イイ湯ですか
~♪たーびぃぃ ゆけばぁぁあ
~♪ するがのぉ みちにぃぃ ちゃの かおりぃ~ぃぃぃ
江尸っ子だってね 神由のうまれよ
~♪ バ刀は死ななきゃ なおらない~ぃぃぃ
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~♪たーびぃぃ ゆけばぁぁあ
~♪ するがのぉ みちにぃぃ ちゃの かおりぃ~ぃぃぃ
江尸っ子だってね 神由のうまれよ
~♪ バ刀は死ななきゃ なおらない~ぃぃぃ
良く言えば勇猛果敢、悪く言ったなら無謀な探検家野郎
郡司大尉ひきいる千島開拓団は、無軌道な計画によって51名もの犠牲者を出し、
残るわずか7名の隊員もさいはての占守島で
食料乏しく装備もなく、越冬をじっと耐えるばかりとなりました。

郡司大尉
「もはやこれまでか……天は我を見放したかあぁぁぁ!」
「隊長、それはセリフがちがいます」
そんな絶望的な会話さえきかれるなか、それでも何とか冬を越し、
6月、ようやく迎えの軍艦がその勇姿を現したときには
隊員一同、あふれる涙を禁じえませんでした。
しかし……
「ふははははははははは!」
突然けたたましい笑い声と共に艦から下りてきた怪人物。
その人こそ誰あろう、郡司大尉の親父様、幸田成延その人でございます。
「はははは。おまいら、それきしのことであきらめちゃダメね。勝負はこれからよお。
さあ、前へ進もうではないか!」
この怪人は救助に来たのではございません。
5人の若者を引きつれて応援に来たのです。
さあ探検しよう、前進あるのみだといって聞かないかれを
思いとどめようと説得いたしますが、容易に首を縦には振りませぬ。
あげくは自分が身代わりとなりここに残るんだ、と言い放ってききません。
それはなりません。隊長のお父様に何かあっては一大事。
それよりも私が代わりに残りましょう、と進み出たのは白瀬中尉。
「そうか、よし分かった。じゃあそうしてくれ。ワシの連れてきたワカイシ5人つけるけんね。
ワシは息子と帰るから、後たのんだよ。ふはははははははは!」
そういって怪人親子はさっさと去ってしまうと、後に残されたのは白瀬中尉。
やっと帰れるはずが、何と二年越しの越冬に挑むこととなったのですからたまりません。
この越冬がまたすごいことになり、若い衆3人が壊血病で死亡。
残る者も飼い犬を殺して露命をつなぐ悲惨な状況というなか、
それでも白瀬中尉は氷海を歩いてカムチャッカ半島に上陸、
ついにサケマスの優良漁場を発見しました。
白瀬中尉にしてみれば郡司親子にさんざんな目に合わされたわけですが、
このときの過酷な経験が、後の南極探検に生きたといえるでしょう。
さて、当の郡司大尉はどうなったかというと、
この探検の教訓を生かして、その後もちょっとだけ計画性のある北洋探検を敢行します。
この先はまたそのうちお話しましょう。

