築地魚河岸昔がたり(37)窟に閉じ込められる

明治初年の魚河岸風景
時は文明開化の世でございます。
何しろ、西欧文明は偉い! 凄い! ということにあいなりまして、
一日も早く外国に追いつくことをスローガンに無闇に突っ走っていくのが
明治の御代ということになっております。
明治政府は新時代にふさわしい東京にしようと、それはそれは努力いたしました。
そのひとつが風紀の問題でございまして、
外国人から見て奇異に映るものは、どんどん禁止してしまいます。
男女混浴の禁止、屋外の裸体通行禁止、断髪令、廃刀令、立小便禁止令などでございます。
現代人の目から見れば「そんなことがあったのかよ!」というものですが、
この時代には普通にあったものなのです。
さて、江戸時代には商業統制策から同種の問屋、商店が地域にまとまっておりまして、
なかでも日本橋界隈は商業地の中心、お江戸のメインストリートでございました。
賑わいは明治になっても受け継がれ、金、経済の中心地として急成長していきます。
その際に日本橋大通り筋の魚河岸が非常に不体裁だという理由でヤリ玉にあげられます。
日本橋界隈には政府の高官とか、外国の外交官や商社マンが闊歩するようになりますが、
かれらからすれば何か混雑するし、変な連中は通るし、生臭いし、何とかしてくれい!
ということで苦情が上がったものですから、
政府はすわっとばかりに日本橋から室町表通りまでの市を禁止します。
さらに、市場の喧騒が周囲に触れないように、
朝市のときには、やっと人一人が通れる程度の衝立を設けて、
外部と遮断するようにというお達しが、
明治五年十一月、東京府知事 大久保一翁の名で公布されます。
この衝立は移動可能なもので市が終わると取り外したのですが、
魚河岸というのは世間と隔絶された“窟(シマ)”というイメージは、
この頃からできていったのでしょう。
これ以後、魚河岸は衝立で仕切られた内側が市場で、
その中では自由に商売ができるというように解釈されるようになりました。
また、それによって売場面積が狭くなったため、住居の一部を取り払って売場とします。
そうしてつくられた場所を“新開”と呼び、そこで店を開く者の名をつけて
“誰某新開”と名付けました。
江戸時代を通じて繁昌を誇った魚河岸も、明治以降は外的な変化に対応を余儀なくされ、
なかなかに困窮してまいります。
と同時に、魚河岸の内部にも新しい変化が起きつつありました。
それは、はじめはささいなものでしたが、
やがて、魚河岸そのものをゆり動かす大きな波を起こしていくのでございます。