マグロマン対マグロ兄弟
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(復刻版『築地市場ガイド』第9回)

『Tsukiji Fish Market』J.B.Haywood著より
ところ変われば品変わるといって、
お国柄によって生活習慣やら信仰やらぜんぜん違ってくる。
ましてや食文化ときた日にはえらく差があるのは当然だ。
そこにひどい誤解が生まれることも知るべきであろう。
毎朝ツキジに並べられた魚、その物凄い物量に驚かされる。
毎日ニッポン人はこれを食っちまうのだ。
まさにクレイジーだ。うえーっ、生で食うのかよ!
などと顔をしかめる人がいても不思議はない。
それが食文化というものだ。
食ってみれば理解できるかもしれないが、気持ち悪いって思うならそれまでだ。
どっちみち自由に考えればいいことだ。
しかしツキジはこの国の食文化の最先端であるから
当然異質なものがゴロゴロしていて、不快に感じる向きもあるに違いない。
たとえば店先に並んだ魚をキレイだなー、なんて思いながら見ていると、
突然そこにグニュグニュとのたくった気味の悪いモンスターを発見するだろう。
It (Came From Beneath the Sea)!
悪夢のようなタコではないか。
信じられない! ニッポン人はこいつをどうしようってんだ。
まさか食うというんじゃないだろうな?
アンタの驚きに満ちた視線に気づいたのはタコ屋のオヤジだ。
すかさずかれは水槽のなかから大ぶりのタコをつかみあげると
アンタの目の前にさし出してくる。
やめろ! そんな気味の悪いもの見せるな! あっちへやってくれ!
アンタが怒りに満ちた抗議をしてもムダである。
やけにウケてるぞ、とカン違いしタコ屋のオヤジ。
軟体動物の身体をベロッと広げて見せたり、あろうことか小刀で足先を切ると、
それをくわえて口から入れたり出したりして見せるだろう。
狂ってる! こいつはオレにタコを食わせようってのか!
それとも、もういちど戦争がしたいというのか!
あまりの気味の悪さに小走りに店を離れるアンタ。
しかし興に乗ったタコ屋のオヤジはタコをかかげて追ってくる。
ひえーっ! こんな悪夢を以前に見たことあるぞ。
X-ファイルだったかな、それともロズウェルだったか。
それにしても何でオレがこんな目に…。
通路を2ブロックも走ってようやくホッと息をつく。
もう追ってこないだろう――恐る恐るふり返る。
が、そこには目、耳、鼻、口、顔中の穴から
タコ足をビロビロと伸縮させるタコ屋のオヤジが…こいつはエイリアンか!!
とんでもないものを食っているようでも、そこはお国柄。
ご当地の食文化がは一朝一夕に理解できるものではないが、
だからといってカンタンに否定せずに寛容な気持ちになって見るべきだ。
たとえばクジラが良い例だ。
ニッポン人は昔からこいつが好きで、貴重なタンパク源になっているが、
最近ちょっとばかし風当たりが強く、どうも大ぴらには食えないという風潮だ。
魚屋でもあまり売ってない。
しかしまあ、ご禁制ではなし、ツキジにはちゃんとあるから、たまに食うわけだ。
ひっそりと。寒い季節には「ハリハリ鍋」が最高。身も心も温まる。
グツグツと煮込んで、これをつまむ。ほひほひほひ…ほりゃもう、ふまいねへ…ほひほひ。
で、サケを飲む、これがまた美味い! ほへほへ…
こんな美味いもんをなぜみんなは食わないかね、私は思う。
いちどポール・マッカートニーとか連れてきて、だまして食わしたら面白い。
きっとあまりの美味さにかれは歌いだすだろう。
♪ゐえすたでえ~ ほひほひ ほ~ま~ちゃぼし~そ~ふぁ~らへ~ はひはひ
今目からヅパング倶薬部の魚河岢構座がはじまりました
アタクシもいっしょに勀強しました
魚岢岸構座のことがよくわかりました

