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築地魚河岸昔がたり(41) 「財閥派」と「小僧あがり」

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      大正9年魚河岸水神大祭 鮪の山車
 
 
魚河岸の移転問題は、非移転派と移転派の根強い対立が続いていました。

 
 
非移転派は「財閥派」と呼ばれ、現在地を整備して対応し、
三百年の伝統ある魚河岸を残すことを主張。
そのために日本橋-江戸橋百三十間の河岸地に沿って
幅十五間の桟橋を架設するとともに
四日市河岸の日本郵船会社の倉庫を買収して
売場面積を拡張するという、いわゆる「桟橋案」を提示。
これによって現在の土地家屋の騰貴が見込める、
潮待茶屋、料理屋そのほかの附属商が現在のまま営業できる
などの優位性を打ち出します。


一方の「小僧あがり」と呼ばれた移転派は、
桟橋建設によって見込める売場面積は微々たるものであり、
水面上での営業は健康に支障をきたすなどと「桟橋案」を批判しました。
かれらが出したのは「中州案」というもので、
東京府の移転指定地である中州・箱崎地区が土地買収にも有利であり、
現在地の三倍もの広さを使える上、
汐留駅および南千住駅よりの貨物輸送の利便を図れると主張しました。


そんなこんなで互いに相容れません。
互いに相手の隙をついて退かないという構え。
これはもう市場の業者だけで解決を図っても
法律的にも経済的にも無理だということになり、
日本橋魚市場組合は東京市へ請願書を提出することにいたしました。


これは市場運営の根本的な改革を要望するもので、
閉ざされた魚河岸がはじめて公的利益に訴えた点では注目されます。
ここで魚河岸の主張するところは、整備、移転のいずれにしろ
一地区一市場一営業者の原則で、というものでございました。


当時、各地に市場や問屋が無制限に増加しておりました。
それらは日清戦争以後、国の遠洋漁業奨励策による
国際漁場への進出によって増大した漁業生産者たちが興したものです。
特に大正期に入っての缶詰生産は強大な漁業資本を生み出しました。

かつては生産地問屋を支配しつつ繁栄を見た魚河岸でしたが、
もはや生産地の力に押されていたのでございます。
もっと早くに産地に進出すれば、買魚事業で成功するチャンスはあったのですが、
市場内での競争に明け暮れて、その機会を失いました。
魚河岸では仲買が問屋を兼業しており、需要が活発のため販売に力を入れて、
生産地の変化を見過ごしていたためです。


そこで一地区一市場一営業者というのは、問屋が合併して株式組織になることで、
一場営業権を独占する、いわば堀を固めるという狙いがありました。
これが大正元年九月、農商務省水産局の立案になる「魚市場法案要綱」となり、
渋沢栄一を委員長とする生産調査会に諮られ、
一時原案通りに採択されますが、生産者、消費者からの反対が強く、
結局「魚市場法案」は国会提出を断念し陽の目を見ずに終わりました。


その結果として、魚河岸内部での非移転、移転をめぐる争いに拍車がかかり、
権利をめぐる闘争はますます泥沼化の様相を呈していくのでございます。