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2007年03月01日

築地魚河岸昔がたり(56) 魚河岸よ、横暴を改めよ

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      築地市場建設工事はじまる(昭和7年7月)
 
 
日本橋以来、魚河岸の問屋仲買は小売の魚屋に対して
ひどく尊大な態度をとることが、なかば日常化しておりました。
ことに棒手振(ぼてふり)の行商人が多かった時代には、
「方角師風情が何をいうか」というような雰囲気に満ちていて
魚屋は問屋仲買から一段低く見られていたようでございます。

魚河岸の連中は魚屋さんに「呉れてやれ」といいます。
本当に呉れてやれば河岸の旦那らしくてカッコいいのですが、
実際には鮮度が落ちたり、品が悪かったりして、
本当は八十銭の価値しかないものを一円で売っておいて、
魚屋さんが店の番頭に値切りの掛け合いにきたのを、
奥から店主がその二十銭分だけを「呉れてやれ!」と怒鳴るわけです。
 

 
江戸時代には幕府上納とか屋敷方納魚が魚河岸のいわば本業で、
町の魚屋さんには「売ってやる」というような
まるで客とも思わない商売のやり方がまかり通っていました。
ところが時代が変わり、築地へと移っても、かれらは旧態依然のまま
お大名商売を続けていたのですから、魚屋連中の不満はたまります。
「魚河岸よ、横柄な態度を改めよ!」
 
 
約二万人からなる買出人の八つの団体が東京鮮魚買出人連合会を組織し、
昭和七年一月八日、魚市場組合に対して次の四項目の要求をつきつけました。
 
 
 1.通路の整理
 2.度量衡並びに風袋の正確
 3.欺まん的着色の取締り
 4.卸売業者の市場内外における小売行為の禁止
 
 
つまり、通路に荷物を出張るのは危ないからやめろ、量目をごまかすな、
魚に色を塗ってだますな、魚河岸業者は直売りをするな、ということで、
いずれも至極もっともなことで、こんなことが要求条項となるほどですから、
当時の市場がいかに無秩序な状態であったか知れましょう。
魚市場組合側はこの要求に沿うことを約束しますが、いっこうに改善も見られない、
ところへ製氷払下げ問題が起こりました。
ついに業を煮やした買出人側は、七月三十日、
前四項目にさらに次の二項目を追加して再び要求書をつきつけます。
 
 
 5.魚市場においては買出人の団体員に販売することを原則とすること
 6.買出人の団体員に限り奨励金を交付すること
 
 
市民に及ぼす重大問題として要求申上げる。
来る八月五日迄に回答を得られたい。
 
 
今回の要求は一歩も退かずという買出人の強い意志がありました。
この運動を導いたのが当時東京鮮魚買出人連合会副会長であった塩沢達三氏です。
のちに中小企業団体、商工協同組合、魚商組合などのリーダーとなる同氏は、
買出人の地位向上にはかりしれない功績を残された水産界の偉人ともいえる人です。
 
 
いっぽう、これを受けて立つのが、あらたに魚市場組合の理事長となった田口達三氏。
魚問屋をまとめて初の単一会社東京魚市場㈱をつくり、戦後は現在の築地魚市場㈱を創立、
この人の足跡がそのまま戦前戦後の魚河岸の歴史であるといえる、まさに魚河岸の巨人。
 
 
偉人と巨人、二人の達三の激突は前代未聞の不買争議へとなだれ込み、
やがて東京市民をも巻き込んだ社会問題へと発展いたします。
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2007年03月05日

築地魚河岸昔がたり(57) 不買争議(その一)

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          嵐が近づく魚河岸
 
 
要求一 通路の整備
  二 販売量目の正確化
  三 魚の着色の取締まり
  四 卸売業者の小売行為の禁止
  五 買出人団体員のみに販売すること
  六 買出人団体員に限り奨励金を交付せよ