“ハンカチ王子”早実の斎藤投手の使ってた
青いタオルハンカチ…
とおんなじものが、偶然ウチにあった。
この夏、冷凍ミカンを包むのに
重宝したラッキーアイテム

三つにたたんで使うのが正統派

明治初年の魚河岸風景
時は文明開化の世でございます。
何しろ、西欧文明は偉い! 凄い! ということにあいなりまして、
一日も早く外国に追いつくことをスローガンに無闇に突っ走っていくのが
明治の御代ということになっております。
明治政府は新時代にふさわしい東京にしようと、それはそれは努力いたしました。
そのひとつが風紀の問題でございまして、
外国人から見て奇異に映るものは、どんどん禁止してしまいます。
男女混浴の禁止、屋外の裸体通行禁止、断髪令、廃刀令、立小便禁止令などでございます。
現代人の目から見れば「そんなことがあったのかよ!」というものですが、
この時代には普通にあったものなのです。
さて、江戸時代には商業統制策から同種の問屋、商店が地域にまとまっておりまして、
なかでも日本橋界隈は商業地の中心、お江戸のメインストリートでございました。
賑わいは明治になっても受け継がれ、金、経済の中心地として急成長していきます。
その際に日本橋大通り筋の魚河岸が非常に不体裁だという理由でヤリ玉にあげられます。
日本橋界隈には政府の高官とか、外国の外交官や商社マンが闊歩するようになりますが、
かれらからすれば何か混雑するし、変な連中は通るし、生臭いし、何とかしてくれい!
ということで苦情が上がったものですから、
政府はすわっとばかりに日本橋から室町表通りまでの市を禁止します。
さらに、市場の喧騒が周囲に触れないように、
朝市のときには、やっと人一人が通れる程度の衝立を設けて、
外部と遮断するようにというお達しが、
明治五年十一月、東京府知事 大久保一翁の名で公布されます。
この衝立は移動可能なもので市が終わると取り外したのですが、
魚河岸というのは世間と隔絶された“窟(シマ)”というイメージは、
この頃からできていったのでしょう。
これ以後、魚河岸は衝立で仕切られた内側が市場で、
その中では自由に商売ができるというように解釈されるようになりました。
また、それによって売場面積が狭くなったため、住居の一部を取り払って売場とします。
そうしてつくられた場所を“新開”と呼び、そこで店を開く者の名をつけて
“誰某新開”と名付けました。
江戸時代を通じて繁昌を誇った魚河岸も、明治以降は外的な変化に対応を余儀なくされ、
なかなかに困窮してまいります。
と同時に、魚河岸の内部にも新しい変化が起きつつありました。
それは、はじめはささいなものでしたが、
やがて、魚河岸そのものをゆり動かす大きな波を起こしていくのでございます。
夏といえばおまつりですか
夜店で伺かたべますか
いいニオイがします 令川焼ですか
たべたいです たべたいです たべたいです たべたいです たべたいです
なぜ アタクシを焼くのですか
何も撃たなくてもいいのに。
ロシア警備艇の銃撃で漁船の方が亡くなられました。
悲痛な事件です。
日本の漁業は近代に資源豊富な北洋に向けて発展しましたから、
ロシアとのせめぎ合いは昔からのことですが、
うまいものを食べるにも、実は命がけで獲ってきていることを、あらためて感じました。

郡司大尉
北洋漁業といえば、明治の探検家として名を馳せた
郡司成忠(ぐんじなりただ)海軍大尉を思い出しました。
明治26年、当時手つかずの状態にあった千島列島に漁業基地としての可能性を見たかれは、
千島への開拓移民団を組織しようと働きかけます。
すると郡司大尉の熱い思いを意気に感じた明治の壮士たち60人余が集まりまして、
そのなかには後に南極探検で有名な白瀬中尉の顔もありました。
「これから千島警備と拓殖のため、占守島に向かって出発します」と高らかに宣言し、
集まった群衆の熱狂的な歓声のなか東京を出港、北の地を目指します。
しかし、この探検は未知の北の海をボート3隻で漕ぎ出すという無謀なもので、
さっそく青森付近で暴風雨に遭うと、17名が死亡、船2隻を失ってしまいます。
軍艦に救助され、何とか函館入りを果しますが、
なぜ始めから軍艦で行かなかったのか、函館まで陸路をとらなかったのか、
ボートで探検するという壮烈さに自己満足したのではないか、と批判されるところですが、
それもひとえに郡司大尉の生来の向こう見ず君たるゆえん。
「これ以上はむり」と断念する団員に、「まだまだ勝負はこれからだ」と説得するかれの頭には
「成功」の二文字しかなかったことでしょう。
実際、凄絶なドラマはこれからでした。
函館に渡ると、そこでも漁業者からボートでの北行の無謀さを説得されまして、
仕方ないや、ということで定期船でひとまず択捉島に渡ります。
ここで運良く「おらが連れてってやるよ」という民間船を見つけて捨子丹島に上陸。
探検ののちに越年を希望した9人を島に残し、またまた幸運によって出会った軍艦で
目的地、占守島へ到着することができました。
ようやく目的地にたどりついたものの、
そこに待っていた運命はまことに悲惨なものでした。
食料も装備も十分ではないまま、探検調査を実施しつつの越冬で、
23名が死亡、捨子丹島の9人も全員死亡。
東京出発以来、実に51名もの犠牲者を数え、
残されたのは郡司、白瀬ら7名を残すのみ。
まさに風前の灯のかれらの運命は!?
というところで、この続きはまた近いうちに。


