく暗雲がただよってきました。
天保十二年(1841)五月、
おりしも神田明神大祭の準備に沸く江戸市中に、突然の町触れが下されます。
「祭礼の節約禁止」という令でございまして、
庶民の一番楽しみにしていた祭礼が事実上中止となりました。
それにつづき「七夕の祭礼制限」、「打ち上げ花火の中止」、と
幕府は矢継ぎ早に禁令を発します。
以後、十四年までの二年半の間に、何と百七十二もの禁令が出されたという、
これが悪名高き「天保の改革」にございます。
何しろ水野忠邦という人が、物価の高騰は庶民の贅沢が原因だといって、
着る物、食べる物、箸の上げ下げまでやかましく指図するものですから、
江戸市中は灯の消えたようになってしまいました。
魚河岸でも初売りも消え、七夕の飾りもなくなり、祭りもできないという有様です。
そればかりではございません。
専売化した問屋が価格協定をして暴利をむさぼっているとして
問屋、株仲間に次々と解散を命じます。
自由競争による価格安定がそのねらいでしたが、
これによって江戸の商人たちは大打撃を受けます。
幸いにも魚河岸の問屋だけが存続を許されましたが、
事実上、魚河岸株は失われたも同然で、
それまで日本橋だけに認められていた魚市場が自由に開けることとなり、
深川と築地にそれぞれ新市場ができます。
これまで魚河岸は問屋が自分の持浦である浜方を強固な契約によって縛る、
ということで成り立っておりました。
ところが、新市場が各地の浜に向かって「魚河岸よりも高く仕切りますぜ」
と触れ回ったのと、魚河岸の高慢な仕法に反発を持っていた浜方も多数いたことで、
多くの魚が深川、築地に集まるようになります。
「天保の改革」は水野忠邦の失脚により頓挫し、
やがて世情も安定してまいりますが、
魚河岸が失った既得権は原に復することはございません。
その後も魚河岸は新市場との確執の年月を重ね、疲弊していくのでした。
このままでは商売成り立ちがたい。何とかしてもらえないか。
お上としても、天下の魚河岸が灯の消えたままでは具合が悪いということで、
当時南町奉行でありました遠山佐衛門尉景元、ご存知「遠山の金さん」が間に入り、
“この桜吹雪にァお見通しよ……”ともろ肌脱ぐと思いきや、
「まあまあ、お前さんがた、仲良くおやりよ」
と仲介いたしましたので、
深川・築地を日本橋魚問屋に編入させるという折衷案で一件落着をみたのでございます。
これが消極的な方策としても、あらたに深川・築地の新興問屋を加えたことで、
魚河岸もかつての賑わいを取り戻すかに見えましたが、
そんな折、世の中がひっくり返るような大騒ぎが持ち上がるのでございます。