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2007年04月27日

かすで座講岸何魚

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  令年の魚何岸購座は煎期と後期わかれてます
 
 
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       後剘は秋からはじまります
 
 
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           お侍ちしています
 

2007年04月26日

魚何岸講座ですか

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    魚河岸講座は受講生の皆さんとの
 
 
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        一体感が大切です
 
 
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         背さんとの……
 

2007年04月24日

築地魚河岸昔がたり(71)  魚市場会社創立へ

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    昭和12年、鮪仲買団体大物組(現大物業会)組旗入魂式
 
  
田口達三氏の強硬な単一制主張を嫌った少数派の問屋連中が
卸売人の複数制を唱えて東京魚問屋株式会社の設立の動きを見せたことによって、
単複論争はさらに激化の一途をたどることとなります。
昭和九年十一月、再び魚市場組合長に返り咲いた田口達三氏は、
魚市場組合の新役員が決まると、会社設立を急ぎます。
しかし、所詮は魚問屋の集まりですから、
経験のない現場上がりが大魚河岸会社を設立しようなどは並大抵ではありません。
 

 
千余名の業者を一丸とする会社をつくるのだし、一部に不服があってもまとまらない。
そこで老舗料という名の営業権、これを現物出資の形として、
各問屋、仲買業者を買収して株券を渡す、というのが田口氏の考えです。
しかし、それでうまくまとまるか――複雑怪奇な魚河岸の世界では、
気の遠くなるようなお話で、それを短期間に成し遂げるのはとても不可能に思えました。
田口氏は自分の懐刀ともいうべき盟友伊藤春次氏に「どうすべえか」と意見を求めます。
すると春次氏、理路整然と答えていわく、
 
 
「問屋と仲買は別物として考え、また、複数派もそこから除外しましょう。
 単一派の問屋業者だけで創立発起人会をつくり、そこから選ばれた創立委員によって
 定款の作成、および老舗料の査定を決行するが吉」
 
 
春次氏の考えは、魚市場組合では問屋も仲買も同資格の組合員だが、
両者は立場が異なるので、組合内で単複を論じても解決しない、というものでした。
田口氏は春次論に大いに同意し、志ある者だけでとっと事を進めます。
問屋業者の懇談会を開いて、広く意見を聞くと共にかれらを説得していきまして、
ようやく新会社の発足へとこぎつけることとなります。
 
 
東京魚市場株式会社の発起人総会は、
昭和九年十二月八日、日比谷帝国ホテルに於いて開催されました。
出席者は五八七名で、すべて受付で発起人承諾証に拇印をとらされました。
あとで気が変わらないことと、満場一致の場合、創立委員会の権限が適用することから、
春次氏と組合の本多顧問弁護士とが相談したものです。
この総会で、発起人規約を満場一致で可決に持ち込み、同規約にもとづいて
定款の作成、老舗料の査定などを行う創立委員六〇名を選出します。
もちろんこの中には田口氏や春次氏はじめ市場の顔役相沢常吉などがおりました。
この瞬間から、会社設立は組合の問題ではなくなり、魚河岸の旧弊から完全に離れて、
商法に基づく創立準備の段階に入ります。
 
 
そうなると、次は営業権の査定問題となってまいります。
それには魚市場全体の営業権がいくらかを算定し、その総額を各業者に割当てるのですが、
その算定基準をどこに置くかが問題でした。
田口氏は鉄道用地の買収の場合、二十ヵ年は現在と同じ収益とみなす、とききつけました。
それを魚市場に適用すれば、当時年間一億の売上高で、その二分が儲けとして、
二十年間では四割の四千万となります。
しかし、それでは期間が長すぎるとして、十年間、二千万円という金額をはじきました。
 
 
まあ市場の総額はそれで良いとして、さて、そこから各問屋の営業権を査定、
という段階で、困り果てることになります。
魚河岸は長く特殊な場所でしたから、世間一般の尺度に合わないところが多く、
なによりも商法などとは無縁の商売を続けてまいりましたから、
査定しようにも、根拠となる書類が存在しないのです。
 

2007年04月23日

アラビヤンやきそばを食べる

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 魔法のようにおいしい
 

行きつけのスーパーで「アラビヤンやきそば」をめっける。感激!
これうまいんだよ!
 
 
特になんにも入れないのが最高。
でも大人なので、今日は春キャベツ入れてつくった。
あゝうまい。
 
 
ネットで買えたり、千葉県に売ってたりするらしいけど、
いよいよ本格復活か!?
 