“……今さら申し上げるまでもございませんが、
 魚河岸の人たちが私どもとの取引に対してどういう態度を取っているか。
 バカヤロウ、シミッタレ等はまだいいとしても
 呉れてやるから持っていきぁがれ、とか甚だしいのは乞食野郎等々の罵声を浴びせ、
 しかも平然とそれを繰りかえすのだから、問題にも何にもなったものではありません。
 果たしてそれでいいものでしょうか?
 とりあえず六つの希望要件を表面化して要求しましたが、むしろ私どもの真意は
 魚市場の人たちがもう少し時代というものに目覚め、
 私たちをせめて人間並みに取扱ってもらいたいということです……

 私どもは決して魚市場の人々を無能だとは申しません。
 しかし、私たちが遠慮してあからさまに言わないからといって
 私たちの真意を汲み取って下さることの出来ないのは、甚だ心外に堪えません”
 
 

時代は変わったのだから、これまでの魚河岸の不遜な態度はもはや看過できなくなった、
買出人の声はまったくもって正当なものでした。
六項目からなる要求は魚河岸の客である買出人として当然の権利と主張しました。
ところが、このうち五と六は買出人団体の者だけに適用せよ、というもので、
裏を返せば商売がしたければ、また、奨励金が欲しければ、団体に加入しなければいかん、
それを市場側は認めろ、というのは無理な理屈があります。
 
 
ことに六の奨励金というのは、当時青果の方で千分の五の歩戻しを行なっていて、
それを鮮魚にも適用しろ、というものでした。
買出人側の数々の要求はひとえにこの歩戻し、つまり「金を出せ」ということにある、
そう見てとった魚市場組合の田口達三は「一厘も出せない」と思いました。
期限ギリギリの八月五日午前十一時に魚市場組合より買出人団体に提出された回答書には
第一から第四までの要望には従前の努力を続けるが、五項、六項は絶対拒否というもので、
両者の姿勢は完全に平行線をたどります。
 
 
この回答を受けて翌々日の七日、塩沢達三ら買出人団体の代表が
魚市場組合を訪れまして、再度要求を持ち出して十日までに再考をうながします。
このとき塩沢と田口は二十分ほど実におだやかな雰囲気で会見したといわれますが、
「いちおう組合の儀に諮って……」と言う田口の胸の内は「絶対に呑まんぞ」でしたし、
それを微笑で受ける塩沢の表情にも「呑まなければ不買動議をやるぞ」という意志が
ありありと表れていました。
双方の対立はまさに一触即発の状態だったのでございます。
 
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2007年03月06日

築地魚河岸昔がたり(58) 不買争議(その二)

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  業者は争う 行政は市場をつくる(昭和7年)
 
 
買出人団体と魚市場組合との戦いは、
そもそも小売商が魚河岸で不当な扱いを受けていたことに端を発していますが、
買出人団体が六項目の要求を突きつけたときから様相が少しばかり変わってまいります。
とくに第六の要求である奨励金の交付に真の狙いがあることは、はた目にも明らかで、
魚市場組合側としてはこれを飲むわけにはいきません。
なぜなら、買出人の要求通りに歩戻しを行なえば、魚問屋の利益を補うために、
その不足分を生産者である浜方に求めることになってしまうので具合が悪いわけです。
どうして具合が悪いのかというと、これが説明すれば長くなるので何でございますが、
どっちみち、このシリーズはすでに長くなっているので、以下にご説明いたしましょう。
 

 
それはいつ頃生まれたのか分かりませんが、
魚河岸では「書きこぼし」という旧慣が古くよりございました。
この奇妙な言葉の意味をご説明するに、端的に申せば「略奪」ということでございます。
魚河岸が浜方から利益をバンバカ搾取していたわけですな。
 
 
各浜の荷主から魚河岸の問屋へ魚荷が託送されてまいりますと、
そいつを少しでも高く売ろうと魚問屋は努力いたします。
そしてその売上高の百分の七を規定の口銭として差し引いて、残りを荷主に送金します。
口銭というのは手数料と思っていただければよろしいです。
この「七分口銭」というのが原則的に認められた魚問屋の利益でございました。
 
