築地魚河岸昔がたり(52) 揺れる補償問題

市場建設工事着工前の様子
時代はそれにふさわしいヒーローを作り上げる、と同時に
時として誰からも必要とされる人物の命脈をも断ってしまうことがございます。
築地移転が完了して間もなく、これまで組合を牽引してまいりました
池田三治郎理事長、安倍小治郎らが辞職いたします。
これは日本橋の旧市場事務所の売却問題にからむものでした。
そこで十三年二月、新理事長選出をめぐる組合選挙が行われます。
かねてより組合員の信望を集めていた小網源太郎が
投票八百票中、七百四十六票という空前の支持により理事長に当選しました。
小網はさっそく組合の規約改正を行い、
組合の結束を強め、その発言力を増すべく尽力します。
「市場問題はまず二年か長くて三年やればかたが付きましょう」
そう言いきる小網には自信があふれ、周囲の絶大なる信頼を勝ちえ、
かれに任せておけば大丈夫だ、という空気が満ちあふれていました。
ところが三月二十九日、小網源太郎が急逝いたします。
小網の後を受けて理事長となったのは今津源右衛門。
この人は日本橋魚河岸で最大の板船権所有者であり非移転派の首魁でございます。
池田、安倍の退陣もあって組合は保守派によって占められることとなりました。
今津は棚上げとなっている板船権、平田船権の補償問題に奔走いたします。
何といっても旧魚問屋の権利補償は市場問題の最大の難関ですから、
今津がそこに血道を上げるのは、何も自らの財産を守るためではありませんでした。
しかし理事長就任前後の事情もあって補償問題は組合の総意としては盛り上がらず、
かれが人脈により市会へ働きかけるという政治的な動きばかりが目立ってしまいました。
これが後に社会問題にまで発展してしまったことは魚河岸にとっても悲劇です。
公道の使用権である板船とは、また、荷揚げ桟橋の使用権である平田にしても、
ともに日本橋魚河岸特有の権利で、市場が移転すれば実態は消失するものでした。
営業権ならば築地に移ったところで施設に収容されることで継続しますが、
最早、開設権を持たない魚河岸に既得権益を主張することは極めて不利ではありました。
しかし、この移転は震災のドサクサによって行われたものであって、
東京市が市場をつくって収容させたという経緯から、
権利喪失に対して何らかの補償をするべきだろうというのが大方の見解でした。
実は芝仮設市場の開場のときに、東京市の田島助役と魚市場組合役員との間に
将来の板船権補償の口約束があったと伝えられております。
ただ、あまりに慌しかったため、市と業者との折衝を行う余裕がありませんでした。
築地に業者が落ち着き、中央市場の建設計画が進みだしたとき、
今津を代表とする計二百一名の板船権利者たちが七百万円余の補償金を市に提示します。
これにビックリしたのが田島助役です。
以前に補償の話はしたけれど、そんなに高額とは思ってもみません。
長く魚河岸とかかわってきた田島ですら驚いたのですから、
市当局はもちろんこれを不当として反対いたします。
そのうちに田島助役が退職となると調停役がいなくなって、
とうとう魚河岸の補償問題は暗礁に乗り上げることになってしまいます。