築地魚河岸昔がたり(64) 卸売人の単複問題(二)

昭和8年築地市場 営業はバラック建て、後ろの建物は空家
卸売人を単一にするか複数にするかが問題となるのは、
中央卸売市場の開設によって、問屋の業務形態が市場法で制限されるからです。
民間の自由市場であれば、一つの問屋を中心とする小規模市場なら単一であるし、
複数問屋の集合市場なら自然に複数となるという具合に、
それぞれの地区ごとの経済的事情によって形態はさまざまであるはずです。
ところがこれを法で制限し、中央卸売市場という形に集中統合しようとすれば、
市場や卸売人の数というのが問題となってまいりまして、
一地区一市場一卸売人という構想のもとに単一論が生まれました。
つまり、本来、単一か複数かは、その地区の実態に合わせるべきところを
市場法で単一制に限定することが可否か、というのが単複問題の実体でありました。
さて、単複問題は中央卸売市場第一号である京都市場開設とともに
全国に論争が巻き起こったわけですが、もとは日本橋魚河岸がその発祥です。
明治四十四年に東京市提出の建議書に、全問屋一丸となっての単一会社結成の要望が
日本橋魚河岸の組合から出されています。
都市の発展にともない市場と問屋の数が無制限に急増して、業者間競争が苛烈化したため、まあ自分らの利益を守るために、法でこいつを規制しておくれよ、というのが
市場業者が単一を望む理由です。
業者の乱立を防ぐことで、市場営業権の独占的な確保することが狙いでございます。
一方、生産者(荷主)、買方(小売)にとっては魚問屋の営業独占は脅威です。
荷主には買値の廉価による損害を与え、小売には売値の高騰による苦しみを生む
その結果、漁業の不振、衰退を招き、ひいては国家的損失をもたらす。
むしろ独占の弊害を排して、競争主義に基づくことで、
魚市場の旧弊の打破して、鮮魚を迅速かつ大切に扱い、衛生面の向上にもつながる、
というのが複数論を支持する荷主、小売商の意見でした。
また世論も大方は複数による競争制を支持でありまして、
単一というのは現今の魚問屋を庇護ためのものである、などと新聞にも書き立てられます。
市場と生産者、小売の対立は、それぞれの立場を主張するだけものでしたし、
新聞の論調なども市場取引の実際をよく把握した上での批判ではありませんでした。
魚河岸としては、まあ既存の権利が優先されるなら、それでいいや、という調子で、
あえて世論の反対や荷主の不満を買ってまで主張する気はなく、
日本橋魚河岸の移転をめぐって長くすったもんだしておりましたから
単複問題というのは長く議論されないまま放置されました。
しかし、行政にとっては中央卸売市場の開設に際して、これは避けて通れない問題です。
市場法では建前上は複数を認めていましたが、行政管理上は単一の方が都合は良いのです。
また、卸売人の単一を認めず、他の新規業者を複数制によって許可するとなると、
優先資格者が収容に応じないという事態もでてくると考えられました。
京都市場はじめ関西の中央市場は単一卸売人として開場しましたが、
そこで単複問題が大きく騒がれたことが、築地中央卸売市場の開設に大きく影響します。
市場建設工事も昭和八年まで長引いたこともありますが、
市場完成後も数年にわたって中央市場が機能しないという異常事態にみまわれます。
それというのも本来は単一を願っていた市場業者までが内部分裂をはじめたからです。
そこには単一卸売会社への収容時に各問屋へ割り当てられる補償金、
いわゆる老舗料の査定をめぐる困難がありました。
また、単一を望む業者の多くは安全策として独占的な会社への収容を願いましたが、
自分で仕事が出来る有力な業者は複数を望むという、力関係も存在していました。
そこに単一に反対する荷主、小売の抵抗、そして世論の声が加わりましたから、
築地市場は開場とともに大混乱をきたしてしまったわけです。
それは旧態然たる魚河岸が中央卸売市場へと大きく変貌をとげる
いわば陣痛にも似た苦しみでありました。




















