築地魚河岸昔がたり(43)米騒動と中央卸売市場

春斉年昌「日本橋魚がし天皇祭団扇投之図」(部分)より
デモクラシーという言葉は平たくいえば“民主主義”なのでございますが、
その頃は天皇制ですから、主権は“民”と言ってしまうと、これがうまくない。
そこで“民本主義”なんぞと苦し紛れの解釈となりました。
ここらへんにこの時代の民衆運動の限界があるという人もおりますが、
それでも民衆の力によって内閣も倒れる、政治も変わるというのは
歴史上始まっていらいのことでございまして、
時代をゆり動かす大きな高まりを見せたのでございます。
そのひとつのピークとして起こったのが「米騒動」。
第一次大戦の好景気で米価が高騰する。
またその大戦景気で生まれた成金たちが米相場に投機したために
さらに高騰するということから、米の値段がどんどん騰がってまいりまして、
これでは生活なりがたし、というわけで、
大正6年7月23日、富山県魚津町の住民が起ち上がって起こった打ちこわしは、
すぐに全国へと波及し、合計369箇所で暴動、参加人数100万人、
軍隊の出動回数も100回以上にのぼりました。
これはもう放っておけない――国民生活の安定をはかる社会施設の設置が急務である、
ということで各地に公設市場というのがつくられます。
つまり官主導の市場で、一般商店に比べて平均二割程度安く商品を売りました。
これにはお客は喜びますが、業者からの反対は根強いものがありまして、
結局うまくいかずに終わります。
どうもこれは全国一律に決まった法律を整備するのが先決だ、ということになり
大正10年12月「中央公設市場設置に関する建議」が議会に提出されます。
「生活必需品を廉価に提供する道は、中央市場を設けて直接産地から購入し、
需要者に分配することにある」
これによって社会情勢にかかわらず、一部業者や投機筋の価格操作を廃して、
安定的に生活物資を行渡らせようという主旨のものでした。
これが翌年、「中央卸売市場法」として成立いたします。
このときに白羽の矢が立ったのが魚河岸でございます。
幕府へのお魚上納という大義名分を失くして、日々是販売競争に血道を上げていた
魚河岸に、いわば存在意義が生まれたといえるものでしょう。
しかし、魚河岸では長年のしきたりといいますか、
いわば既得権益というものが幅を利かせておりましたから、
公共の施設に鞍替えだなどといっても、
そうすんなりとはいかなかったのでございます。