たまやですか かぎやですか
ダメだ 今日も売れねえ
元号は明治となり、江戸は東亰と改められます。
“上からは「明治」だなどというけれど、「治まるめい」と下からは読む”
などという狂歌は、当時の混乱した世相をよくあらわしております。
江戸はその七割が武家の屋敷地でございましたから、
ご維新で旗本や御家人が一掃され、屋敷が没収ということになると、
市中の大半が荒れて、いっぺんにさびれてしまいました。
麹町や赤坂など屋敷町は、盗賊、辻斬りが横行し、日中でも人通りが絶えたといいます。
膨大な空地に手を焼いた明治政府は、桑茶令といって、
元武家地を二束三文で民間に払い下げ、桑畑、茶畑の開墾を奨励いたします。
渋谷区松涛といえば、現在では瀟洒な高級住宅地ですが、
明治初年にここは広大な茶畑となり、「松涛茶」という東京名産の茶がつくられました。
しかし、これが実に不味い。
あんまり不味いので後世にまで名を残したというくらいでございますから、
大した商売にはならなかったようです。
大半が荒れ地となり、不安な世相も反映して疎開する市民も出てくると、
元禄期には百万を越えた人口も、一気に半分以下となってしまいます。
その影響をもろに受けたのが魚河岸でございまして、何しろ売れ口が悪い。
人がいないのだから売れないのもごもっともでございます。
一方、見たことのない西洋文化の新奇さに人々は目をうばわれました。
ガス燈が灯り世の中が明るくなります。
鉄道が走り世の中が狭くなります。
電信という不思議なものが瞬時に遠隔地に自分の意志を伝えます。
どれも当時の人々には信じられないものばかりでしたから、
その驚きは相当なものだったでしょう。
開化の新しい物事に人々が理解できずにおかしな言動に出た、
などという当時の話がたくさん伝えられておりますな。
写真は魂をとられるとか、電信線には処女の生き血が塗られているとか、
外国船にはさらわれた少女が乗せられているとかの流言が盛んに飛んだりします。
明治五年の「血税事件」なぞはその再たるものでございましょう。
これは徴兵令が出されたときに、政府がフランスの徴兵令を直訳し、
「血税を納めるのは国民の義務」と公布したものですから、
生き血を抜かれると誤解した市民が大騒ぎをしました。
「逆さに吊るされて血を抜かれるのだ」
「軍隊の赤毛布は女の血で染めた」
「婚礼前の処女は樺太へ送られる」などの流言が広まり、
島根、美作、大坂などでは本当に数万人の暴動が起こって多数の死傷者が出るという、
信じられない騒ぎにまで発展したのでございます。
明治の開化は、長い封建社会から解き放され、
夜明けの時代が訪れたかのように言われますが、
実際は上から押しつけるかたちで行われたため、
人々はなかなか理解できずにとまどうのでした。
特に魚河岸の連中に開化も何もあったものではございません。
「どうなっちまうんだろうねえ」とただ首をひねるばかりでございました。
くれてやれ【呉れてやれ】《慣用句》
(魚を)持っていけの意。
かつて築地の仲買は小売の魚屋に対してひどく尊大な態度をとることがあった。
魚屋は仕入れた魚が鮮度が落ちていたり、品が悪かったりすると、
当然、値切りの掛け合いとなるが、番頭と交渉していると、奥から主人の
“呉れてやれ”の一声が飛んでくる。
本当に呉れてやれば河岸の旦那らしくてカッコいいが、
実際には八十銭の価値しかないものを一円で売っておいて、
その二十銭を値切りにきた分だけ「呉れてやる」ということだ。
とくに棒手振(ぼてふり)の行商人が多かった時代には、
魚屋は魚河岸の問屋、仲買から一段低く見られていて、
こんな乱暴な商取引がまかり通っていた。
背様、署中卸見舞甲し上げます
どなた様も、お建やかにお渦ごしくださいませ
魚に氷はいけねえよ
氷というものは、明治のはじめに中川嘉兵衛という人の興した
天然氷製造販売がはじめとされます。
後に機械製氷が現れ、氷産業は明治のベンチャービジネスといえるほどの
一大ブームをまきおこすのですが、氷といえば切っても切れないのが魚。
氷のおかげで魚の保存も輸送も可能になりました。
ところが、そんな便利なものなのに、
魚河岸では何十年ものあいだ、決して使おうとはしなかったんです。
なぜかといえば、「氷は魚には良くない」という奇妙な迷信がまかり通っていたから。
当時は魚に氷を使うのはご法度という暗黙の了解があって
魚というものは籠に入れて一晩夜風にあてて冷やし、
翌日売り出すのが常識だったといいます。おかしなものですね。
それで暑いときはどうしていたかというと、
いまの“COREDO”のところにあったかつての「白木屋」、
ここの掘井戸から冷たい水を汲んで冷やすのが最高! だったんだそうです。