 
ほかにも消えたインスタント麺っていろいろあったなあ……

2007年04月20日

築地魚河岸昔がたり(70)  問屋と仲買が分かれる

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            あゝ、できた、できた
 
昭和十年二月十一日、東京市中央卸売市場築地本場が正式に業務を開始。
この日をもって魚河岸は終わり、築地本場魚類部として再スタートいたします。
 
 

とはいっても、この時点で営業を開始したのは青果部や淡水など一部の魚類部で、
魚河岸の問屋、仲買は一人も入場しておりません。
卸売人の単複問題が後を引いており、収容もかけひきの材料のひとつであったからです。
かれらが築地本場に入場するのはさらに数ヵ月後のことでした。
魚市場組合、田口理事長の強行な単一合同の動きに真っ向から反対する複数派は、
同年十一月二十三日、東京魚問屋会社を結成、
その二日前には複数派支持である東京魚商組合員六千人らとマーチにのって
魚類部への入場行進を行なっております。
一方、単一派の東京魚市場株式会社が業務を開始するのは翌十一年一月十六日。
この日が事実上の魚河岸から中央卸売市場へと移行をした日となるでしょう。
 
 
魚市場会社と魚問屋会社の相次ぐ設立によって旧魚河岸は終焉を迎えました。
それは問屋と仲買が分離したことによります。
中央卸売市場の誕生は、従来の問屋仲買がはっきりと分野を分かつことを意味しました。
 
 
問屋は卸売人として会社組織となります。
単一派は営業権の独占を狙い、複数派は競争原理を考えるという思惑のちがいはあれ、
市場の運営、取引上の利便性で考えられたものではございません。
数多くの問屋の合同組織としての卸会社が集荷の役割を担うこととなりました。
 
 
一方の仲買は、何百年もの間に、その形態を変化させてまいりました。
はじめは請下(うけした)と呼ばれた仲買は、問屋から荷を分けてもらい、
これを朝売りで販売した後に、問屋との折衝で値を決める。
そして売値と問屋へ支払う代金との差益を得ることがその業務でした。
いわば問屋の下働きのようなものでしたから、その支配下から抜け出すために、
資金をつくり、ノウハウをためて、自分で集荷をする自由を得ようとします。
そのために問屋兼仲買の業者が増えていきます。
 
 
また、日本橋時代に仲買営業に必要となった板船権も、
築地移転とともに事実上は消滅しましたから、権利者からの制約もなくなり、
魚河岸特有の新旧序列の空気も薄らいでいきました。
古株も新顔も、大商店も小者も対等の権利と義務を持つようになったために、
昭和の御世においては、問屋専業はわずかで、
ほとんどの店舗は問屋兼仲買か、仲買専業でした。
このような背景があって、問屋と仲買を分離し、それぞれ集荷と評価・分荷とに、
その職能が分化する下地となったのでございます。
 
 
もっとも、当時の農商務省などは、仲買人のような中間業者を削った方が、
物価安定に役立つという考え方でした。
しかし、大都市においては大量に集荷したものを短時間で分荷するには
仲買人の存在は不可欠ということに決定し
当時、築地の仲買人千三百六十七人は、全員が失業することなく
すべて中央市場に収容とあいなりました。
まあ、そうすることによって、仲買人の営業権の補償をしないで済む、
というのが行政側の計算ではありました。
 

2007年04月19日

タイの甘みがよお

長えこと築地にいるのにさ、
魚なんかずっと嫌いだったのよ。
もちろん肉もキライだし、野菜だってあんまし好きじゃない。
そばとトウフと森永チョイスビスケットくらいしか、
うまいと思うものはなかった。
ところが、最近にわかに魚好きになっちゃったんだから自分が分からないや。
 
 
昨日もよっちゃんの「隠れ家」へ行って
“タイづくし”のご相伴にあずかったんだけど、
「甘みがあるねえ」かなんかのたまわってる自分が変だ。
 
 
しかし何だな、
「隠れ家」じゃあ、これでもかってくらいに、
皆して魚をうまくしていて、さながら魚食ラボだねえ。
つくる側も食べる側も気持ちがこもっていて、
すごいと思った。
 
 
でも、チョイスビスケットもやっぱうまいと思った。
 
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   やっぱしコレ

2007年04月17日

築地魚河岸昔がたり(69)  魚河岸が真っ二つに

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        昭和初期のウォータフロント計画を伝える新聞記事
 
