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2007年01月26日

築地魚河岸昔がたり(51) 使用料なら払わない

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              大正12年開場当時の場内図
 
大正十二年十一月一日午前十時、
軍楽隊のブンチャカ鳴るなか、盛大に築地新市場への入場パレードが行われました。
世界に名だたる築地市場の、これが誕生の瞬間、とあいなるわけでございますが、
鳴り物入りの華やかさはここまでで、
裏ではさまざまに複雑な問題をはらんでのスタートを余儀なくされたのでございます。
 

 
このとき開場した東京市魚市場はいわば臨時市場で中央卸売市場への準備段階でした。
東京市はいまだ海軍省との間で土地払下げを交渉中であり、
場内には焼け残った建物の残骸も、春風・秋風と称される池もそのままです。
そこで、その周囲にバラック建ての仮売場をつくってはみたものの、
一店あたり間口三尺、奥行き九尺という江戸時代の長屋並みのスペースしかとれません。
しかも、海岸沿いの部分では人の行き交いも悪く、売場の不公平感も否めない。
快適に営業をできるとはとてもいえないところに押し込められたのですから
不服を言うものが多数出てまいりますのも当然でございます。
しかしここはとくに大問屋たちが大変に譲歩しまして、何とか収容にいたりました。
 
 
本市場ができるまでのわずかの辛抱だから、すぐに広いところへ行ける。
そういうことになっておりましたが、その後の市場問題の紛糾で、
業者らはこれから十年もこのバラック営業を続けることになろうとは夢にも思いません。
 
 
ところで、魚河岸の業者らがこの築地市場に収容されたことには特別な意味を持ちます。
それは市場開設権というものでございます。
長年営業を続けてまいりました日本橋はもちろん自分らの土地であり、
芝浦の仮市場ですら、自発的に開いたもので、どちらも開設者といえば魚河岸自身でした。
しかし、市のつくった市場施設に入るということは、
中央卸売市場整備の一環に組み込まれたことでございまして
魚河岸の開設権はこのとき、白紙委任的に東京市にうつったとみるべきでありましょう。
しかしそのことに思いいたる業者は皆無でございました。
あるいは市にも考えがなかったか、市場法に準拠する規制もまったく行われず、
築地に移ってもしばらくは日本橋魚河岸と何ら変わらない商売が続けられました。
 
 
築地市場は大震災後の善後措置ということで業者には無料で使用させておりましたが、
何しろここは政府の融資を受けて建設したので、いつまでもロハにはまいりません。
農商務省からのお達しもあって、大正十四年四月より使用料を取ることになります。
そこでビックリしたのが魚河岸連中、ことに大問屋でございました。
日本橋時代に土地持ち、家持ち、権利持ちでやってきたかれらは
何しろ今まで使用料なぞというものは払ったことがございません。
それどころか、逆に板船を貸して公道を使用する者からショバ代を取っておりました。
この市場移転でそうした庭銭が取れなくなったばかりか、市場に居住もできないから、
自宅と売場の二重生活で費用がかかって困ると考えておりました。
そこへ持ってきて、さらに使用料を取るとはあっては我慢がならない、というわけです。
いっぽう権利を持たない業者にとっては、板船一枚三円で借りていたものが、
一ヶ月五円で店舗が借りられるなら、むしろ安いくらいであり、
何しろ市場の権力者にペコペコしないで堂々と商売ができるのは嬉しいことでした。
 
 
しかし組合での勢力は日本橋以来の有力者にありましたから、
使用料なら払わないよ、というのが全体の総意として決まりました。
あるいは払ってもいいが、何年後に建設費を償却したなら、
当然、施設は自分らのものにしてくれ、という態度でゴネます。
これは市が魚河岸に対して、中央卸売市場についての説明不足と
板船、平田などの補償問題を放置し続けていることに原因があったといえるでしょう。
その後、市会で市場使用料が上がると魚河岸兄イが大挙押し寄せて威圧行動に出る、
果ては市会議員宅を襲撃暴行の蛮行におよぶという、
魚河岸伏魔殿ここにあり、との大恥を世間にさらすのでございました。
 