 
さて、魚というのは自然の産物でございますから、相場の不安定はつきものです。
一体そいつが幾らで売れたのか、魚の値段って幾らなのよ、ということは
旧来の魚河岸方式では、まったくのブラックボックス状態で誰にも分かりません。
といいますのも何でも魚問屋の自己申告制でしたから、
問屋が幾らで売れたといえば誰も文句をつけられなかったのでございます。
だから、五十円で売れたものを四十五円、あるいは四十円なんてことにしてしまう。
そこはまあ、やり過ぎないように注意を払ったでしょうが、
正当な金額を計上する魚問屋は、ほぼ皆無に等しかったのですな。
このような不正を「書きこぼし」と称して暗黙のうちに搾取するというのが慣わしで、
「七分口銭」は表向き、実際は略奪に等しい行為が横行していたのが当時の魚河岸でした。
 
 
そこへ持ってきて買出人風情が歩戻しをよこせと言っている。
連中に二、三分の口銭を呉れてやったなら、
必然的に浜方からの口銭を一割程度に引き上げなければならなくなる。
売価で不正しているんだから、何も口銭ぐらいと思いますが、
それはそれ、これはこれ。せちがらいのが水産業界でございます。
ちなみに一割のバックマージンはR10%(アールテンパ)と申しまして、
局地的業界用語で「たいへんにオ・イ・シ・イ」とされております。
 
 
荷主連中も人の良いばかりではありません。
もしも問屋が買出人の要求を呑むということであれば、
口銭引上げならば、その代わりに「書きこぼし」絶対廃止すべしとの、
強硬な態度に出るぞ、という空気をありありと感じさせつつ、
事の行方をじっと睨んでいました……
 
 
そういうことで、魚市場組合側は買出人団体の要求を容れることは
絶対に、絶対に出来なかったのでございます。
 
 
実は買出人側はこのような事情を十分に知りつくしておりまして、
要求拒絶はすでに織り込み済の上で、最初から喧嘩腰で交渉に立ったのです。
そこに稀代の戦略家、塩澤達三の深い戦略がございました。
本当のところ、かれとて奨励金を取れるとは思っていませんでした。
いかにも奨励金欲しさと見せかけておき、それだけは実行不可能という結果を引き起こす。
それならば、とそれ以外の要求を徹底的に実現させる。
そしてしかるべき後には本丸である奨励金獲得に向けて体勢を整えて機を待つ。
つまり、決裂させるための交渉を画策したのでございます。
実にリスクリワードの優れた戦略といえましょう。
「不買実行」、つまり全東京市の魚屋が魚河岸(おまえ)の所じゃ買わないぞ、
というのが塩澤の切り札でした。
しかも交渉カードを北朝鮮のようにちらつかせるのが目的ではなく、
いつそれを切るかということだけが塩澤の狙い目だったのです。
 
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2007年03月08日

ハートウォームなお話(カシミア入り)

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実年齢はともかく、精神年齢は八十歳の米寿を迎へる我輩は
最近とみに涙腺が弱くなってきた、てへか、やたらと泣くやうになつたで候。
先日なんぞは「エクソシスト」のDVD観て号泣してしまゐました。
一体私の感情はどうなってゐるのでせうか。
何となれば、いつでもどこでも泣けるのであり、便利と言へば便利であり、拙者の特技であり、
 
あうっ、あううっ、うぐぐっ、おわああああああああああぁぁぁぁぁぁ、あっ
 
あゝスッキリ致しました。大変に良く泣けました。
気持ち良く泣くために、まあどういつた材料でも良いのですが、
ハートウォームな話題といふのは、これはとてもハートがウォームします、ので良い。
どんなことがウォームかと言ふと、他人の一寸したラヰトな不幸な話、
これが実に良いです。心洗はれます。
 