 
市場施設が完成に近づくにつれて、旧日本橋魚河岸の問屋で組織された
魚市場組合内部に分裂のきざしが出てまいります。
 

 
昭和七年二月、魚市場組合長に田口達三氏が選任されます。
かねてより卸売人の単一制を唱えていた田口氏は
翌年『東京魚市場株式会社組織の大綱』と題する三七頁の小冊子を発行し、
全組合員に単一制支持を呼びかけております。
 
 
何といいましても魚河岸というところは、我も我もの群雄割拠の窟となっております。
仮にどれほど卓越した理論なり、見識がありましても
「俺は何となくあ奴が気に喰わねえ」
「どんな野郎か見たことねえが、ただなんとなく虫が好かねえ」
などと訳もない、反対のための反対意見によって、潰しにかかるわけです。
開明的な考えなどは空しく消えた何百年を過ごしたのが魚河岸でした。
 
 
当然、田口は独断専行だ、反対だ! という声が起こってまいりまして
その反対派が結束して複数制を主張し始めますと、組合内部は混乱状態となり、
昭和八年八月の臨時総会で田口氏ら単一派は全員総辞職、
代わって複数派である高村氏が組合長となります。
単複問題にはかなりの部分で、老舗料といわれる、魚問屋が会社の収容さえる際の
いわば補償金の査定問題がからんでおりました。
現代の商法にのっとった財務書類など何ひとつない、魚河岸という特殊な商売で
各問屋の補償金額を決定するのは並々ならぬことでございました。
 
 
何といっても財産、生活のかかっていることですから
双方の対立も血を見るばかりの激しいものとなっていきます。
複数派は築地市場の大立者といわれた佃政親分に協力を依頼します。
そこで事件が勃発しました。
田口氏と心をひとつにして単一を進めてきた安倍小治郎氏が
組合一切の職を辞して魚河岸から足を洗い、日本水産の常務となってしまったのです。
 
 
“あるとき佃政の子分がほんとうの槍を持って私の事務所になぐり込んで来た。
 身辺に危険が迫ったのを知りこの際市場から身を退こうと決心した”
(安倍小治郎自伝『さかな一代』より)
 
 
これまで組合の対外折衝から文書、要綱作成まで安倍氏の立案でしたから、
今辞められても困ると、田口は説得しますが、その決意は固いものでした。
もっとも旧弊に縛られた魚河岸を出て、水産資本を動かす方が
はるかに将来性は高いものではありました。
 
 
一時的にはアドバンテージを握ったかに見えた複数派でしたが、
じゃあどうするのよ、といえば、それほどの妙案を持っているわけでなく、
本質的には多数派である単一支持の組合員を統括することはできません。
その矢先、拠りどころであった佃政親分の急逝によって、
高村氏ら複数派はそろって任期半ばで退陣します。
 
 
すると、またしても田口氏の組合長返り咲きとあいなります。
昭和九年十一月、あらためて組合の方向を決める総会の席上、田口氏は
複数派もあっけにとられるような、強引な強行採決により単一合同を決議します。
これにはもちろん承服しかねる複数派は少数意見の留保を求めて、
対立のままこれを見送ったことで、事実上、単一収容は絶望となりました。
組合はここに完全に分裂し、魚河岸の二つの勢力はそれぞれの望むかたちで、
新しい組織づくりを目指す、という、無茶苦茶な状況となりました。
 

2007年04月13日

築地魚河岸昔がたり(68)  築地市場建設の経緯

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          昭和七年建設中の築地市場
 
関東大震災によって魚河岸が築地へ移転しますが、
そこにつくられたのは急造バラックの仮店舗でございました。
名称も「東京市魚市場」といいまして、あくまでも仮設市場。
営業形態も旧来の日本橋魚河岸の商売を踏襲しました。
 

 
当初は市場敷地内の一部分につくられた仮設バラックで市場業務を続けつつ、
その周囲では近代的な中央卸売市場の建設工事を進めていく計画でした。
それが着工の遅れや、工事中にも次々に引き起こる騒動によって、
市場設備が完成後も依然としてバラック営業を続け、
結局、全業者の収容が完了するまで十年以上の時間を要してしまいます。
三百年余にわたって続けてきた魚河岸のしきたりを
中央卸売市場法というあたらしい枠組みのなかで再編成するための、
産みの苦しみにも似た混乱だったのでございますな。
 
 
中央卸売市場築地本場は敷地の払下げ価格の折衝が難航し、
その手始めとなる敷地内の埋め立てに着工するのは昭和三年三月のことでした。
河口を浚い、その土をサンドポンプで吸い上げて鉄管で送り込み、
秋風池、春風池の埋立工事が完了、昭和六年五月には地鎮祭が執り行われております。
 