2007年01月25日

築地魚河岸昔がたり(50) 嵐の金曜日

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            明治期の築地
 
 
「皆どうしているだろう。あれからどうなったろうか」
 
 
小網源太郎は眼前に広がる海原を見つめながら何度もつぶやきました。
かれは一路日本へと向かう客船熱田丸の船上の人でした。
各国市場視察の旅にでた小網は、北米をひと回りした後、フランスへ渡ります。
そして九月二日、パリで東京の大震災を知り、一時は帰朝を繰り上げようとします。
しかし、外国市場の視察はまたとない機会と思い直し、家族の安否を確認すると、
あれからマルセーユ、ニース、ローマ、ナポリ、ベニス、ミラノ、ロンドンと、
さらにヨーロッパ各国の市場をつぶさに見て回り、
十月、英国リバプール、アルバートドックを出港、帰路につきました。
 

 
出発前、かれは盟友安倍小治郎とのあいだで新市場建設をとくと語り合いました。
今や時勢は大きく変わった、それを見すえての洋行、そして、その矢先の大震災。
雪崩を打ってあたらしい時代へ突入するとき、それに揺り動かされる人びとのなかに、
かれもまたおりました。
 
 
「こんなときに小網がいたなら」
混乱の市場内では小網待望の声が広がっていました。
何となれば小網源太郎は非移転派の巨頭です。
その強力な存在感で事を解決してくれるにちがいない、と非移転派は考えました。
しかし、一部のあいだでは小網が洋行を期にその立場を変えることも知られていました。
十月十三日、小網は神戸に着。およそ一年ぶりの帰国を果たします。
はるばる東京からかれを迎えたのは、友人と非移転派の仲間でした。
 
 
その頃、なお日本橋への復帰をはかる非移転派の面々、
今津源右衛門、高根屋藤吉、米倉嘉兵衛らは、組合仮事務所となっている
芝日の出町の月見楼に移転派幹部をたずね、旧市場復帰を再度掛合いにまいります。
安倍小治郎、池田治三郎、増田藤吉、山口米造ら移転派幹部がこれに応答しますが、
結局物別れに終わったことから、両者の対決は避けがたいものとなりました。
 
 
そして築地入場を翌日に控えた十一月三十日、
芝三田の東洋軒で開かれた組合総会は異常な空気のなかで紛糾します。
東京市田島助役から築地市場について説明があり、
いよいよ決議しようという時になって、一部移転反対業者が引延し策に出ました。
築地に行っても人数が多くなって、あまり儲からないぞ、
口々に叫びまして、決議にいたりません。
これでは総会はまとまらないということで、場所を芝山内の三縁亭に移して再開。
しかし、ここでも反対派が総会をボイコットします。
 
 
「役員だけ椅子にかけているとは何だ。オレたちにもよこせ」
と議長の椅子を持って行ってしまったり、
「総会を開きます」と宣言すると、あちこちから怒鳴り声が飛び交う始末。
見渡せば会場には反対派の連中がずらりと占拠しています。
「総代以外の人は出て行って下さい」と言えば「議長横暴!」と騒ぎます。
下手に口を出すと殴られるという具合で、またしても中断。
 
 
ついに反対派が暴力団をつれてくるというので、
とうとう警官隊がやって来て会場を取り囲む一方、
市場の顔役である佃政親分の手の者が警戒にあたるという、ものものしさとなりました。
これではどうにも収拾がつかないということで、
臨席していた小網らが不穏分子を一人づつ別室に呼んで説得します。
それでどうにか、本当に血を見る騒ぎにはいたりませんでしたが、
築地移転が決議され、総会を終えた頃にはすでに午前一時を回っておりました。
すでに新市場開場式の当日のことでございます。
 

2007年01月23日

築地魚河岸昔がたり(49) 築地開場までの動き

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  築地市場が建つ前の海軍技術研究所
 
 
芝浦での仮営業は、とりあえず商売ができるならば、というものでしたが、
営業三ヶ月目ともなれば、こんな屋根もない場所で冬を越すのかと、
業者たちの間にも不安が広がってまいりました。
 

