築地魚河岸昔がたり(49) 築地開場までの動き

築地市場が建つ前の海軍技術研究所
芝浦での仮営業は、とりあえず商売ができるならば、というものでしたが、
営業三ヶ月目ともなれば、こんな屋根もない場所で冬を越すのかと、
業者たちの間にも不安が広がってまいりました。
魚市場組合の池田三治郎、安倍小治郎らは、市場の移転先用地の視察を続けましたが、
最初に訪れた築地の海軍技術所跡地が立地といい、広さといい
申し分ないということに落ちつきました。
しかし、そこにも震災の傷跡が生々しく残っており、
落ちた橋、コンクリートやレンガの残骸がそのままに放置され、
場内には大きな池がありました。
そこを整備して本格的な市場建設を完了させるには相当な労力が必要と思われます。
それでも、用地の一部を使うだけでも芝よりも面積が取れるということで、
東京市の田島助役に頼んで海軍省に直接交渉してもらったところ、
研究所では適当な替地があればという条件付きで了承にいたりました。
これで東京市は魚河岸を芝浦から築地に移転させることに決めます。
いっぽう警視庁の道路使用禁止という行政措置で、
魚河岸の日本橋復帰が未遂に終わったことは、非移転派に大きなショックを与えました。
もう日本橋には戻れない、ということが、かれらにも次第にはっきり判ってきたのです。
日本橋で営業再開を試みて追い払われた人びとのうち、二十軒ほどの業者は、
南千住汐留の隅田川貨物駅の近くに市場を開きます。
産地荷受や、南千住の有力者、千住製氷会社などの後援を得て、
約一万坪の敷地を借りて、主に隅田川貨物駅に入ってくる魚荷を扱いました。
これがその後、北魚市場となり、現在の千住魚市場へと変遷していくこととなります。
魚河岸内部では移転派と非移転派との議論は激しく続いておりました。
むしろ日本橋に戻れない、という空気が広がるにつれて、
皆、瞞されたのではないかという疑念にかられ、役員横暴の声も上がってまいります。
それはこういうわけです。
行政側は混乱に乗じて一気に市場問題の解決を図ろうとブイブイいわせておりましたが、
甘粕事件や社会主義者弾圧などの治安維持を名目とした当局の行過ぎが世評を悪くすると、
警視庁の市場に対する強制措置もそれとなく緩み、
それとともに市の市場移転問題への取組みも急に腰砕けとなってしまいました。
そこでまあ、せっかく法律があるんだから、そいつで穏便に行こうじゃないか、
と、ここで先だって出された中央卸売市場法が持ち出されることにあいなります。
市場の皆さん江
今まで営業していた者の営業継続は認めるし、不公平なことはしないから安心してね。
でも名義だけで実際に営業していない者はダメだし、新規営業も認めんヨ。
あと、問屋の数は漸次減少させるつもりだから、縁故などでつるんでくれたらいいな。
仲買は認めない。でも大量に荷を扱う市場で慣習的に必要な場合は仕方なく認めるよ。
でも変な奴はダメね。信用ある者に限るよ。それから問屋と仲買の兼用も絶対ダメ。
あと権利の譲渡もみとめないからね。売買はセリ売が原則で、
荷主、問屋、仲買または小売商の間は全部現金取引にしてくれよ。
頼むよ、守れなきゃ営業停止だからね 東京市より
まあ、こんなような内容の、もう少しきちんとした文面の通牒が魚河岸に出されます。
すると魚河岸連中は「何だこりゃあ!」となります。
これを「業者」の整理だ、と受け取ったんですね。
規制をするなら、それ以前に板舟権などの営業権を補償しろ、非移転派は声を荒げます。
さらに東京市の田島助役は農務省の課長をしていた頃に、
築地浜離宮脇の埋立地に魚河岸の移転を画策していたとの話が伝わったものですから、
「いっぱい食わされた!」魚河岸は騒然となります。
十二月一日が築地市場への業者収容、つまり築地市場誕生となる予定でしたが、
その日は血を見ずには収まらないだろう、とのもっぱらの噂でした。