築地魚河岸昔がたり(40)移転か存続か? 揺れる魚河岸

魚河岸のような非衛生的で道路混雑の原因が
東京の真ん中にあるのはまかりならん!
何かと避難の的となった魚河岸に、明治二十五年移転命令が下されます。
しかし、何しろ江戸以来三百年の歴史を背負う日本橋魚河岸を
移転させるのは容易なことではございません。
具体的な計画も立たないまま、いたずらに時間を浪費することとなりますが、
その間にも魚河岸内部では非移転派と移転派が対立するという事態にあいなりました。
魚河岸を真っ二つに割った移転問題、
その背景にはどのようなものがあったでしょうか。
徳川の時代に幕府の賄所として保護されてきた魚河岸でしたが、
明治以降は指導監督面においては中途半端な位置に置かれ、
それがために社会の変化から取り残された感がございます。
そこには政治の中心地として東京の行政を掌握しようという国と、
自治権を強めようとする東京市との対立が見え隠れいたします。
明治二十一年の市政町村制公布により翌二十二年、
十五区からなる東京市が誕生しますが、
「市制特例」により国の管轄下に置かれ、市長、助役は国の役人が兼任致しました。
これに対する市民の反対は強く、国の監督から独立しようという
「市制特例廃止運動」が起こり、十年後の三十一年には
ついにこの特例が廃止、市民が市長を選ぶ自治都市東京が生まれます。
しかし、相変わらず重要な行政は国が握っておりまして、
ここに東京市と市民の人気取りのため後押しをする
衆議院、市長官選に固執する官僚勢力、貴族院、そして国とが
ことごとく対立し、衝突をくりかえすことになりました。
魚河岸はそうした政治の動きに翻弄されることになるのです。
明治二十九年、警視庁に魚河岸の監督権が与えられます。
これは国が東京市を抑えて市区改正計画を進めるため、
魚河岸移転をその先鞭とするものでした。
とたんに警視庁は魚河岸に対して矢のような移転命令を出してまいります。
それは交通事情や衛生面についてやかましく言うのであって、
商取引のことはまったく考慮に入れておりません。
これには地元日本橋区が猛反対。
何しろ魚河岸は区のシンボル、移転によって
日本橋界隈の商業への影響ははかりしれないということで盛んに反対をするものですから、
国も強制的に魚河岸移転を進めるわけにもまいりません。
こうしたことは政治上の対立ですが、
これが魚河岸内部の非移転派と移転派それぞれの拠り所になっていきます。
魚河岸の非移転派というのは、魚河岸のなかでも老舗、大店が多く、
「財閥派」とも呼ばれました。
かれらは魚河岸に土地や建物を所有し「板舟権」といって
仲買が市場内で商売をするための場所代を取る権利を有し、
魚河岸で強い発言力を持っておりました。
自分達の既得権を守るためにも移転に大反対をするのは当然でありますな。
それに対する移転派は、明治以降に旗揚げした魚河岸の新興勢力。
「小僧あがり」と呼ばれました。
かれらは「板舟権」などの不平等な既得権から脱して新天地で商売したいと考える人々です。
つまり権利を持つ者と持たざる者との争いでありました。
ただ、魚河岸では年功序列や老舗序列といった封建的な風潮が強く、
移転派たちも何となれば「板船」を取り上げられて商売が出来なくされてしまう。
それゆえ非移転派に対して表立って意見を言うことも出来ない。
表面的には何事もないように商売を続ける、
といった前時代的で陰湿な空気がありました。
外には政治的な確執があり、内部では権力抗争がうごめく。
そのために移転問題は明治から大正へと三十年以上も決着を見ぬまま
長引く事になるのでございます。