 
魚市場組合の池田三治郎、安倍小治郎らは、市場の移転先用地の視察を続けましたが、
最初に訪れた築地の海軍技術所跡地が立地といい、広さといい
申し分ないということに落ちつきました。
しかし、そこにも震災の傷跡が生々しく残っており、
落ちた橋、コンクリートやレンガの残骸がそのままに放置され、
場内には大きな池がありました。
そこを整備して本格的な市場建設を完了させるには相当な労力が必要と思われます。
それでも、用地の一部を使うだけでも芝よりも面積が取れるということで、
東京市の田島助役に頼んで海軍省に直接交渉してもらったところ、
研究所では適当な替地があればという条件付きで了承にいたりました。
これで東京市は魚河岸を芝浦から築地に移転させることに決めます。
 
 
いっぽう警視庁の道路使用禁止という行政措置で、
魚河岸の日本橋復帰が未遂に終わったことは、非移転派に大きなショックを与えました。
もう日本橋には戻れない、ということが、かれらにも次第にはっきり判ってきたのです。
日本橋で営業再開を試みて追い払われた人びとのうち、二十軒ほどの業者は、
南千住汐留の隅田川貨物駅の近くに市場を開きます。
産地荷受や、南千住の有力者、千住製氷会社などの後援を得て、
約一万坪の敷地を借りて、主に隅田川貨物駅に入ってくる魚荷を扱いました。
これがその後、北魚市場となり、現在の千住魚市場へと変遷していくこととなります。
 
 
魚河岸内部では移転派と非移転派との議論は激しく続いておりました。
むしろ日本橋に戻れない、という空気が広がるにつれて、
皆、瞞されたのではないかという疑念にかられ、役員横暴の声も上がってまいります。
それはこういうわけです。
 
 
行政側は混乱に乗じて一気に市場問題の解決を図ろうとブイブイいわせておりましたが、
甘粕事件や社会主義者弾圧などの治安維持を名目とした当局の行過ぎが世評を悪くすると、
警視庁の市場に対する強制措置もそれとなく緩み、
それとともに市の市場移転問題への取組みも急に腰砕けとなってしまいました。
そこでまあ、せっかく法律があるんだから、そいつで穏便に行こうじゃないか、
と、ここで先だって出された中央卸売市場法が持ち出されることにあいなります。
 
 
市場の皆さん江
今まで営業していた者の営業継続は認めるし、不公平なことはしないから安心してね。
でも名義だけで実際に営業していない者はダメだし、新規営業も認めんヨ。
あと、問屋の数は漸次減少させるつもりだから、縁故などでつるんでくれたらいいな。
仲買は認めない。でも大量に荷を扱う市場で慣習的に必要な場合は仕方なく認めるよ。
でも変な奴はダメね。信用ある者に限るよ。それから問屋と仲買の兼用も絶対ダメ。
あと権利の譲渡もみとめないからね。売買はセリ売が原則で、
荷主、問屋、仲買または小売商の間は全部現金取引にしてくれよ。
頼むよ、守れなきゃ営業停止だからね         東京市より
 
 
まあ、こんなような内容の、もう少しきちんとした文面の通牒が魚河岸に出されます。
すると魚河岸連中は「何だこりゃあ!」となります。
これを「業者」の整理だ、と受け取ったんですね。
規制をするなら、それ以前に板舟権などの営業権を補償しろ、非移転派は声を荒げます。
 
 
さらに東京市の田島助役は農務省の課長をしていた頃に、
築地浜離宮脇の埋立地に魚河岸の移転を画策していたとの話が伝わったものですから、
「いっぱい食わされた!」魚河岸は騒然となります。
 
 
十二月一日が築地市場への業者収容、つまり築地市場誕生となる予定でしたが、
その日は血を見ずには収まらないだろう、とのもっぱらの噂でした。
 

2007年01月22日

築地魚河岸昔がたり(48) ちょうどいい、潰してしまえ

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            芝浦市場の荷揚げ風景
 
 
芝浦の仮設市場で商売をはじめたのは主に移転派の問屋たちだったのですが、
一方の非移転派は、長年住み慣れた日本橋を捨てる気はさらさらありません。
地主であり家主でもあるかれらは、焼け跡に戻って家を建てることは自由です。
だから、焼けても日本橋でまた商売を始められる、そう考えていました。
 

 
実際に多くの問屋がガレキの売場を掘り起こし、熱い灰をかきたてて、
以前に店のあったところにバラックを建てて商売をはじめようとします。
ところがすぐに警視庁から営業停止命令が届きます。
理由は道路使用禁止。つまり公道を売場に使用する市場の慣習を禁止するものです。
ならば家屋内でのみ販売する、といったところで許可はおりません。
 