魚河岸のような非衛生的で道路混雑の原因が
東京の真ん中にあるのはまかりならん!
何かと避難の的となった魚河岸に、明治二十五年移転命令が下されます。
しかし、何しろ江戸以来三百年の歴史を背負う日本橋魚河岸を
移転させるのは容易なことではございません。
具体的な計画も立たないまま、いたずらに時間を浪費することとなりますが、
その間にも魚河岸内部では非移転派と移転派が対立するという事態にあいなりました。
魚河岸を真っ二つに割った移転問題、
その背景にはどのようなものがあったでしょうか。
徳川の時代に幕府の賄所として保護されてきた魚河岸でしたが、
明治以降は指導監督面においては中途半端な位置に置かれ、
それがために社会の変化から取り残された感がございます。
そこには政治の中心地として東京の行政を掌握しようという国と、
自治権を強めようとする東京市との対立が見え隠れいたします。
明治二十一年の市政町村制公布により翌二十二年、
十五区からなる東京市が誕生しますが、
「市制特例」により国の管轄下に置かれ、市長、助役は国の役人が兼任致しました。
これに対する市民の反対は強く、国の監督から独立しようという
「市制特例廃止運動」が起こり、十年後の三十一年には
ついにこの特例が廃止、市民が市長を選ぶ自治都市東京が生まれます。
しかし、相変わらず重要な行政は国が握っておりまして、
ここに東京市と市民の人気取りのため後押しをする
衆議院、市長官選に固執する官僚勢力、貴族院、そして国とが
ことごとく対立し、衝突をくりかえすことになりました。
魚河岸はそうした政治の動きに翻弄されることになるのです。
明治二十九年、警視庁に魚河岸の監督権が与えられます。
これは国が東京市を抑えて市区改正計画を進めるため、
魚河岸移転をその先鞭とするものでした。
とたんに警視庁は魚河岸に対して矢のような移転命令を出してまいります。
それは交通事情や衛生面についてやかましく言うのであって、
商取引のことはまったく考慮に入れておりません。
これには地元日本橋区が猛反対。
何しろ魚河岸は区のシンボル、移転によって
日本橋界隈の商業への影響ははかりしれないということで盛んに反対をするものですから、
国も強制的に魚河岸移転を進めるわけにもまいりません。
こうしたことは政治上の対立ですが、
これが魚河岸内部の非移転派と移転派それぞれの拠り所になっていきます。
魚河岸の非移転派というのは、魚河岸のなかでも老舗、大店が多く、
「財閥派」とも呼ばれました。
かれらは魚河岸に土地や建物を所有し「板舟権」といって
仲買が市場内で商売をするための場所代を取る権利を有し、
魚河岸で強い発言力を持っておりました。
自分達の既得権を守るためにも移転に大反対をするのは当然でありますな。
それに対する移転派は、明治以降に旗揚げした魚河岸の新興勢力。
「小僧あがり」と呼ばれました。
かれらは「板舟権」などの不平等な既得権から脱して新天地で商売したいと考える人々です。
つまり権利を持つ者と持たざる者との争いでありました。
ただ、魚河岸では年功序列や老舗序列といった封建的な風潮が強く、
移転派たちも何となれば「板船」を取り上げられて商売が出来なくされてしまう。
それゆえ非移転派に対して表立って意見を言うことも出来ない。
表面的には何事もないように商売を続ける、
といった前時代的で陰湿な空気がありました。
外には政治的な確執があり、内部では権力抗争がうごめく。
そのために移転問題は明治から大正へと三十年以上も決着を見ぬまま
長引く事になるのでございます。
各月ですか 月貝をしますか
…… ……
ハッ!
気のせいですか

古本屋で見つけた 日本橋魚河岸の絵葉書
おもちゃっぽい着色写真が楽しい のどかな河岸引けの様子
細かく見てみると いろんなものが映っていて 飽きない

猪牙船ですね

こちらは明治の終わり頃から使われだした発動機船

二人乗りのボート ちっちゃい

艀にたたずむ人
袷を着ているから わりと寒い季節でしょうか

写真の右端に架かっている橋は江戸橋
いまの位置より100メートルばかり下流にありました
これとほぼ垂直に 画面奥に向かって架かるのが荒布橋(あらめばし)
むかし昔、この近所に吉原があって、橋を渡ろうか迷ったことから
思案橋(しあんばし)ともいわれたそうです
左に見える赤っぽい建物は「安田銀行」
納屋(川に面した白い建物)が3階建になっていて
すでにアーケードもガス燈もないことから
明治40年以降、たぶん関東大震災のちょっと前の風景でしょう
だとすると、元祖魚河岸野郎の日本橋魚河岸再現地図と
符号するんじゃないかと思って 調べてみました(つづく)

何かランドマークとなるものを探してみると
看板らしきものが見えます

何て書いてあるのか さっぱりわからない
でも1時間くらい見ていて気づきました
逆に書かれているんですな これ
“長谷川氷室” が正解!