明治初年の白木屋
根のつよい見世と大勢水を汲み
そんな川柳ができるほど、
白木屋の堀井戸は日本橋魚河岸になくてはならない存在でした。
ところが大正時代になると、
たいした理由もなく突然に「こりゃ便利だわい」と、こぞって氷を使い出します。
それじゃそれまでの40年間は何だったのよ!
魚河岸では、あたらしいものを取り入れるのに、世間の何倍もの時間がかかったりするんですね。

“銀のエンゼル”って、3枚くらい集まったところで、
たいてい失くしちゃうんだよね。
子どもの頃に苦労して手に入れた「おもちゃのカンヅメ」は、
“いなかっぺ大将”の絵がらの丸缶で、
本当に缶切りで開けるタイプのやつだった。
何となく開封できないまま、ずっと机の上に置いていたら、
いとこのチビがやってきて、泣いてほしがるので、
呉れてやるはめになっちまった。
そんなことが胸にひっかかっていたので、
大人がチョコボールを買いまくるのもいかがなものかと思ったが、
結局、ずっと後に手にしたのがこれ。
大人のおもちゃのカンヅメは、昔ほどワクワクしなかった。
下のやつは、「おもちゃのカンヅメ」についてくるシートに
エンゼルを貼って送るともらえる「秘密のカンヅメ(キャラメル)」

♪クエックエッ~ と、オルゴールになってる
夏の液は天休観側ですか 良い趣眛をお侍ちですか
馬の首星曇ですか
おや?
ネコの首星曇になりました これは大発貝です!
・・・・・・ ・・・・・・
(復刻版『築地市場ガイド』第7回)

