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2007年02月01日

河岸の喧嘩支度

  kenka.jpg
バカヤロウ! バカというオマエこそバカヤロウ!
 
 
魚河岸は今ではすっかりおとなしくなりましたが、
これで昔は大変に気の荒い物騒なところだったんでごぜえますヨ。
昔、と言いましても、日本橋にあった時分ですから、もう八十年も前になりますか。
 
 
その頃、河岸の若い衆の娯楽はてえと、博打と喧嘩でございますナ。
ことに喧嘩ときた日には、これがメシよりも好き。
「おう、これからひとつ喧嘩をしに行こうじゃねえか」と、
毎日のように他の町内に繰り込んでは喧嘩の練習に余念がございません。
興がのりますと「今日は神田のやっちゃばへ行こう」、「浅草をやっつけよう」
「吉原へ殴りこもう」などと十人、二十人が群れをなして喧嘩の遠征に出かけます。
 
 
河岸引けばかりか、商売の最中も喧嘩に事欠かない
他にはこれといった娯楽もなく、喧嘩だけが楽しみだったようですナ。
 
 
そこで白木屋では、こんな気の荒い魚河岸連中向けに
「魚河岸の帯」てえものを売り出しました。
前も合わせられない身巾のせまい単衣ものをはおり、
そこにこの帯をうしろから巻いて前でむすびます、てえと
これが当時の喧嘩装束でございます。
 
 
なぜこんなおかしな格好をするかというと、
喧嘩した相手の方が強くて按配が悪くなったとき、
後ろから捕まえられても、パッと帯を解けば、
そのまま素っ裸で逃げ出せるという寸法です。
 
 
「誰が手前なんかに捕まるかい!」
このバカヤロウ! と叫びながら、ふんどしスタイルの馬鹿野郎が
日本橋通りを走って逃げる光景がよく見られたそうです。
 

2007年02月05日

YO.YO

朝おきて 起ち上がろうとしたけど
ダメだった
昼になって もういちどこころみたけど
ダメだった
 
 
人生とか天候といったたぐいの問題を
私はたくさん抱えているというのに
今はトイレに行くにもぶざまな格好なので
どうすることもできない
 
 
薄暗くなってきて 今度は起てるかと思ったけど
やはりダメだった
 
 
それでそのままじっとしていることにした
 

2007年02月06日

築地魚河岸昔がたり(52) 揺れる補償問題

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       市場建設工事着工前の様子
 
時代はそれにふさわしいヒーローを作り上げる、と同時に
時として誰からも必要とされる人物の命脈をも断ってしまうことがございます。
 
 
築地移転が完了して間もなく、これまで組合を牽引してまいりました
池田三治郎理事長、安倍小治郎らが辞職いたします。
これは日本橋の旧市場事務所の売却問題にからむものでした。
 
 
そこで十三年二月、新理事長選出をめぐる組合選挙が行われます。
かねてより組合員の信望を集めていた小網源太郎が
投票八百票中、七百四十六票という空前の支持により理事長に当選しました。
小網はさっそく組合の規約改正を行い、
組合の結束を強め、その発言力を増すべく尽力します。
 

 
「市場問題はまず二年か長くて三年やればかたが付きましょう」
そう言いきる小網には自信があふれ、周囲の絶大なる信頼を勝ちえ、
かれに任せておけば大丈夫だ、という空気が満ちあふれていました。
 
 
ところが三月二十九日、小網源太郎が急逝いたします。
 
 
小網の後を受けて理事長となったのは今津源右衛門。
この人は日本橋魚河岸で最大の板船権所有者であり非移転派の首魁でございます。
池田、安倍の退陣もあって組合は保守派によって占められることとなりました。
今津は棚上げとなっている板船権、平田船権の補償問題に奔走いたします。
何といっても旧魚問屋の権利補償は市場問題の最大の難関ですから、
今津がそこに血道を上げるのは、何も自らの財産を守るためではありませんでした。
しかし理事長就任前後の事情もあって補償問題は組合の総意としては盛り上がらず、
かれが人脈により市会へ働きかけるという政治的な動きばかりが目立ってしまいました。
これが後に社会問題にまで発展してしまったことは魚河岸にとっても悲劇です。
 