「朝起き上がらうとしたときに腰をゴキャッとやつちまつて立てなくて……」
 
と言ふ友人の言葉にピクッと反応するわけです。
 
「ていふか、健康診断でコレステロール400とかでるしい、マジヤバ、
ダイエットでゼリーばつか喰つててさあ……」カシミア
 
うん、うん、さうかい、さうかい、それは大変だねへ、と、ここで身体が前に出ますな。
この、自分がいかに年齢を取ったか、とか、身体が弱くなったか、といふ話題は
聞くのも話すのもじつに愉しいものです。ハートウォームですな。
あと、合コンで話に乗れてない感が微妙なオレ、とか、ケータイが妻の手に渡ってガーンとか、
株が下がってトホホとか、ハードディスク飛んでポーンとか、
むむっ、チャーシューがいつもより小さいナとか、「突然すみません」で始まるメヱルとか、
何か知らんが防犯カメラにオレが映ってゐたやうな気がするとか、
やつぱソバ打ちっしょ、ソバ打ちっスヨ、ソバ打ちっスカ? とか
さういふウッスラと不幸感にみちたラヰトにウォームで美しい国ニッポだし、
どーするのミナサン? どーなるのワタクシの人生?
 
あうっ、あううっ、うぐぐっ、おわああああああああああぁぁぁぁぁぁ、あっ
 
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2007年03月12日

築地魚河岸昔がたり(59) 不買争議(その三)

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        次々と組み上がる鉄骨
 
 
買出人と魚市場組合との確執は水面下で行なわれてはいましたが、
険悪なムードは周囲に満ちておりまして、魚河岸も張りつめた空気につつまれます。
これは治安上何とかせねばならん、ということで、
築地署の清水佐七署長が双方の幹部を招集して、和解を勧告いたします。
このとき同席していたのが魚河岸の顔役、佃政こと金子政吉氏でした。

関八州に鳴らした侠客佃政親分の影響力は少なからぬものがありました。
これまで幾度も魚河岸内のトラブルを解決してきましたから、
「オレにまかせてくれ」と買って出た調停役に魚市場側は心強くしました。
ところが、買出人側は署長と親分に説得に対して威圧感を覚え、
逆に警察と侠客の圧力だと反感を持ってしまいます。
 

 
男気を見せた佃政氏、そこにすがった魚市場側、しかし買出人側がこれを拒否した以上、
改めてこの問題の調停をするには、佃政氏の体面もちゃんと保たなければならなくなり、
さらに問題はこじれてまいります。
 
 
こうしてなすすべもないまま、要求期限の八月十日を迎えまして、
魚市場組合は前回同様、拒絶の回答を午後に買出人連合会に送ると、
たちまちのうちに不買争議が燃え上がることとなります。
 
 
翌十一日、買出人連合会から不買同盟決行の声明文が出され、
消費者に直結する問題だけに新聞各社も社会問題として一斉に取り上げます。
 
 
買出人連合会の実行手段
 一、不買同盟で築地市場に入荷が減った分一日三百トンを横浜、大森、北千住の三市場より入れる
 二、仕入は二十四の各支部ごとに買出総量をまとめ一支部トラック五、六台を用意する
 三、持久戦の場合は生産地と直接取引も考慮する
 
 
これに対して十二日、魚市場組合側も反対声明を出して、これに対抗します。
 
 
魚市場組合側の実行手段
 一、不買決行と同時に、市民および生産者に声明書を発表し、直売の了解を求める
 二、小揚組合その他問屋付属組合員に指令して全市に直売を行なう
 三、他に運搬用トラック三百台、リヤカー五百台を用意し、臨時行商隊を組織する
 
 
こうして双方譲らぬ決戦態勢のまま、
魚河岸の大喧嘩は世間の耳目を集めるところとなったのでございます。
 
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2007年03月13日

築地魚河岸昔がたり(60) 不買争議(その四)

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      卸売場渡り廊下を作っているところ
 
 
お前のところで買わなくても他があるぞ、と買出人連合会が言えば
そんなら俺らは直に売ってやらあ、と魚市場組合が突っ張る。双方一歩も引きません。
まあ何かと騒動の多い魚河岸ですが、今回の騒ぎは尋常ではない、ということで
あちらこちらから調停役が出てまいります。
まず、青果連合会長の勝浦清太郎氏と青果小売連合会長の大沢常太郎氏が
「まあまあ」と双方をいさめまして、ちょっといいムードになりますと
今度は前文部政務次官の安藤正純氏と前警視総監の宮田光雄氏が間に入り、
「仲良くおやんなさいな」と説得いたしましたところ、
どうにか円満妥協ということに落ちつこうという具合になりました。
 
