築地魚河岸昔がたり(45)日本橋魚河岸最後の日

大正十二年九月一日、午前十一時五十八分
関東地方を突如襲ったマグニチュード7.9の巨大地震は
その人的・物的被害の甚大さもさることながら、
日本の歴史を大きく変えていく、まさに号砲ともなりました。
戦争と平和の時代であった昭和史は
事実上、関東大震災からはじまるといわれます。
こと庶民生活においても、震災をきっかっけとして
江戸以来の旧い東京は消えてゆくのでございました。
その最たるものが日本橋魚河岸です。
烈震が襲ったときは河岸引けで、売場はガランとしていましたが、
最初の地震動によって多くの家屋や土蔵が崩れました。
それでも、古日本橋台地に属するこの辺りの揺れは比較的ゆるやかで、
人びとはひとまず家のなかで様子を見ることにしました。
まあ、このくらいでおさまれば大したことはないだろう。
江戸以来、災害には慣れっこの魚河岸でしたから、
むしろ浜方の様子と明日の入荷状況を心配していました。
しかし、地震によって各所に上がった火の手は
またたく間に東京市中に拡がってまいります。
日本橋では品川町釘店にあった薬問屋の倉庫が爆発、
それが日本橋通りを隔てた魚河岸に飛び火しました。
魚河岸の若い衆は持ち前の向こう気の強さで、
この火を瀬戸物町裏河岸で食い止めようとします。
けれども、懸命の防火もむなしく火は衰えを見せません。
やがて十メートルを越す火災風が巻き起こると、
もはや手のつけようもなくなり、魚河岸の人びとは避難を余儀なくされます。
問屋も仲買人もその家族をともなって逃げ出そうととしますが、
その頃には日本橋、京橋方面からの避難者の群れが通りに殺到し、
河岸から出ることすらままなりません。
そこでかれらの多くは、平田船や発動機船の上に荷物を放り出し、
自らも水上に逃れようと試みました。
水辺ならば火災から身を守れるはずだ、と考えました。
なかには、発動機船を操って東京湾へ抜けようとする者もいましたが、
日本橋川にも船があふれ、到底たどりつきそうにはありませんでした。
夕方になると四日市側に飛び火すると、
一帯をまたたくまになめつくして火の海にします。
その業火が一方は日本橋をつたって、さらに一方は川を渡って
魚河岸をことごとく焼きつくしたのでございます。

船の上に逃れた人びとの荷物に火がうつると、
それからそれへと燃えひろがり、
日本橋川は火の帯と化しました。
惨状のなか、船から船へと飛び移り、
命からがら逃げのびた少数の生存者もおりましたが、
退路を断たれた魚河岸では、一晩のうちに四百を越す人びとが犠牲となりました。