 
さっそく建設工事にかかるべえか、というところで問題になったのが卸売場の形です。
かねて業界は店舗並列縦型の配置を要望していましたが、当局の採用したのは扇型でした。
これは鉄道による大量陸送を見込むと長いプラットホームが必要となることから、
直線ではそれだけの延長がとれなかったため、扇型のカーブで補うというものでした。
また、プラットホームに接して桟橋と卸売場を設けたときに
仲卸店舗まで荷物を効率良く運ぶには扇型が適している、と当局は説明しました。
 
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          汐留駅からの引込線ができる
 
 
しかし、それでは営業に支障が出る、として業界が反発します。
扇型にすると売場内の区画ごとに仲卸店舗の面積が異なってくるので、
好悪条件の著しい格差が出てきちゃうじゃないの、という声があがります。
つまり、でっかい扇状の土地をどうやって区分けしても
タテヨコ同じ大きさには切れないよね、てことです。
 
 
この問題はだいぶモメたのですが、結局当局が原案通りの扇型を決行しました。
これによって現在のような市場の形となったわけでございますが、
予想通り、場所によって店舗間の面積等の格差が生じることになりました。
そこで、各仲卸業者の不公平を除くため、
数年に一度(最短1年、最長8年、平均すると5.5年に一度)店舗移動を行ないます。
これは全仲卸店舗のシャッフル的な引越しで、わずか1日、2日のうちに
大移動を行なう、という巨大イベント。
これまで18回実施されており、要した費用は都合三千両。
いやはや大変なものです。
 
 
さて、市場の形が決まりますと、本工事も急ピッチで進み
魚類卸売人売場、魚類仲買人売場、青果仲買人売場と着々と完成。
一方で中央市場はこれまでの商工省から独立した機関となり、
前東京市助役の荒木孟が初代市場長に就任いたします。
 
 
昭和八年十二月、工事もめでたく完了し、業者の収容となるはずでしたが、
どういうわけか誰も這入ろうという者がありません。
前にも申し上げた通り、卸売人の単複問題で市場内は揉めに揉めておりまして、
とても中央卸売市場としてのスタートが切れる状況ではなかったのですね。
 
 
「何でもロンドンで中央市場をつくったとき、業者が四十年も収容に応じないで
しまいにゃあ市場にペンペン草が生えたそうだ。外国でもそうなんだから、
オレらだって簡単に収容に応じる必要はねえよ」などということを言い出す業者もいて、
自分らの権利を守ってくれなきゃ中央市場には這入らないという具合に、
せっかくの近代設備が整っても、相変わらずバラック建ての売場から出ようとしません。
 
 
十二月十三日、千発の打ち上げ花火と賑やかに繰り出す楽隊の伴奏に送られ、
中央市場竣工式が華やかに挙行されます。
しかし、そこに肝心の魚河岸関係者の姿はありませんでした。
「市場開設権は市にある」との東京市長の発言に反発した組合のボイコットでしたが、
記念すべき築地市場の船出は実に淋しいものとなってしまいました。
 

2007年04月10日

築地魚河岸昔がたり(67)  築地市場の沿革(その三)

明暦の大火(1657)によって焼失した本願寺が、浅草横山町から現在の築地へ
移転してきたとき、その建立をおこなったのは佃の漁師たちでした。
 

 
かれらには敬虔な信仰心があり、そして当時最先端の土木技術を有していたからです。
そもそも佃島を拝領したとき、そこは葦の生い茂る湿地帯。
とても人の住める地所はございませんでした。
それを自分たちの手で十五年もかけて造成し、住居を構えるに至ったのです。
そこで培われたノウハウによって、本願寺建立工事に着手、
明暦の大火から数えて十九年後の延宝元年(1673)に築地本願寺を完成させております。


この工事のさなかの寛文四年(1658)、幕府は魚河岸の問屋に
本願寺裏手の旧町名南小田原町一帯を四千両上納とひきかえに下賜しております。
しかし、そこは建設中の本願寺同様、人家もない湿地の原ですから、
とても大枚四千両で手に入れるような土地であったとは思われません。
ひとつ考えられるのは、本願寺完成後の市街地化を見越しての先行投資でしょうか。
たぶん森一族は超高層マンションの乱立するウォーターフロント計画でも目論んだのでしょう。
しかし土地価格高騰に踊ったバブル景気まで三百三十年程も待たねばならなかったのですから、
ちょっと早すぎる先行投資なわけで、いったいどれほど儲かったのかわかりません。
ただひとついえることは、築地は魚河岸の魚屋によって開かれた土地だということです。