 

ところが調停の斡旋が九分通り進んだところで、またしても問題が起こります。
佃政氏が買出人のやり方が気に入らないと言い出したからです。
東京市から正式に調停人を依頼されたのに、
買出人側から無闇に「佃政は市場のまわし者だ」と拒絶されては顔が立たない。
さらに、安藤、宮田両氏も、これが普通の労使争議でなく得体の知れないものだと気づき、
一方で佃政氏への配慮もあって、調停役から手を引いてしまいます。
そこへもってきて、業界新聞が安藤、宮田両氏に買出人が調停を泣いて頼んだ、などと
面白おかしく書き立てたものですから、買出人側の怒りに火を注ぐこととなり、
結局、話し合いは完全に決裂にいたります。
 
 
魚河岸の大喧嘩は新聞各紙が大々的に報じまして、
大新聞ばかりかインチキ新聞、盆暮新聞までが大挙して魚市場組合事務所に押しかけます。
組合ではその応接に四苦八苦する始末。
業を煮やした田口達三氏は懐刀でアイデアマンの伊藤春次氏に相談しますと、
今後は市場からの声明広告一切を電通に委せましょう。
で、バナー張ってアフィリエイト収入でも貰いましょう、という秀逸な意見がでました。
そこで電通の当時の報道関係の顔役だったT氏に依頼することに決まったのですが
これが新聞記者たちにバレてしまい、Tはさんざん袋叩きの目に遭わされたといいます。
 
 
そんなふうに、争議前から場外乱闘が入り乱れる騒然とした状況でしたが、
八月十三日、買出人連合会は宣戦布告の声明文を発表します。
 私共鮮魚買出人の今回の挙は、長い間の魚市場の問屋の横暴、圧迫に耐えかね(中略)
 私共はあくまで正々堂々と戦い、営業は一日も休まず、御客様皆様各位に対しては
 決して御迷惑をかけない積りですので、力の弱い私共の叫びに御声援下さいます様
 伏して御願申上げます。

 
 
そして翌十四日よりついに不買決行。
買出人連合会の調達した百三十台のトラックの長蛇が京浜国道を進みます。
目指すは川崎、横浜の両市場。
一方、この日より築地市場取扱量は半減、
魚河岸には大正のコレラ騒動以来の閑古鳥が飛ぶ有様となりました。
 

2007年03月14日

築地魚河岸昔がたり(61) 不買争議(その五)

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    築地鉄骨祭り(昭和七年)
 
 
不買決行によって買出人の姿は築地市場からすっかり消えてしまいました。
かれらが大挙して向かった先は横浜、大森、北千住の近隣市場。
トラックで、自転車で、徒歩で、目的地を目指します。
川崎では買出トラックの大渋滞で警察隊が出動する騒ぎに、
また、横浜市場では築地市場から来ていた監視隊と買出人連合会が衝突、
大乱闘を演じて負傷者を出すというハプニングも起きます。
 
 

しかしながら、まさに漁夫の利を得たというべきは近隣市場でございまして、
普段に倍する売上を数え、とくに千住市場にいたっては五倍の利益を生みましたから、
各市場は「沈静化を望む」と言いつつ本音は「もっとやれ、もっとやれ」だったでしょう。
 
 
八月十四日より起こった不買争議は、十五、十六日とさらに拡大し、
買出人の同盟の強さを天下に示すこととなりました。
このままでは一大事と、時の荒木孟市場長は魚市場組合、買出人連合会それぞれを訪問し、
意見交換を重ねますが、双方すこぶる強気で、耳を貸すそぶりもございません。
魚市場組合などは完全に頭に血がのぼり「あいつらとってもヒドイんだよ」というような
声明文を出して、「本当に直売りするからね」と脅しをかけます。
これではまったく手のほどこしようがない。
そこで荒木市場長は一度手を引いてしまった調停人らに再度の調停を依頼します。
改めて佃政、宮田、安藤の各氏を正式な調停人として、これに五大都市の買出人代表、
青果小売連合会長の大沢常太郎氏が加わって、事態終結に向けて必死の奔走をいたします。
 