 
おりしも戒厳令という異常事態にあって警視庁は強硬でした。
非移転派の有志は旧魚河岸内で再開のための集会を開こうとしますが、
戒厳令下にあって集会はすべて禁止。これがかないません。
それから何度も店を開こうとし、実際に魚の荷を呼ぶこともしますが、
そのたびに警察によって追い立てられ、ついに売場再開は実現しませんでした。
警視庁にとって魚河岸は、長年にわたって治安、衛生の上での大問題。
これを解決するのに絶好の機会と見たわけです。
 
 
警視庁のキアイの入れ方を見て、その尻馬に乗ったのが東京市でございました。
魚河岸が自分らでとりあえず芝に仮市場を開いたし、
一方で市内各所の他市場も本所横網の江東仮市場に収容できた。
後は神田多町の青果市場をどうにかしてやれ、ということで、
警視庁に道路使用禁止のお達しを出してもらって業者を強制撤去させると、
秋葉原駅南口一帯に早々に仮設市場をつくります。
 
 
多町の青果業者も焼け跡にバラックを建てて営業を試みたのですが、
魚河岸同様にやられたのでは手も足も出ません。
最早移転止むなしを覚悟いたしました。
ところが、ここで鉄道側からクレームがつけられます。
市がつくった仮設市場は鉄道用地でございますので、お貸しできませぬ。
とにかく早急に移転を進めようとした東京市は、
ナニ、震災のどさくさで建物さえ建てれば何とか話がつく、とタカをくくったのか
開場の手続きをどんどん進め、関係方面に案内まで出しておりました。
しかし何を間違えたか、鉄道大臣山之内一次にまで案内状を送りつけたものですから
受け取った山之内鉄相が「オレ、きいてねえよ」とヘソを曲げてしまい
せっかくこしらえた仮市場を壊す、という大失態を演じることになりました。
 
 
混乱に乗じて一気に市場問題を解決しようという
行政側の拙速さが勇み足となったわけですが、
後になって、よくよく考えてみれば、
魚市場組合の移転派の役員たち、早々に芝の仮設市場での営業を進めた人たちも、
同じように勇み足ではなかったでしょうか。
この際だから、移転を進めてしまおう、という意図がなかったのか。
 
 
歴史にIFがあったならと考えますと、
震災直後に魚河岸の業者が一致団結して、バラック建てでも良いから、
日本橋に一斉に売場を開いたとします。
そして、しかるべき後に、閉鎖止むなしならば、その補償をせよ、と迫ったなら、
この後、中央市場開場までに次々に沸き起こってくる問題も、
ずいぶんと違ったかたちをとったものではないかと想像せずにはおれません。
 

2007年01月19日

築地魚河岸昔がたり(47)芝浦に臨時市場

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   芝浦二号地につくられた仮設市場
 
 
九月四日、安倍ら魚市場組合幹部は水産局の村上局長から呼び出しを受けます。
 
 
「いったい君たちは何をしているのだ。魚市場の開市が遅れるということは
 市民の保全にかかわることだ。ぐずぐずしているなら、
自分は横っ腹に風穴が開くの覚悟で、生産者に魚市場を開かせるつもりだ。
すでに二日、海軍省の無線電信で各地の大漁業者に至急荷をおくるよう
命じておいたが、そのうちには既に発送されているものもある」
 
 
村上のまるで鉄火な剣幕に驚いた一同は
さっそく東京市へ駈け込むと、田島勝太郎助役を訪ねます。
市場開設のための土地を懇請すると、
田島助役はすぐに山本権兵衛首相に陳情してくれまして、
築地の海軍技術研究所跡なら使っても良い、との口約束を取りました。
しかし、目下の営業場所を何とか探さなければなりません。
田島助役は、適当な場所があれば便宜を図るから、
すみやかに臨時市場を開くように、といいます。
 

 
そこで魚市場組合の役員たちはトラックに乗り込んで、
焼け跡の東京をつぶさに見て廻りました。
日本橋魚河岸、中洲、越前堀、築地、と訪ねますが、
どこも瓦礫に埋もれ、すぐに市場を開けるような状態にはありません。
 