文化十年(1813)の「京橋南築地鉄砲図絵図」に南小田原町二丁目付近に「肴店」とあり、
そこで何らかの魚販売が行なわれていたことが分かります。
これが江戸末期から大正期まで存在していた、もうひとつの「築地市場」でございます。
その創始者は松田松五郎といいまして、白魚屋敷の下請けとして隅田川で白魚漁を営む者。
白魚屋敷、といえば佃衆とは犬猿の仲で、大立ち回りの喧嘩を繰りひろげてきたことは、
石ノ森章太郎先生の『佐武と市捕物控』にも出てきます。
魚河岸REITは百五十年の時を経て、同じ土地に仇役が市場を開くというのですから、
その間にどのような経緯があったのでしょうか。


支配的な日本橋魚河岸の力が弱まることとなったのは天保の改革によりますが、
このとき周辺の市場がいわゆる規制緩和の波に乗って勢力を増していきます。
何しろ「日本橋より高く買うよぉ」と荷を集めるものだから、魚河岸の連中は面白くない。
日本橋から築地の河岸まで乗り込んでいって大喧嘩を始めます。
「まあまあ、お前さんがた仲良くおやりよ」
そこに割って入ったのが「遊び人の金さん」と名乗る人物でした。
「アンタ、お奉行様でしょ、いま、ちらっと桜吹雪が見えましたぜ」
「え、分かっちゃったのお!」


名奉行遠山の金さんのお裁きで「築地」の問屋は魚河岸に編入され
「一件落着!」とあいなりますが、「築地市場」はその後も存在し続けます。
明治十七年(1884)には正式認可を受け、大正期になんとなく廃れるまで営業しました。
 
 
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                  もうひとつの「築地市場」店舗図
 
なお、この市場の流れをくむサテライト店舗というようなものが、
軽子橋(現在のキャピタル東急のあたり)辺と入船橋辺につくられたこともあります。
 
 
さて、築地本願寺は大正十二年の関東大震災で被災する以前は、
南西の方角、つまり現在の市場の方角を向いておりました。
境内には多数の関連寺や墓地がありましたが、
震災で多大な被害を受けて、震災復興の道路計画によって境内が分断されることによって
昭和九年(1934)、和田堀廟所へと移転いたします。
 
 
折りしも魚河岸の移転によって中央卸売市場(当時は市営市場)が隣接地につくられ、
もとの境内門前町には魚商が多く入り込むこととなり商店街を形成いたします。
これが現在の場外市場の起こりでございます。
  
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                   昭和十二年場外市場地図
 
都市史研究家の鈴木理生氏によれば、道路に面した庇下こそが「町」だといいます。
大きくせり出した軒下で「ひと」と「もの」の交易が行なわれ、「市」が立ちます。
「酉の市(まち)」と読むように「市」と「町」は同じものを意味しました。
観光客や買出人で賑わう場外市場をアジア的なバザール空間だ、などという人がいますが、
まさにそこには中世以来の日本の市場風景そのものが息づいているように思われます。
 

2007年04月09日

お茶づけ広重

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   東海道五十三次といえば、お茶づけのりでしょ
 
子どもの頃、永谷園のお茶づけのりをそのままでバリバリとスナック菓子のように食べてた。
お目当ては、おまけについてた広重の「五十三次」カード。
こういうのって全部集めたくなるんだ。
 
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  名刺大くらいで、裏には絵の解説が書いてある
 
 
何やら20枚集めて送ると全種類セットがもらえるってんで、やたら食ったわな。
誕生日のプレゼント何がいいの? お茶づけのりワンカートン! みたいな
ライダースナックでそういうことするヤツはいたけど、
お茶づけのり命みたいな日々が続いたな。
で、もらったのがこいつ
  
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        なかなか良い保存状態です
 
大人になった今でも、お茶づけのり好きでさ、
ずっと後になって、
 
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        北斎の富嶽ももらった
 

2007年04月05日

築地魚河岸昔がたり(66)  築地市場の沿革(その二)

 
海軍施設のおとなりに鎮座ましましていたのが波除神社でございます。
 

 
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    波除神社ホームページより転載しました
 
万治年間(1658~60)、埋め立て工事が荒浪のために思うように進まない時に、
浪間に流れてきた御神体を祠ったところ、それからは浪も静まって
工事がはかどったと言われ、以来、築地一円の氏神となっている。(明治五年・東京府志料)
 