 
不買も一週間ほどでヤマが見えてまいりました。
日が経つにつれて買出人としても生活問題にかかわってまいりますので、
まずは鮨屋、料理屋連中が抜け、次に小売商も不便を唱え始めるなど、
次第に足並みが乱れることとなります。
今がチャンスとばかり調停人の真剣な説得がようよう功を奏しまして、
双方ともに振り上げた拳をようやく下ろそうかなという雰囲気になってまいりました。
とくに買出人連合会はやることはやったわけでございますから、
不買も十二日目の八月二十六日をもって終わることとなりました。
もっとも、そこに至るまでも、すったもんだは続き、元市会議員早川庄太郎氏が
佃政氏と買出人連合会の間に入って必死にとりつくろったとも言われております。
 
 
まあとにかく仲直りしましょうや、ということになりまして、
その頃ギンザコマツの裏にあった「松本楼」の二階大広間で手打式が行われます。
何もそんな大仰なことしなくても河岸流の手締めでも良さそうですが
そこは佃政氏を立てて、ひとつ親分の演出にお任せしましょうということになりました。
すると、これが実に古式豊かな儀式だったのでございます。
 

2007年03月15日

築地魚河岸昔がたり(62) 不買争議(その六)

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       築地鉄骨大会(昭和7年)
 
魚河岸が激しく揺れた不買争議も調停者白紙委任ということで
佃政氏らお預かりとなって漠然と決着するにあたり、
その手打式が銀座「松本楼」の二階でめでたく行なわれることとなりました。
 
 

その当日、大広間は上座も下座もなしの四方間。
床の間には天照皇大神、春日大明神、八幡大神の掛け軸。
その前には奉書に塩を盛った三宝を置き、カチグリ、コンブ、タヅクリ、タイ一対を供え、
部屋の真ん中には巨大な金屏風がデンと置いてあります。
その片側には魚市場組合の面々が、もう一方には買出人連合会の代表者が並んでいますが、
互いに相手の顔が見えないようになっております。
 
 
紋付袴姿の佃政氏の両脇にモーニング姿の安藤、宮田両氏と三人の調停者が末席に着座。
厳粛なムードのなか、佃政氏やおら立ち上がって正面祭壇に進み、清めの式を行いますと、
ここで屏風がさっと除かれます。
昔のテレビ番組パンチDEデートよろしく双方はじめて「ゴタイメ~ン」とあいなります。
 
 
「大開き、
本日双方お出でを下さいましたことを、まことに有難く心得ます。
今度のことは宮田様、安藤様、不肖私の三人にお任せくださいまして、
これまた有難く御礼申し上げます。
これまでのことは水にお流し下さいまして、
水と魚、魚と水のようにお交じりをお願いいたします。
これにて口上も済みましたによって、お杯をいたします。」
 
 
佃政氏の挨拶が済みますと、双方の代表が九人ずつ前へ出まして、杯をかたむけます。
最後はふたたび佃政氏の音頭でシャン、シャンと手締めを行い、
古式ゆかしい手打式は一時間ほどで終了いたしました。
 
 
こうして十二日間にわたる空前の不買争議は終結いたしましたが
その結果を見ますれば、魚市場側が十万円の損失、買出人側は十五万円の損失。
他に市場関係者では保管業者約八割の減収、食堂、付属商は売上約半減。
生産者、消費者への影響はたいした事はなく、
近隣市場は漁夫の利を得て大いに儲けるということになりました。
 