 
公道の使用権である板船とは、また、荷揚げ桟橋の使用権である平田にしても、
ともに日本橋魚河岸特有の権利で、市場が移転すれば実態は消失するものでした。
営業権ならば築地に移ったところで施設に収容されることで継続しますが、
最早、開設権を持たない魚河岸に既得権益を主張することは極めて不利ではありました。
しかし、この移転は震災のドサクサによって行われたものであって、
東京市が市場をつくって収容させたという経緯から、
権利喪失に対して何らかの補償をするべきだろうというのが大方の見解でした。
実は芝仮設市場の開場のときに、東京市の田島助役と魚市場組合役員との間に
将来の板船権補償の口約束があったと伝えられております。
ただ、あまりに慌しかったため、市と業者との折衝を行う余裕がありませんでした。
 
 
築地に業者が落ち着き、中央市場の建設計画が進みだしたとき、
今津を代表とする計二百一名の板船権利者たちが七百万円余の補償金を市に提示します。
これにビックリしたのが田島助役です。
以前に補償の話はしたけれど、そんなに高額とは思ってもみません。
長く魚河岸とかかわってきた田島ですら驚いたのですから、
市当局はもちろんこれを不当として反対いたします。
そのうちに田島助役が退職となると調停役がいなくなって、
とうとう魚河岸の補償問題は暗礁に乗り上げることになってしまいます。
 

2007年02月07日

築地魚河岸昔がたり(53) 板船事件(その1)

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          巨大ポンプで水を抜く
 
 
日本橋魚市場は実に三百年もの歴史を持っていたが、先年の震災で焼失した。
その際に当局により日本橋での開市を厳禁され、やむを得ず一時芝浦に仮市場を設けた。
しかし同地は適地でなく業者の多くは日本橋にて再開を希望し、一旦開市するも
同じく旧市場にて開市した神田市場はそのまま営業を継続したにもかかわらず
魚河岸のみは官憲の圧迫により阻止され、一方東京市により築地に移転を強要された。
歴史ある市場は我々祖先の努力によって成った東洋に比類なき一大魚市場である。
しかるに罹災者に何ら報いることなく移転を強要されるは忍びない悲惨の極みである。
旧市場には古来、営業権のほかに板船権があり享保十一年以来続くものである。
組合において所有者名簿を備え、売買抵当設定際しては必ず登録し顕らかとしてきた。
震災前における板船権並びに後に生じた平田船権は多額なものとなっていた。
移転強要のために全然喪失、震災による財産焼失とともに甚大な損害となった。
かかる悲惨な情状を御酌量の上、板船、平田の権利その他に対する損害金相当額を
補償されたく、お願いする。
 
 
大正十四年二月、東京市長宛に今津理事長の署名により
このような請願書(かなり要約)が提出されました。
 

 
これを受けて東京市は大正十五年三月の年度末市会で
板船権、および平田船権所有者へ百万円の補償案を出します。
ところがこの百万円の算出法があいまいだという声が市会内外で上がり、
すったもんだの審議の末、結局、議員の任期満了で自然消滅ということにあいなりました。
七百万円の業者側の要求が大幅に減額されても百万円は大変な金額であり、
何のための補償なのか、板船とは何か、世間的には理解されないのが現実でした。
 
 
しかし、ある説によれば、中村東京市長(当時)が一気に市場問題を片づけるために
業者の要求通り七百万円を実際に用意していたといいます。
その際に係りの者があまりの大金に驚いて、金庫にしまい込んでしまったところ、
そのうちに市会議員の任期切れとなったので、市の金庫に還付したそうです。
この時に魚河岸でもうひと押しすれば問題も解決したのでしょうが、
一部の権利者の問題であり、組合の総意として盛り上がらなかったのが災いしました。
そのために板船権利者が裏から政治家に働きかける動きが顕著になってまいります。
 
