築地魚河岸昔がたり(50) 嵐の金曜日

明治期の築地
「皆どうしているだろう。あれからどうなったろうか」
小網源太郎は眼前に広がる海原を見つめながら何度もつぶやきました。
かれは一路日本へと向かう客船熱田丸の船上の人でした。
各国市場視察の旅にでた小網は、北米をひと回りした後、フランスへ渡ります。
そして九月二日、パリで東京の大震災を知り、一時は帰朝を繰り上げようとします。
しかし、外国市場の視察はまたとない機会と思い直し、家族の安否を確認すると、
あれからマルセーユ、ニース、ローマ、ナポリ、ベニス、ミラノ、ロンドンと、
さらにヨーロッパ各国の市場をつぶさに見て回り、
十月、英国リバプール、アルバートドックを出港、帰路につきました。
出発前、かれは盟友安倍小治郎とのあいだで新市場建設をとくと語り合いました。
今や時勢は大きく変わった、それを見すえての洋行、そして、その矢先の大震災。
雪崩を打ってあたらしい時代へ突入するとき、それに揺り動かされる人びとのなかに、
かれもまたおりました。
「こんなときに小網がいたなら」
混乱の市場内では小網待望の声が広がっていました。
何となれば小網源太郎は非移転派の巨頭です。
その強力な存在感で事を解決してくれるにちがいない、と非移転派は考えました。
しかし、一部のあいだでは小網が洋行を期にその立場を変えることも知られていました。
十月十三日、小網は神戸に着。およそ一年ぶりの帰国を果たします。
はるばる東京からかれを迎えたのは、友人と非移転派の仲間でした。
その頃、なお日本橋への復帰をはかる非移転派の面々、
今津源右衛門、高根屋藤吉、米倉嘉兵衛らは、組合仮事務所となっている
芝日の出町の月見楼に移転派幹部をたずね、旧市場復帰を再度掛合いにまいります。
安倍小治郎、池田治三郎、増田藤吉、山口米造ら移転派幹部がこれに応答しますが、
結局物別れに終わったことから、両者の対決は避けがたいものとなりました。
そして築地入場を翌日に控えた十一月三十日、
芝三田の東洋軒で開かれた組合総会は異常な空気のなかで紛糾します。
東京市田島助役から築地市場について説明があり、
いよいよ決議しようという時になって、一部移転反対業者が引延し策に出ました。
築地に行っても人数が多くなって、あまり儲からないぞ、
口々に叫びまして、決議にいたりません。
これでは総会はまとまらないということで、場所を芝山内の三縁亭に移して再開。
しかし、ここでも反対派が総会をボイコットします。
「役員だけ椅子にかけているとは何だ。オレたちにもよこせ」
と議長の椅子を持って行ってしまったり、
「総会を開きます」と宣言すると、あちこちから怒鳴り声が飛び交う始末。
見渡せば会場には反対派の連中がずらりと占拠しています。
「総代以外の人は出て行って下さい」と言えば「議長横暴!」と騒ぎます。
下手に口を出すと殴られるという具合で、またしても中断。
ついに反対派が暴力団をつれてくるというので、
とうとう警官隊がやって来て会場を取り囲む一方、
市場の顔役である佃政親分の手の者が警戒にあたるという、ものものしさとなりました。
これではどうにも収拾がつかないということで、
臨席していた小網らが不穏分子を一人づつ別室に呼んで説得します。
それでどうにか、本当に血を見る騒ぎにはいたりませんでしたが、
築地移転が決議され、総会を終えた頃にはすでに午前一時を回っておりました。
すでに新市場開場式の当日のことでございます。
コメント
平森さんのお話し全部読みました。面白いですねぇ。続きが楽しみです。原書でも読んでみたくなりました。
投稿者: 築地屋魚丸 | 2007年01月26日 00:17
築地屋魚丸さん、はじめまして。
どうもありがとうございます。
このあいだ夢におっかない人が出てきて、舌を抜かれそうになったので、
今年はなるべくマトモなことを書こうと反省しております。
また遊びにいらしてください。
投稿者: メカジキ | 2007年01月26日 09:03
あはは、そうなんですか。
ところで、河岸の長い歴史の中で、色々な仲買さんが開店しては、消えてと。築地に移って、しかも、つい最近の1990年から現在まででも、相当数の仲買さんの入れ替えがあったようですね。
店を閉めてしまった方々は、今何をしているのでしょうね?とても興味があります。デバガメではなく、そこにドラマの匂いを感じてしまうからなんです。何か、ご存知の事はありませんか?
投稿者: 築地屋魚丸 | 2007年01月26日 18:37
築地が中央卸売市場として整備されるなかで、それまでの問屋・仲買は、
店をたたんで卸会社に収容される者、あらたに仲卸の鑑札を取って営業する者とに分かれます。
それは口で言うほど簡単なことではなくて、
長い時間がかかり、もめごとをくりかえして、現在のかたちになったんです。
バブル以降の卸売業界の低迷ではおっしゃるとおり多数の仲卸が廃業しました。
その原因に魚河岸の特殊性を考えると根深い問題も見えてくるのですが、
それぞれのお店の事情はそんな理屈ではなく、ドラマ性もなく、
ただ残念だ、としか言いようがありません。
投稿者: メカジキ | 2007年01月27日 11:34
ご教示有り難うございます。
仰せの「特殊性」「根深い問題」についても調べてゆく過程であぶり出されるような気もしておりました。
私は、築地が、市場が大好きなのですが、仲買さんの屋号を調べるうちに、使用頻度の高い漢字があって、それぞれに由来やお店の系統がある事に気付いてきました。
まだまだ、全体像は亡羊としていて途方に暮れます。
私が仲買さんの勃興、衰退を知りたい、調べたい理由をきちんとお伝えしたいのですが、巧く出来そうにありません。
投稿者: 築地屋魚丸 | 2007年01月27日 19:51
商号の由来は調べてみると、とても面白い話が見つかりますよ。
江戸時代、魚河岸のお隣の伊勢町は米河岸ででした。
寛永年中のこと、米問屋の米屋太郎兵衛という人が、館山で魚商をしている同郷人から
“魚は儲かるよ”と誘われます。
ものは試しと魚荷を引き受けたところ、ちょうど魚河岸の営業が日増しに伸びてきた時期で、
これがとても儲かりました。
そこで意を決した太郎兵衛さん、米屋から魚屋に商売替えをいたします。
お店はたいそう繁盛し、そこから暖簾分けした問屋が「米屋」号を名乗ったのが、
現在も築地市場にみられる商号「米――」の流れだといいます。
ほかにも出身地からきた「伊勢――」号やら「伏――」号とか
扱う商売物からきたものとして「鯉――」号や「て――」号など、いろいろですが、
仲卸の商号名鑑がつくれたなら、楽しいな、と思います。
投稿者: メカジキ | 2007年01月29日 13:47
そうですよね。「佃」は日本橋で魚市場を開いた森一族の流れと言いますし。実に面白いですね。地方に目を向ければ、今でもその土地に根付く屋号が生活の中に行きているようですし。これは、とことんやって行くと民俗学になってしまいそうです。これをライフワークにするわけにはいかないので、程々にしたいのですが、それがどうも。面白くてやめられません。今度、銀鱗文庫に行ってみようかなぁと思います。コピーなんか出来るのでしょうか?
投稿者: 築地屋魚丸 | 2007年01月30日 22:40