これで日本橋魚河岸再現地図と合わせてみれば
位置関係がわかります

これが平田舟
桟橋の代用なので 河岸に固定されたままです
日本橋川を舟で運ばれた魚が ここで荷揚げされます

この白い建物が納屋といって 倉庫と店舗を兼ねています
川べりを納屋裏 反対側が納屋前通りといって 魚河岸のメインストリート
納屋裏には 食べもの屋さんが軒を並べています
左が「ひのでや」丼ものをあつかう店
右はカレーでおなじみの「中栄」
ここは明治時代には「中江」という名の寿司店でした
この頃に洋食屋さんとなりカレーを始めたといいます

「守屋」はタバコ屋さん
「日本一」はパンやお菓子を扱うお店
商号は“日本一の桃太郎”からとったそうです
築地市場に移っても軽食・喫茶のお店として親しまれてきました
最近「やまざき」という寿司屋さんに変わりました

「寿し大」は築地で大人気の寿司屋さんの先々代
「千葉屋」は日本料理のお店
「禄明軒」は築地でも親しみやすい洋食屋さんですけど
昔は店主・番頭クラスが利用する店で 小僧さんが入ると怒られたといいます
「愛養」はおなじみの喫茶店
当時はミルクホールといいました
日本橋川に面したテラスでカステラやシベリアを食べながら
コーヒーを飲むのが 河岸の甘党連中の日課でした

「請願巡査派出所」交番ですね
などと、細かく見ていくといろんな発見があって 興味がつきないんですけど
うっすらと頭が痛くなってきたので この辺にしておきます
あと 腹も痛いので 明日のブログは休もう

知る人ぞ知るボードゲーム「バンカース」です。
どういうゲームかというと、
マス目をグルグル回って、止まったところの土地を買い、家を建て
そこに入り込んでくる他のプレーヤーからショバ代をせしめる。
で、参加者の誰かが破産するまで回り続けるというサバイバルゲーム。
和製モノポリーですな。

マス目に描かれた昭和30年代っぽい東京の町並みが
郷愁をそそる
銀行の前を通りすぎると給料がもらえたり、
他人の家に入っただけで、全財産の何分の一もとられたりするのは
子ども心にもちょっと解せないものがありましたが、
今でも “配当”といえばK.K.会社を連想してしまうし、
南球場にナイターを観に行きたくなったり、
葬儀の花環を見ると500$もらえるラッキーと思っちゃうわけです。

築地も$250で買うことができる
んっ、マルト?
築地市場の出来る前
江戸時代にこの場所は稲葉対馬守の中屋敷がございました。
その屋敷内には、咳の病を治す爺嫗(じじばば)の石像があって、
咳に悩む参詣者でいつも賑わっていたそうです。
長年病気にかかっていた者が、お参りしたとたんに直った、
これは霊験あらたかだということで、江戸中の評判でした。
石像は、まず屋敷を入って左の所に石の宝殿に鎮座する嫗さまの像があり、
そこから10メートルほど奥に爺さまの像がありました。
なぜ二人を別々にしておくかというと、この爺嫗はどういうわけか仲が悪く、
一緒にすると喧嘩をしてしまうというんですね。
嫗さまは綿帽子を被り、両手を袖の中に入れてうずくまる恰好をして、
とても柔和な表情です。
一方爺さまの方は、やはり綿帽子を被ってうずくまっていましたが、
こちらはちょっとむずかしい顔をしています。
参詣者はまず嫗さまの方に願をかけて、
もしも直らなければ、爺さまの方になにとぞとお参りしたそうです。
それで、めでたく病が直った時には、米と豆と餅あられの煎じ物をお供えしました。
爺嫗の像は市場内、現在の水神様の裏手あたりにあったのではないかと想像できますが、
今はもうありません。
明治の頃に向島の弘福寺に移されました。
一度お参りしたかったなと残念に思っていると、
何と、今でも弘福寺に安置されておりました。
いつのまにか仲直りをして、二人仲良く並んでいます。