 
肝心の買出人連合会の要求はうやむやとなり、とくに奨励金交付は黙殺されましたから、
この争議は失敗に終わったといわれています。
しかし、これまで低い地位に甘んじていた買出人たちが、
自らの行動力でともかく業界、政界と対等に渡り合った。
それによって魚屋の団結力を世に知らしめたことは収穫大であったといえます。
「今回はこれで良い。しかしこの次はこんな程度では終わらんよ」
この争議の仕掛け人、塩沢達三の目は青白く輝くのでした。
 
 
その頃、田口達三理事長のもとに一枚の書状がそっと届けられます。
「何だこりゃあ」それは手打式一切にかかった請求書でございました。
「何でオレが払わにゃならんのよ!!」と、普通の人ならビックリして文句いうところを、
さすが魚河岸最強の大立者はちがいました。
「ご苦労」と、ポーンとポケットマネーで支払ったといいます。

2007年03月20日

ツキジの裏側

(復刻版『築地市場ガイド』第12回)

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『Tsukiji Fish Market』J.B.Haywood著より
 
ツキジ市場はそれ自体がひとつの町である。
ここにはおよそないものはないというくらいに何でもそろっている。
 
 
飲食店や“マンジュウヤ”と称される売店の類は
市場人の空腹を満たすとともに、きつい仕事の合間の憩いの場となっている。
商売道具を扱う刃物店や履物店、手カギなどを置いている道具屋、
床屋も数軒、入浴場にプール、体育館、図書館、診療所、産院もある。
さらには墓地(場外市場はお寺の敷地につくられた!)まで用意されているという具合に、
文字通り“ゆりかごから墓場まで”とり揃えているのがツキジだ。
 
 

エミール・ゾラの『パリの胃袋』は、フランス・ランジス市場を舞台にした作品だが、
そこには市場に捨てられた双子の赤子が周囲の人びとに育てられ、
無数の食材に囲まれながら遊び回るシーンが出てくる。
“市場の子”のイメージは大変示唆に富んでいて興味深いものがあるが、
ここツキジでも市場内で生まれた者が、一生を外へ出ずに暮らすことは可能だろう。
いや、実際にそういう人間もいたにちがいない。
トロ箱に産まれマグロに育てられた男の話がある。
かれは日本語を理解できなかったが、セリ人の早口の売り声を完璧に聞き分けたという。
そのような荒唐無稽な噂話がもっともらしくきこえるほど、
ツキジの町はそこに底知れぬ“裏”がひそんでいるように感じさせるものだ。
 
 
実際に何気なく訪れた飲食店で突然、イチバの“裏”に出くわすこともある。
「ノッケ」「ウインク」「アタマ」「ナイアタマ」「ツユダク」「マイタトコ」「アトム」
「ナルトスイ」「ハーフ」「シナガワ」等は、すべて市場人の要求を満たすべくつくられた
わがまま“裏”メニューであって、なかには広く一般に定着したメニューもあるが、
ほとんどは一体それが何を意味するのか外部の人間には分かりづらい。
が、それはまだいい。何となれば市場人の真似をして注文して確かめればいいのだから。
しかし、洋食店に入ると長靴を履いた人が寿司をつまんでいたり、
ラーメン屋の主人が別の店にきて「ここのラーメンうまいよね!」と食べていたり、
謎のマグロ屋事務所ではガリの臭いも凄まじい「かいわさ丼」を密造しているなどは、
いかような事情がそこにはあるというのか。
 
 
飲食店ばかりでなく市場内にはあらゆる場所に“裏”の扉がかくされている。
たとえば市場人の必需品である包丁をあつかう刃物店は、表向きは業務用品を並べているが、
その“裏”、つまり秘密の裏口から入ると、店内はニンジャ専門店へと早変わりするらしい。
真の商売は変化の術が施されていて表からは見えず、
利用者も遁世の術により完全に姿を消しているため、その存在を認めた者はいないが、
全国でも数少ないニンジャグッズの店として、市場忍者の需要を満たしている。
店内では妖刀ムラマサ、各種手裏剣、鎖かたびらなどと並んで、
水上歩行用の「水ぐも」なども販売している。
陽気な市場忍者たちはこれをはいて、河岸引けの隅田川を大挙して月島方面に渡って行くが、
もちろん水遁の術が施されているために、誰もその姿を見ることはない。
 