 
昭和二年、市会に再提出されたときには補償額が八十万円とさらに減額され、
それが七十万円、六十二万円とどんどん減らされまして、
まったくのお涙金にひとしい金額が、ようやく交付の運びとなるかという矢先のこと、
 
 
昭和三年十一月、昭和天皇後即位の大典が執り行われました。
東京市中は花電車が走り、山車が繰り出すなど奉祝ムードに酔いしれるなか、
折りしも上野公園で開かれた東京市主催の祝賀会の席上
突然そこに司法の手がのびて、列席の市会議員をその場で拘束するという
前代未聞の事件が起きたのでございます。
 
 
祝賀ムードの東京市をひっくり返した大騒動
板船事件のはじまりでした。
 

2007年02月15日

築地魚河岸昔がたり(54) 板船事件(その2)

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        魚河岸バクハツ
 
 
昭和三年十一月、昭和天皇即位の祝賀気分に酔いしれる東京市に
突然冷や水を浴びせるかのようにわき起こった板船事件。
魚河岸というところは何だか旧態依然として分からんところだが、
やはりとんでもない伏魔殿だった、と当時の世間に印象づけた大騒動とは
いったいどのようなものだったのでしょうか。
 

 
日本橋魚河岸時代の権利保持者は、震災後五年を経過しても
いまだその補償問題に埒があかないことに非常な不安を感じて、
ツテを通じて市会議員に働きかけました。
その際に業者が板船補償を有利に運んでもらうために
十数万円を数度にわたり贈ったことが摘発された、というのが板船事件でございます。
 
 
何と八十名の市会議員のうち二十五名が容疑の渦中に巻きこまれて
取調べを受けたのですから大変です。
翌四年一月にはついに東京市会解散という不祥事に見まわれ
東京市会空前の大疑獄事件に発展いたしました。
 
 
当時、市会議員も勤めていた魚市場組合長今津源右衛門も拘引されましたが、
取調べ中に容疑の決着をみないまま同年八月に急逝してしまいます。
もちろん委員会の審議も頓挫、補償交付金支給は無期限延期となってしまいます。
 
 
板船事件はそもそも市会が板船権への認識を欠いたことが原因となっています。
魚河岸特有の既得権益を理解することは難しかったのでしょう。
魚市場業者が賄賂を贈ったといっても、かれらにすれば何ら悪行でも何でもなく、
自らの生活を守るために必死だっただけのことです。
しかし、市会議員を通じてその正当性を主張すればするほど、
魚河岸の連中が金をばらまいて不当な利益を得ようとしたのだ、と
強く印象づける結果となってしまったのは、閉鎖社会魚河岸の悲しき宿命でした。
 
 
それにしても総評価七百万円と計上された権利に対して
わずか九十万円の交付金を受けるために十数万円の出銭をして、
かろうじて七十万円に減額されて、それがようやく交付の運びとなったとたんに
このような事件が出て、すべてオジャンになったのですから、
魚河岸としてはまことに泣きっ面に蜂という体でございました。
 

2007年02月19日

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一年前、花を飾ると風水に良いというので、
ヒヤシンスの鉢植えを買って仕事場に置いた。
一週間ほどできれいな花を咲かせて、良い香りが部屋を包んだ。
 
 
でもしばらくすると花はしおれた。
説明書には、水をやって天日に当てるとあったのでそうすると、
今度は根がくさって、虫がわいてしまった。
しかたなくビニール袋に入れておいたら、そのまま数ヶ月忘れてしまった。
 
 
気づいたときには球根も土もボロボロでさわるとくずれそうになってる。
もうダメだと思い、捨てようとしたけど、
何とも不憫になったので、そっと袋に包んで自宅に持ち帰った。
うちのカミさんは廃物で枯れた松を再生させたことがある。
もしかしたら彼女なら生きかえらせることができるかもしれないと思った。
 