あれ、何て言ったかな。
ガラスで出来たやつで、コップの水を飲む鳥。
いつもひょいひょいと揺れていて、たまにガバッとコップにクチバシを突っ込む
その動作を永久に繰り返すオモチャだよ。
今日、デニーズでサラリーマンがおじぎしてるのを見て、
ふと、その鳥の事を思い出しちゃってさ、どうにも頭を離れないんだ。
なぜだろう、こんなにも気にかかるなんて。
ああ、本当になぜだろう。
あの鳥が今、こんなにも欲しいなんて。
「ちびくろさんぼ」って、今も絶版なんだね。
子どもの頃に読んだときの印象が強くて
たまに読みかえしたくなるんだけど。
やっぱり忘れられないのが、
トラが木のまわりをグルグル回っているうちにバターになっちゃうとこで、
さんぼがそいつを家に持って帰るとママがホットケーキを焼いてくれる。
「あんまりおいしくて、何皿もおかわりしました」
すっごくうまそうなんだよ、トラのバター。
座布団のようなホットケーキがあってネコがいれば
日曜の昼下りは幸福に流れていく。
キジトラ模様のネコが尻尾を追いかけてグルグル回ると
「もうすぐバターになるかな」なんて思いながら
やがてこっちが眠くなってきて、
バターのような午睡のひとときに吸い込まれていく。
バター…バター…トラのバターは良いバター……


大正9年魚河岸水神大祭 鮪の山車
魚河岸の移転問題は、非移転派と移転派の根強い対立が続いていました。
非移転派は「財閥派」と呼ばれ、現在地を整備して対応し、
三百年の伝統ある魚河岸を残すことを主張。
そのために日本橋-江戸橋百三十間の河岸地に沿って
幅十五間の桟橋を架設するとともに
四日市河岸の日本郵船会社の倉庫を買収して
売場面積を拡張するという、いわゆる「桟橋案」を提示。
これによって現在の土地家屋の騰貴が見込める、
潮待茶屋、料理屋そのほかの附属商が現在のまま営業できる
などの優位性を打ち出します。
一方の「小僧あがり」と呼ばれた移転派は、
桟橋建設によって見込める売場面積は微々たるものであり、
水面上での営業は健康に支障をきたすなどと「桟橋案」を批判しました。
かれらが出したのは「中州案」というもので、
東京府の移転指定地である中州・箱崎地区が土地買収にも有利であり、
現在地の三倍もの広さを使える上、
汐留駅および南千住駅よりの貨物輸送の利便を図れると主張しました。
そんなこんなで互いに相容れません。
互いに相手の隙をついて退かないという構え。
これはもう市場の業者だけで解決を図っても
法律的にも経済的にも無理だということになり、
日本橋魚市場組合は東京市へ請願書を提出することにいたしました。
これは市場運営の根本的な改革を要望するもので、
閉ざされた魚河岸がはじめて公的利益に訴えた点では注目されます。
ここで魚河岸の主張するところは、整備、移転のいずれにしろ
一地区一市場一営業者の原則で、というものでございました。
当時、各地に市場や問屋が無制限に増加しておりました。
それらは日清戦争以後、国の遠洋漁業奨励策による
国際漁場への進出によって増大した漁業生産者たちが興したものです。
特に大正期に入っての缶詰生産は強大な漁業資本を生み出しました。
かつては生産地問屋を支配しつつ繁栄を見た魚河岸でしたが、
もはや生産地の力に押されていたのでございます。
もっと早くに産地に進出すれば、買魚事業で成功するチャンスはあったのですが、
市場内での競争に明け暮れて、その機会を失いました。
魚河岸では仲買が問屋を兼業しており、需要が活発のため販売に力を入れて、
生産地の変化を見過ごしていたためです。
そこで一地区一市場一営業者というのは、問屋が合併して株式組織になることで、
一場営業権を独占する、いわば堀を固めるという狙いがありました。
これが大正元年九月、農商務省水産局の立案になる「魚市場法案要綱」となり、
渋沢栄一を委員長とする生産調査会に諮られ、
一時原案通りに採択されますが、生産者、消費者からの反対が強く、
結局「魚市場法案」は国会提出を断念し陽の目を見ずに終わりました。
その結果として、魚河岸内部での非移転、移転をめぐる争いに拍車がかかり、
権利をめぐる闘争はますます泥沼化の様相を呈していくのでございます。
長靴というのは、河岸で生まれたそうだ。
ゴム長がなかった時分には革製で、
1足の値段が大卒の初任給の4分の1くらいっていうから、
いまの4,5万円!
た、高え…

だからその頃は、長靴はけるのは店主か番頭クラス。
河岸の若いモンにとっちゃ「いつかはオレも長靴をはいてやるぜ」
というのが、モチベーションだったそうだよ。
昭和のはじめのお話。