 
最後に訪れたのが芝浦の埋立地でございます。
埋め立てたまま手つかずになっている二号地に目をつけました。
ちょうどこの付近に避難していた魚市場組合前頭取の白沢武平と偶然に出会い、
白沢の知人がこの地所の持ち主だったことから話が進んだといいます。
 
 
生い茂る雑草を皆で刈りとることから始まり、
東京市から高さ二間、九尺九尺の大型テント10張りを借受け、
九月十七日、ようやく仮市場開場へとこぎつけることができました。
 
 
しかし何しろ野原に建った仮設市場ですから、
下水設備すらなく、雨でも降ればドロドロ泥田のぬかるみに埋まります。
荷もなかなか集まらず、四日市の冷蔵庫にあった鮭を売ってのやり繰り。
売るものがなくてスイカまで商ったといいます。
 
 
そのうち、おいおいに荷物が集まるようになりますと、
とにかく商売できればということで、
はじめ百人ほどの業者が、やがて五百人ほどになりました。
それで仕入れれば売れるという状況でしたので、
この仮設市場もなかなかに繁昌いたします。
魚河岸連中もけっこう儲かったのでございますな。
 
 
ふところ具合も良くなりますと、何といっても遊び好きの連中のこと、
近所の宿屋、料理屋を借りきって住居代わりといたします。
芝浦付近の店は軒並み魚河岸に占有されるということになりました。
 
 
そんなドタバタのなかで九月から十二月までを過ごしました。
 

2007年01月18日

築地魚河岸昔がたり(46)焦土からの出発

こうして江戸以来300年の歴史ある日本橋魚河岸は、
大自然の猛威の前に、その姿を消したのでございます。
あれから舞台は築地へと移りまして、
この続き物も“築地編”ということにあいなります。
 
 
“世界のツキジ”と呼ばれる巨大市場に成長していく過程は、
しかし、なまなか一筋縄ではまいりませんでした。
ことに中央卸売市場として機能するまでの約15年間、
築地市場は陣痛の苦しみにも似た苦闘の日々を送ることとなります。
 

 
ここまでは主な事項の説明にとどまっておりましたが、
築地市場をめぐって、市場人の織りなす生々しいドラマがあったこと、
それもまた見ていきたいと思います。
そこには善も悪もなく、正道も邪道もなかったと結論します。
魚河岸の歴史のなかでは、多くの人物が狂言回しを演じ、その使命を全うしました。
今日の魚河岸を築いた先人たちへの、後世の評価などというものはさておき、
その理念と勇気ある行動力に敬意を表するものでございます。
 
 
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猛火に追われた恐ろしい夜が明けました。
そこには焦土と化した帝都が痛々しい姿を晒しておりました。
日本橋と江戸橋の間の日本橋川には、数えきれないほどの死骸、
焼けおちた平田船、黒焦げの発動機船、荷物の残骸が浮かび、
悄然と立ちつくす人びとのなかを、家族をさがし求める人の悲痛な呼び声が響きます。
 
 
魚河岸はことごとく全焼しました。
当時の人の話では、そこにひとつの金庫が残っていて、
「共同水産」のものだったそうです。
その前にはブリキ板が立てられ、
“東京駅前田中大川事務所に立退き共同水産”と書かれていました。
共同水産の安倍小治郎が東京駅前呉服橋に避難しているということで、
魚市場組合の幹部らが三々五々集まってまいります。
 
 
その頃、街は「朝鮮人暴動」のデマが流れる不穏な空気につつまれ
全市に戒厳令が引かれます。
昼夜問わず、組合幹部との連絡に奔走する安倍は何度も警官に呼び止められ、
「座布団と言ってみろ」、「君が代を歌ってみろ」などと言われました。
 
 
世の中はおかしなことになっている。
早く市場を再開し、市民に魚をとどけなくては。
 
 
それが自分らの使命だ、と考えた安倍は、とりあえずの善後策として
呉服橋内にバラック建の組合仮事務所をつくり、
組合員はそこに集まるように、との掲示を日本橋に立てました。
多くの関係者の消息すら分からないなか、魚河岸復活に向けて動き出します。
とくに瓦礫に埋もれて商売の出来ない日本橋に代わる
土地の確定が先決だ、と安倍は考えていました。
 