 
カミさんは球根をふた鉢に分けて、土のかわりに茶ガラとコーヒーのカスをかぶせた。
「うまくすれば芽が出るかもしれないよ」
それから何か特別なことをしたわけでもなく、冬の間中、外に出しっぱなしだった。
にもかかわらず、先週芽がでたと思ったら、いっぺんに花を咲かせた。
 
 
枯れた花に栄養剤を与えるのは、
死にそうな人間にアドレナリンを打つようなものらしい。
私は生命力の強さに正直感動したのだが、
カミさんは別段おどろきもせずに花を愛でている。
 
 
花にこめた願いは、ずっとあとになってかなうようだ。
 

2007年02月20日

ヘアーキャット

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 ときどき、こいつネコじゃないかも、と思う
 
 
あるとき思った。
ネコはなんで一定以上に毛がのびないんだろう。
 
 
美容師さんと世間話をしなくても、いつもへアースタイルが決まってるし、
模様まであるなんてスゴイかもしんないので、やっぱしネコはいいぞ、と思った。
 
 
あと、ネコは職人刈だと思った。
 

2007年02月22日

市場は値段をつり上げるところ

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『江戸はこうして造られた』(ちくま学芸文庫)という
すばらしく江戸を理解することができる本を著された鈴木理生さんが
エッセイのなかで
「市場の仕組みは、いわば、ものの値段をつり上げる場所です」と語られていて、
なるほど、と目からサカナのウロコが落ちる思いがした。
 
 
生産者は慈善事業ではないのだから、
築地が少しでも高く買うからこそ生産物が東京に集まってくる。
そもそもセリとは値段を高くするためのものだと。
 
 
だから産直がいいよとか、
いっそ現地にでかけて魚を食おうなんて考えても、
本当は東京で普通に出回っているものがいちばんよかったりして、
けっきょく灯台下暗しだったりするわけなんだ。
 

2007年02月23日

築地魚河岸昔がたり(55) 製氷払下げ問題

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   昭和8年ごろの築地市場。勝鬨橋はまだない。
 
 
今から考えれば不思議なことですが、
魚河岸では昔は氷を絶対に使わなかったそうです。
何でも日本橋時代のお話で、氷を入れた魚はマズイという風評が立っていて、
料理屋などでも氷を使った魚は敬遠されていたといいます。
近海ものは夜風にあてて冷やし翌日売るというのが慣わしで、
アワビなどが真夜中に入荷すると、
小僧さんが朝まで番をしながら水を取り替えたというから大変です。
しかし鮮度と衛生の問題もあり、とくに大正十一年のコレラ騒ぎがきっかけとなって
ようやく氷が普及したのだそうです。
 

 
魚河岸が築地に移ってからは、さらにその需要が増加しました。
市内の製氷業者は組合をつくり、その価格を維持していましたが、
最も需要の高まる夏場には異常な値上がりと供給不足をみることになり、
市場業者も一般買出人も大変に困りました。
 
 
そこで東京市は築地市場内に製氷設備を備えた新型冷蔵庫を建設します。
昭和七年四月に完成した冷蔵庫は一日約百トンから百二十トン製氷が可能でした。
当時の問屋仲買の氷需要は一日あたり夏季最盛期でも七十トン程度であったので、
買出人全般に対しても五十トン宛を販売できるという計算です。
 
 
ところが製氷販売がおこなわれてみると、
場内直接の冷却用として問屋仲買に優先的に回され
魚市場組合の者が一本、二本と大量に買ってしまい、そのほとんどを使ってしまいます。
買出人らはわずかに一貫の氷の配分、しかも量目は足らないことも多く、
長時間の行列買いをしなければならないという状況に非常な不満が起こります。
 
 
そこで小売商の組織する魚商組合から魚市場組合に対し、
一定販売量の確保と一括原価販売の要求を出しますが、
組合側はこれに容易には応ぜず、この問題は紛糾しました。
 
 
もとより買出人は魚河岸の問屋仲買の特権意識に反発を持っていました。
それがこの製氷問題によってかれらの怒りに火をつくのです。
つめたい氷をめぐる熱い闘いがとんでもなく大きな騒動に発展していきます。