『Tsukiji Fish Market』J.B.Haywood著より
本当をいえばアンタはこんなところに来るつもりはなかった。
連れのデニーが早朝のツキジは面白れえらしいぜ、というから、
ただなんとなくついてきただけの話だ。
ウキウキする相棒についてツキジを歩きながら、
スシ屋の店先や道具屋に並んだ小物にちょっとした興味をひかれもしたが、
だからといってそれほど楽しかったわけではない。
何となれば午前5時のモーニングコールは低血圧のアンタを相当に不機嫌にしていた。
市場の建物に入っていくと、そこには数え切れないほどの魚屋が続いていた。
並べられた魚の種類はそこに海をひっくり返したような賑やかさだ。
子どもの頃に故郷ルイジアナの州立水族館で胸おどらせた遠い日を思い出す。
「うわっ、これオコゼじゃん!」「ソードフィッシュだ! こいつ怒りん坊なんだよな!」
童心に還ったアンタは魚屋の店先から店先へと夢遊病者のようにさまよい歩くのだった。
「おいデニー、見てみろよ! マグロだぜ! でっけえマグロが転がってら」
しかし返事はない。
「デニー…」
いつのまにか相棒とはぐていたのだ。
われに返り、市場のなかをグルグルと探し歩く。
こんなところで別れ別れになっちまったら大変だぞ。
しかし、いくら歩いてもデニーの姿を発見することはできなかった。
行けども行けども魚屋の続くこの世界でオレはいったいどこにいるのか。
自分自身が迷子になってしまったのだ。
「(おい、出口はどこにあるんだよお!)」
道行くニッポン人に尋ねてみるが反応はない。
どいつもこいつもうすら笑いを浮かべて逃げていくばかりだ。
ときたま答えが返ってきても
「(ワタシ、英語しゃべれるできる、ある。少しも、そこにない)」
などという意味不明の言語を発して、やはり逃げていく。
何とか自力でここから出なければならないことに気づいたアンタは
ここから脱出すべく強く心に誓って、一歩を踏み出した。ところが…
魚・オヤジ・魚・オヤジ・魚・オヤジ・魚・オヤジ・魚・オヤジ・魚・オヤジ…
そこは合わせ鏡のように魚と魚屋のオヤジが延々と続く無限世界。
このありえない光景は、自分がアルプスの山中に置き去りにされた以上に
危険な状態であることを感じさせた。
“遭難”
それから何時間たったのだろう。
魚とオヤジの連鎖に疲れ果てたアンタはその場にへたりこんでしまった。
もうどうだっていいや。出られなくてもいいや。
そんな投げやりな気持ちになったときである。
ふいに耳元に波の音をきいた気がした。
いや気のせいではない。たしかにさざ波の調べが市場の喧騒の間からもれ聞こえてくる。
その行方を探すアンタは、魚とオヤジの世界に小さな割れ目があり、
その向こうに水辺が見え隠れしているのを発見した。
あそこが出口にちがいない! ついにこのラビリンスからの脱出できるのか……。
心地よい波の音に包まれて、アンタは再び途方にくれている。
目の前にひろがるのは「スミダリバー」という川である。
その岸壁に立って進退窮まっていた。
後ろに戻ればふたたび無限地獄。前方は行き止まりの岸壁だ。
しかし、そうだ! この川は海に注いでいる。
その海はまた太平洋を隔ててアメリカに、
遠く故郷ルイジアナママのもとまで通じているのだ! オレは帰るぞ!
「ママーッ!」
その瞬間、アンタはスミダリバーめがけて、飛んでいた。

卸売場はプラットホーム
昔は築地市場に鉄道が走っていました。
汐留駅から貨物の引込線が伸びていたんです。
築地市場の卸売場が大きくカーブしているのは、
鉄道のプラットホームを長く確保するためだったんですね。
魚河岸では昔から大山詣だの富士講だの、行楽をかねての遠出が盛んでしたが、
そんなときには東海道線列車が引込線に乗って、市場まで迎えに来てくれたといいますから、
ずいぶんと豪気なものです。
長年、花形だった鉄道もトラック輸送に道をゆずり、
昭和末に廃止されてしまいました。

撤去中の引込線(昭和61年)
もう20年も前のことですけど、明け方にこの貨物線を見ました。
青果門のところに踏切があって、突然止められたんです。
「ああ、ここが市場なんだ」
面白そうだ、てんで、橋(暗渠になるまえの市場橋)のたもとに車を停めて、
生まれてはじめて魚河岸のなかを歩いてみたんですけど、
殺気立ってて恐いし、何か睨まれるし、連れとはぐれるし、
戻ってみたら3重駐車されていて車出せないし、
散々な目にあって、
もう二度と来たくない場所だと記憶したものです。
それなのに自分こんなにかかわるなんて思ってもいませんでした。
あの日のおぞましき想い出も、今では貴重な体験だったりします。