2007年01月16日

ふくちゃんの履歴書

 
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2007年01月15日

築地魚河岸昔がたり(45)日本橋魚河岸最後の日

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大正十二年九月一日、午前十一時五十八分
関東地方を突如襲ったマグニチュード7.9の巨大地震は
その人的・物的被害の甚大さもさることながら、
日本の歴史を大きく変えていく、まさに号砲ともなりました。
戦争と平和の時代であった昭和史は
事実上、関東大震災からはじまるといわれます。
こと庶民生活においても、震災をきっかっけとして
江戸以来の旧い東京は消えてゆくのでございました。
その最たるものが日本橋魚河岸です。
 

 
烈震が襲ったときは河岸引けで、売場はガランとしていましたが、
最初の地震動によって多くの家屋や土蔵が崩れました。
それでも、古日本橋台地に属するこの辺りの揺れは比較的ゆるやかで、
人びとはひとまず家のなかで様子を見ることにしました。
まあ、このくらいでおさまれば大したことはないだろう。
江戸以来、災害には慣れっこの魚河岸でしたから、
むしろ浜方の様子と明日の入荷状況を心配していました。


しかし、地震によって各所に上がった火の手は
またたく間に東京市中に拡がってまいります。
日本橋では品川町釘店にあった薬問屋の倉庫が爆発、
それが日本橋通りを隔てた魚河岸に飛び火しました。
魚河岸の若い衆は持ち前の向こう気の強さで、
この火を瀬戸物町裏河岸で食い止めようとします。
けれども、懸命の防火もむなしく火は衰えを見せません。
やがて十メートルを越す火災風が巻き起こると、
もはや手のつけようもなくなり、魚河岸の人びとは避難を余儀なくされます。


問屋も仲買人もその家族をともなって逃げ出そうととしますが、
その頃には日本橋、京橋方面からの避難者の群れが通りに殺到し、
河岸から出ることすらままなりません。
そこでかれらの多くは、平田船や発動機船の上に荷物を放り出し、
自らも水上に逃れようと試みました。


水辺ならば火災から身を守れるはずだ、と考えました。
なかには、発動機船を操って東京湾へ抜けようとする者もいましたが、
日本橋川にも船があふれ、到底たどりつきそうにはありませんでした。


夕方になると四日市側に飛び火すると、
一帯をまたたくまになめつくして火の海にします。
その業火が一方は日本橋をつたって、さらに一方は川を渡って
魚河岸をことごとく焼きつくしたのでございます。
 
 
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船の上に逃れた人びとの荷物に火がうつると、
それからそれへと燃えひろがり、
日本橋川は火の帯と化しました。
惨状のなか、船から船へと飛び移り、
命からがら逃げのびた少数の生存者もおりましたが、
退路を断たれた魚河岸では、一晩のうちに四百を越す人びとが犠牲となりました。
 

2007年01月11日

化け物河岸

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築地市場は昭和10年に開場して、今年で72年を数える。
 
 
器物は百年を経て化けるそうなので、
河岸もずいぶん化け物に近づいてきて、
ただいま「半化け」というところだろう。
 
 
給ちゃんの「開店Q業中」にたまに映っている
よく分からない何かがそれかもしれない。
 
 
もっとも、建物の中身の方はずっと怪しくて、
妖怪じみた事件は昔っから起こっている。
人間は百年を待たずに化け物になるんだろう。
 

2007年01月10日

くたくたジャガー

NYダウの急騰に影響されたのか、
血圧が102の最高値を記録した。
生まれてはじめての3ケタ突入に、血がのぼる思いがしました。
 
 
でもそのあと計ったら90に下がってたし、
これって、けっこう動くものなのね。
福引で血圧計をもらったんで、しょっちゅう計ってんだけどね。
 
     datsuryoku.jpg
 
生まれてこのかたの低血圧で、いつも90/60くらいしかなくて、
大体は脱力してるのね。
朝は苦手だけど、昼も夜も苦手。
やる気を出すまでが大変だけど、出たとたんにすぐに疲れて続かないハ。
 
 
だからブログとかも、ちょうどこのくらい書くと、
もういいや、って投げたくなる。
ところでさ、とかカンケーない話題に変えたりするわけ。
 
 
ところでさ、ワタシあんまり怒ったりしないのね。
たぶん怒るところまで血が回っていかないんだろうけど、
でも他人の怒ってるのって、好きっていうか、勉強になるカンジ。
怒る人とワタシとの血圧の差って、たぶん2倍くらいあるなって思い、
世の中まだまだ捨てたもんじゃない、と。
 
 


大鳥ルートを開始します

2007年01月09日

築地魚河岸昔がたり(44)戦いに疲れはて

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       小網源太郎氏 ロンドンよりの私信
 
 
大正六年から七年にかけて、第一次大戦後の好景気による投資ブームがまきおこりました。
とくにヒートアップしたのが漁業投資でございまして、
いっぺんに二百を越す水産会社が世に現れたと申します。
もっともその後は企業集中、今いうところのM&Aが進められ、
大正十二年には三十数社にまで統合されていきますが、
とりわけ、林兼、共同漁業(のちの日本水産)、日魯漁業の三大漁業会社が
その経済基盤を強固なものといたしました。
 

 
魚河岸は日々の商い競争に明け暮れて、産地への資本投下という発想がなく、
近代漁業の発展からは蚊帳の外に置かれてしまったことは以前に申し上げましたが、
水産業の盛り上がりにいち早く乗じ、これら資本漁業と提携して、
遠海物業者に転じる魚問屋が、この時期には数多く出てまいります。
安倍小治郎の「共同水産」や田口達三の「堺辰」など、
当時の魚河岸で取扱高の大きい問屋といえば、ほとんどが資本漁業と結びついた遠海物業者。
そして、多くが明治以降に出てきた新興勢力でした。
かれらとすれば狭く不便な土地からも、旧態依然とした閉鎖社会からも逃れたい、
移転によって新展開を図りたい、それも至極もっともでございます。
 
 
一方、移転派に押されて旗色が悪くなってきた非移転派でしたが、
何となれば、土地持ち、権利持ち、老舗問屋のかれらが「イヤだ、移らねエ」と言えば、
それで話はチョン切りでございます。
何も既得権益を放棄してまで時勢に合わせることはない、てなことで
これまた当然の理でございましょう。
 
 
しかし、明治の半ばから続いた移転論争に、双方ホトホト戦い疲れてしまいました。
現状維持の桟橋案。移転先として芝浦案、箱崎案、浜町案。
はたまた汐留ターミナルマーケット論など、
さまざまに議論されますが、水掛け論で何ひとつまとまりません。
プランを持たない行政の対応に右往左往して内部抗争をくりかえす結果となりました。
 
 
そのときに、少なくとも一人だけは魚河岸の行く末を見据えていた人物がおります。
非移転派の総大将である小網源太郎という人です。
この人は、「中央公設市場設置に関する建議」が出されたときに、
“こいつあ法律でやられるナ”と思いました。
そうなったら権利も何もない、河岸の存在そのものが危うくなるのだ、
かれはひっそりと非移転派の看板を降ろします。
そして一方の移転派の親分、安倍小治郎と手を結ぶのですね。
業者の危急を救い、新市場をつくろうという、先進的な考えを進めてまいります。
 
 
大正十一年に東京でコレラが大流行。
魚河岸は実質一ヶ月も営業停止となる大打撃を被ります。
その際に小網と安倍が主義主張を捨て、共に事に当たったことが、
二人を急接近させるきっかけとなりました。
 
 

 「非移転派の連中は私が何とかまとめよう。
  一丸となって新市場建設実現に尽力することを約束する。
  ただし、その前に私にはやっておきたいことがある」
 
 
小網は欧米諸国の市場視察に旅立ちます。
かれは何も外国かぶれではなく、日本独自の市場構想を得るために行ったといいます。
その行程は後に『欧米魚市場覗記』としてまとめられました。
 
 
小網の帰国を待って移転派と非移転派の接近が図られるはずでありました。
安倍はこの間にも魚市場組合内の調整に余念がございません。
大正十二年三月に「中央卸売市場法」が公布。
そろそろ魚河岸周辺が本格的に騒がしくなってまいります。
八月二十八日、その「市場法」を打ち出した加藤友三郎首相が急死。
内閣総辞職により、急きょ第二次山本権兵衛内閣が組閣中のその矢先、
 
 
明くれば、九月一日の朝にございます。

2007年01月05日

謹賀新年

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   朋けましておめでとうございます
 背様にとって艮い一年でありますように
    令年も旦しくお題い到します