童門冬二氏の講演会

「小説上杉鷹山」、「黒田如水」などで有名な歴史・ノンフィクション作家の童門冬二氏の
講演会が築地市場で開催されます。

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テーマ:「歴史から学ぶ」
    ~市場流通、リサイクル、ボランティア、日本人の心

日時:平成19年4月4日(水)
   12:00~13:30

場所:築地市場水産部三階・東京都講堂


主催:築地をきれいにする会
    NPO法人・築地魚市場銀鱗会

問合せ:東京都築地市場管理課・磯さん(03-3547-8012)

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ファンのみならずとも、ぜひ見たいですね。

2007年03月23日

築地魚河岸昔がたり(63) 卸売人の単複問題

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完成したけれど借り手のつかない市場。業者は真ん中のバラックで営業を続ける
 
 
話が少しさかのぼりますが、中央卸売市場法(以下市場法)が
大正十二年に制定されたことは大変に画期的なできごとでございました。
市場法は大正七年の米騒動が直接のきっかけとなって生まれた物価対策で、
国民生活の根本である生鮮食品の流通機構を改善し、
物価騰貴を抑制することを目的としたことは、前に申し上げました。
しかし、市場法が魚河岸業者の命運を決するほどのものでありながら、
制定直後に関東大震災が起こり、なしくずしに築地移転となったため、
その重大性に気づく者は少なかったのでございます。
 

 
そればかりか築地の市営市場は、業務形態も従来通りの問屋、仲買、問屋兼仲買のままで、
日本橋時代と同じ産地、荷主との結びつきのなかで営業を続けていました。
何のことはない、日本橋魚河岸が築地にそっくり移っただけだったのです
江戸時代以来三百年余の歴史ある魚河岸を新制度のなかに律することは
なかなか難しいことであったわけですな。
 
 
しかし、昭和の幕開けとともに吹き荒れた不況の嵐に、水産流通業界も煽りを受けまして、
なかなか経営もきびしく、同業者間の競争も激化するという状況がやってきました。
そこで、あらためて注目されてまいりましたのが市場法でございます。
市場法の理念を我々の手で実現しよう、という業者たちの崇高な意志だった、わけでなく、
中央卸売市場の傘に収まって、何とか苦境をやり過ごそうや、ということでしょう。
何はともあれ、ようやく市場業者も団結しなければという機運が高まってまいりました。
 
 
さて、中央卸売市場開設第一号というのは東京ではなく京都市場でした。
京都では早くから各市場が中央卸売市場に入ることを決めておりまして、
他に先鞭をつける形になりましたから、その実現は全国的にも注視されることとなります。
その際に問題となったのが卸売人を単一にするか複数にするかということでした。
京都ではこれまで各市場同士の競争で苦い経験をなめてきましたから
中央卸売市場に入るにあたって、各問屋がまとまって単一会社をつくって、
独占体制をつくることを考えました。
 
 
京都市場の業者に呼応するように、東京、大阪、横浜などの市場業者は
市場会社の単一制に声援を送ります。
その一方で、生産者や荷主はこれに対し強硬に反対をしました。
当時、業者を統べる商工省は単一制にはやや賛成、できれば単一がいいね、という姿勢で、
一方、農林省は生産者の単一反対を受けて、複数制を支持しました。
 
 
京都市中央卸売市場の開設をめぐって、卸売人の単一、複数の議論、
いわゆる単複問題が盛んに論議されるようになりまして、
理論には理論を、感情には感情を互いにぶつけ合う大論争に発展します。
その火種は築地市場に移り、これから真っ赤に燃え上がることとなり、
またぞろ大騒動が持ち上がるのでございます。
 

2007年03月26日

ふくちゃんの花見

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  花貝ですか 薬しいですか
 
 
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        おや?
 
 
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  あれよ あれよというまに
 
 
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 アタクシになぜ桵が朕きますか
 
 
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    花貝です 薬しいです