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築地魚河岸昔がたり(63) 卸売人の単複問題

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完成したけれど借り手のつかない市場。業者は真ん中のバラックで営業を続ける
 
 
話が少しさかのぼりますが、中央卸売市場法(以下市場法)が
大正十二年に制定されたことは大変に画期的なできごとでございました。
市場法は大正七年の米騒動が直接のきっかけとなって生まれた物価対策で、
国民生活の根本である生鮮食品の流通機構を改善し、
物価騰貴を抑制することを目的としたことは、前に申し上げました。
しかし、市場法が魚河岸業者の命運を決するほどのものでありながら、
制定直後に関東大震災が起こり、なしくずしに築地移転となったため、
その重大性に気づく者は少なかったのでございます。
 

 
そればかりか築地の市営市場は、業務形態も従来通りの問屋、仲買、問屋兼仲買のままで、
日本橋時代と同じ産地、荷主との結びつきのなかで営業を続けていました。
何のことはない、日本橋魚河岸が築地にそっくり移っただけだったのです
江戸時代以来三百年余の歴史ある魚河岸を新制度のなかに律することは
なかなか難しいことであったわけですな。
 
 
しかし、昭和の幕開けとともに吹き荒れた不況の嵐に、水産流通業界も煽りを受けまして、
なかなか経営もきびしく、同業者間の競争も激化するという状況がやってきました。
そこで、あらためて注目されてまいりましたのが市場法でございます。
市場法の理念を我々の手で実現しよう、という業者たちの崇高な意志だった、わけでなく、
中央卸売市場の傘に収まって、何とか苦境をやり過ごそうや、ということでしょう。
何はともあれ、ようやく市場業者も団結しなければという機運が高まってまいりました。
 
 
さて、中央卸売市場開設第一号というのは東京ではなく京都市場でした。
京都では早くから各市場が中央卸売市場に入ることを決めておりまして、
他に先鞭をつける形になりましたから、その実現は全国的にも注視されることとなります。
その際に問題となったのが卸売人を単一にするか複数にするかということでした。
京都ではこれまで各市場同士の競争で苦い経験をなめてきましたから
中央卸売市場に入るにあたって、各問屋がまとまって単一会社をつくって、
独占体制をつくることを考えました。
 
 
京都市場の業者に呼応するように、東京、大阪、横浜などの市場業者は
市場会社の単一制に声援を送ります。
その一方で、生産者や荷主はこれに対し強硬に反対をしました。
当時、業者を統べる商工省は単一制にはやや賛成、できれば単一がいいね、という姿勢で、
一方、農林省は生産者の単一反対を受けて、複数制を支持しました。
 
 
京都市中央卸売市場の開設をめぐって、卸売人の単一、複数の議論、
いわゆる単複問題が盛んに論議されるようになりまして、
理論には理論を、感情には感情を互いにぶつけ合う大論争に発展します。
その火種は築地市場に移り、これから真っ赤に燃え上がることとなり、
またぞろ大騒動が持ち上がるのでございます。
 

コメント

築地市場の歴史は、橋田ドラマのようでもありますな。義理を立てて、情に棹さし、最後は手前ぇもろとも濁流に呑まれてしまう。
いやぁ、見ている方は楽しくてしようがない。あたしゃ、こんなドラマが大好きです。

「渡るセリ場は鮪ばかり」ですな。
出演するマグロの長ぜりふがきわだってます。
「いくらマグロだって寿司を喰わないって法はないでしょ。あたしゃ自分で自分を喰うの、喰いたいのよ。一流企業へ苦労して入ったって親の思い通りにはならないし、職人になったほうが幸せになれるってものよ。自分で寿司をこしらえて喰うのよ。おみおつけの実にも入れるわ。鉄火丼にしても罰は当たらないでしょ。長年苦労してるとDHAが骨身に染みるのね…」

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