 
明治の日本画家、鏑木清方の随筆「築地界隈」に
「明石町の外国人居留地と、当時唯一のモダーン街銀座とに挟まれた、
築地と木挽町とは常に何ものか清新な気流が感ぜられるような気がしたが、
同じ築地でも備前橋を越した南小田原町は、向築地(むこうつきじ)といって
気の荒い漁師町で、鎮守波除稲荷の祭礼にここの獅子が出ると
血を見ねば納まらないといわれた」とございます。
この獅子頭はその後焼失し永らく復興が待たれておりましたが、
平成二年に神社の御鎮座330年を記念し、樹齢約三千年の黒檜(ねず)の原木を用いて
高さ2,4m 幅3,3m 重さ1t 往時に勝るとも劣らぬかたちで再現されました。
 
 
また、現在も築地市場に隣接するこの神社の境内には、
お魚にちなんだ数々の,碑が多く建立されております。
 
 
すし塚
昭和四十七年東京都鮨商環境衛生同業組合により建立。
すしネタとなった魚の霊への感謝とすし食発展への決意表明として建てられました。
揮毫は時の副総理三木武夫氏。
毎年11月1日の全国すしの日に合わせ、塚にすし種となる魚介他が供えられ、
組合員による魚霊祭すし塚祭が執行されます。
 
海老塚
昭和四十八年東天会てんぷら料理協同組合と(株)海老の大丸により建立。
てんぷらを象徴する海老を供養しております。
毎年七月に魚霊祭海老塚祭が執行され、塚には海老や野菜他の天ぷら種が供えられます。
 
鮟鱇塚
昭和四十八年魚河岸の仲買の尾邦・三浦啓雄氏により建てられました。
三浦啓雄氏が亡き父浜七の君の志を継ぎ、商う鮟鱇の御霊を慰め、
鮟鱇の世にも美味なることを多くの世の人々に知らしめんとの思いがこめられております。毎年鮟鱇が旬をむかえる十月後半~十一月に、魚霊祭鮟鱇塚祭が執行されます。
 
活魚塚
昭和五十九年に、魚河岸で活魚を扱う仲買の団体、東京築地魚市場活物組合により建立。河岸の人々にとっては直接魚を活けじめして血抜きをすることで生活の糧を得ています。それを食して生きていることを八百万の神に感謝しようという目的でつくられました。
毎年五月~六月に、本殿で活魚供養魚霊祭が百人を超す会員の参列の下で執行されます。
 
玉子塚
平成五年に東京鶏卵加工業組合の創立三十周年を記念して建立。
業務用の厚焼き玉子に使用する玉子への供養と
いにしえよりいかに玉子が世に優れた食材であったかを顕彰するために建てられました。
毎年十月に会員が参列し塚に玉子他を供えて玉子塚供養祭が執行されます。
 
蛤塚
蛤は縁起の良い男女和合の象徴とされ、顔が綺麗で働き者で
そのうえ食事を作るのが上手な理想的な者を蛤女房と賞賛しました。
その顕彰の意味から仲買の網弁商店より奉納されます。
 
 
     tsukijihotel.jpg
           築地ホテル館
 
日本最初のホテルが築地南小田原町、
現在でいう勝鬨橋際の築地市場内に当たる場所に建設されたのは明治初年でございます。
 
 
安政五年に日米修好通商条約が結ばれると、
外国人が日本に居住するための場所が必要となりまして、
築地鉄砲洲に外国人居留地がつくられ、さらに外国人設計による宿泊施設として
日本最初の近代的ホテルの建設とあいなりました。
設計者は横浜・新橋の停車場を設計したアメリカ人ブリジェンヌという御仁。
施工には現清水建設の祖、二代目清水喜助氏があたり、明治元年に完工します。
通称「築地ホテル館」、外国人は「江戸ホテル」と呼びました。
 
 
木造四階建て、かわら屋根になまこ壁。
ベランダに鎧戸付の窓、中央には回り階段で登る塔屋という珍しい和洋折衷の様式で、
海に面した中庭には日本庭園があり、遠く房総まで見渡す絶景だったといいます。
江戸湊を行き来する帆船や佃の白魚漁のいさり火など、
当時の外国人にさぞエキゾチックに映ったことでしょう。
 
 
上野戦争の時には、このホテルの窓から多くの外国人が、
上野の山にたちのