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築地魚河岸昔がたり(44)戦いに疲れはて

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       小網源太郎氏 ロンドンよりの私信
 
 
大正六年から七年にかけて、第一次大戦後の好景気による投資ブームがまきおこりました。
とくにヒートアップしたのが漁業投資でございまして、
いっぺんに二百を越す水産会社が世に現れたと申します。
もっともその後は企業集中、今いうところのM&Aが進められ、
大正十二年には三十数社にまで統合されていきますが、
とりわけ、林兼、共同漁業(のちの日本水産)、日魯漁業の三大漁業会社が
その経済基盤を強固なものといたしました。
 

 
魚河岸は日々の商い競争に明け暮れて、産地への資本投下という発想がなく、
近代漁業の発展からは蚊帳の外に置かれてしまったことは以前に申し上げましたが、
水産業の盛り上がりにいち早く乗じ、これら資本漁業と提携して、
遠海物業者に転じる魚問屋が、この時期には数多く出てまいります。
安倍小治郎の「共同水産」や田口達三の「堺辰」など、
当時の魚河岸で取扱高の大きい問屋といえば、ほとんどが資本漁業と結びついた遠海物業者。
そして、多くが明治以降に出てきた新興勢力でした。
かれらとすれば狭く不便な土地からも、旧態依然とした閉鎖社会からも逃れたい、
移転によって新展開を図りたい、それも至極もっともでございます。
 
 
一方、移転派に押されて旗色が悪くなってきた非移転派でしたが、
何となれば、土地持ち、権利持ち、老舗問屋のかれらが「イヤだ、移らねエ」と言えば、
それで話はチョン切りでございます。
何も既得権益を放棄してまで時勢に合わせることはない、てなことで
これまた当然の理でございましょう。
 
 
しかし、明治の半ばから続いた移転論争に、双方ホトホト戦い疲れてしまいました。
現状維持の桟橋案。移転先として芝浦案、箱崎案、浜町案。
はたまた汐留ターミナルマーケット論など、
さまざまに議論されますが、水掛け論で何ひとつまとまりません。
プランを持たない行政の対応に右往左往して内部抗争をくりかえす結果となりました。
 
 
そのときに、少なくとも一人だけは魚河岸の行く末を見据えていた人物がおります。
非移転派の総大将である小網源太郎という人です。
この人は、「中央公設市場設置に関する建議」が出されたときに、
“こいつあ法律でやられるナ”と思いました。
そうなったら権利も何もない、河岸の存在そのものが危うくなるのだ、
かれはひっそりと非移転派の看板を降ろします。
そして一方の移転派の親分、安倍小治郎と手を結ぶのですね。
業者の危急を救い、新市場をつくろうという、先進的な考えを進めてまいります。
 
 
大正十一年に東京でコレラが大流行。
魚河岸は実質一ヶ月も営業停止となる大打撃を被ります。
その際に小網と安倍が主義主張を捨て、共に事に当たったことが、
二人を急接近させるきっかけとなりました。
 
 

 「非移転派の連中は私が何とかまとめよう。
  一丸となって新市場建設実現に尽力することを約束する。
  ただし、その前に私にはやっておきたいことがある」
 
 
小網は欧米諸国の市場視察に旅立ちます。
かれは何も外国かぶれではなく、日本独自の市場構想を得るために行ったといいます。
その行程は後に『欧米魚市場覗記』としてまとめられました。
 
 
小網の帰国を待って移転派と非移転派の接近が図られるはずでありました。
安倍はこの間にも魚市場組合内の調整に余念がございません。
大正十二年三月に「中央卸売市場法」が公布。
そろそろ魚河岸周辺が本格的に騒がしくなってまいります。
八月二十八日、その「市場法」を打ち出した加藤友三郎首相が急死。
内閣総辞職により、急きょ第二次山本権兵衛内閣が組閣中のその矢先、
 
 
明くれば、九月一日の朝にございます。