築地魚河岸昔がたり(51) 使用料なら払わない

大正12年開場当時の場内図
大正十二年十一月一日午前十時、
軍楽隊のブンチャカ鳴るなか、盛大に築地新市場への入場パレードが行われました。
世界に名だたる築地市場の、これが誕生の瞬間、とあいなるわけでございますが、
鳴り物入りの華やかさはここまでで、
裏ではさまざまに複雑な問題をはらんでのスタートを余儀なくされたのでございます。
このとき開場した東京市魚市場はいわば臨時市場で中央卸売市場への準備段階でした。
東京市はいまだ海軍省との間で土地払下げを交渉中であり、
場内には焼け残った建物の残骸も、春風・秋風と称される池もそのままです。
そこで、その周囲にバラック建ての仮売場をつくってはみたものの、
一店あたり間口三尺、奥行き九尺という江戸時代の長屋並みのスペースしかとれません。
しかも、海岸沿いの部分では人の行き交いも悪く、売場の不公平感も否めない。
快適に営業をできるとはとてもいえないところに押し込められたのですから
不服を言うものが多数出てまいりますのも当然でございます。
しかしここはとくに大問屋たちが大変に譲歩しまして、何とか収容にいたりました。
本市場ができるまでのわずかの辛抱だから、すぐに広いところへ行ける。
そういうことになっておりましたが、その後の市場問題の紛糾で、
業者らはこれから十年もこのバラック営業を続けることになろうとは夢にも思いません。
ところで、魚河岸の業者らがこの築地市場に収容されたことには特別な意味を持ちます。
それは市場開設権というものでございます。
長年営業を続けてまいりました日本橋はもちろん自分らの土地であり、
芝浦の仮市場ですら、自発的に開いたもので、どちらも開設者といえば魚河岸自身でした。
しかし、市のつくった市場施設に入るということは、
中央卸売市場整備の一環に組み込まれたことでございまして
魚河岸の開設権はこのとき、白紙委任的に東京市にうつったとみるべきでありましょう。
しかしそのことに思いいたる業者は皆無でございました。
あるいは市にも考えがなかったか、市場法に準拠する規制もまったく行われず、
築地に移ってもしばらくは日本橋魚河岸と何ら変わらない商売が続けられました。
築地市場は大震災後の善後措置ということで業者には無料で使用させておりましたが、
何しろここは政府の融資を受けて建設したので、いつまでもロハにはまいりません。
農商務省からのお達しもあって、大正十四年四月より使用料を取ることになります。
そこでビックリしたのが魚河岸連中、ことに大問屋でございました。
日本橋時代に土地持ち、家持ち、権利持ちでやってきたかれらは
何しろ今まで使用料なぞというものは払ったことがございません。
それどころか、逆に板船を貸して公道を使用する者からショバ代を取っておりました。
この市場移転でそうした庭銭が取れなくなったばかりか、市場に居住もできないから、
自宅と売場の二重生活で費用がかかって困ると考えておりました。
そこへ持ってきて、さらに使用料を取るとはあっては我慢がならない、というわけです。
いっぽう権利を持たない業者にとっては、板船一枚三円で借りていたものが、
一ヶ月五円で店舗が借りられるなら、むしろ安いくらいであり、
何しろ市場の権力者にペコペコしないで堂々と商売ができるのは嬉しいことでした。
しかし組合での勢力は日本橋以来の有力者にありましたから、
使用料なら払わないよ、というのが全体の総意として決まりました。
あるいは払ってもいいが、何年後に建設費を償却したなら、
当然、施設は自分らのものにしてくれ、という態度でゴネます。
これは市が魚河岸に対して、中央卸売市場についての説明不足と
板船、平田などの補償問題を放置し続けていることに原因があったといえるでしょう。
その後、市会で市場使用料が上がると魚河岸兄イが大挙押し寄せて威圧行動に出る、
果ては市会議員宅を襲撃暴行の蛮行におよぶという、
魚河岸伏魔殿ここにあり、との大恥を世間にさらすのでございました。









