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築地魚河岸昔がたり(46)焦土からの出発

こうして江戸以来300年の歴史ある日本橋魚河岸は、
大自然の猛威の前に、その姿を消したのでございます。
あれから舞台は築地へと移りまして、
この続き物も“築地編”ということにあいなります。
 
 
“世界のツキジ”と呼ばれる巨大市場に成長していく過程は、
しかし、なまなか一筋縄ではまいりませんでした。
ことに中央卸売市場として機能するまでの約15年間、
築地市場は陣痛の苦しみにも似た苦闘の日々を送ることとなります。
 

 
ここまでは主な事項の説明にとどまっておりましたが、
築地市場をめぐって、市場人の織りなす生々しいドラマがあったこと、
それもまた見ていきたいと思います。
そこには善も悪もなく、正道も邪道もなかったと結論します。
魚河岸の歴史のなかでは、多くの人物が狂言回しを演じ、その使命を全うしました。
今日の魚河岸を築いた先人たちへの、後世の評価などというものはさておき、
その理念と勇気ある行動力に敬意を表するものでございます。
 
 
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猛火に追われた恐ろしい夜が明けました。
そこには焦土と化した帝都が痛々しい姿を晒しておりました。
日本橋と江戸橋の間の日本橋川には、数えきれないほどの死骸、
焼けおちた平田船、黒焦げの発動機船、荷物の残骸が浮かび、
悄然と立ちつくす人びとのなかを、家族をさがし求める人の悲痛な呼び声が響きます。
 
 
魚河岸はことごとく全焼しました。
当時の人の話では、そこにひとつの金庫が残っていて、
「共同水産」のものだったそうです。
その前にはブリキ板が立てられ、
“東京駅前田中大川事務所に立退き共同水産”と書かれていました。
共同水産の安倍小治郎が東京駅前呉服橋に避難しているということで、
魚市場組合の幹部らが三々五々集まってまいります。
 
 
その頃、街は「朝鮮人暴動」のデマが流れる不穏な空気につつまれ
全市に戒厳令が引かれます。
昼夜問わず、組合幹部との連絡に奔走する安倍は何度も警官に呼び止められ、
「座布団と言ってみろ」、「君が代を歌ってみろ」などと言われました。
 
 
世の中はおかしなことになっている。
早く市場を再開し、市民に魚をとどけなくては。
 
 
それが自分らの使命だ、と考えた安倍は、とりあえずの善後策として
呉服橋内にバラック建の組合仮事務所をつくり、
組合員はそこに集まるように、との掲示を日本橋に立てました。
多くの関係者の消息すら分からないなか、魚河岸復活に向けて動き出します。
とくに瓦礫に埋もれて商売の出来ない日本橋に代わる
土地の確定が先決だ、と安倍は考えていました。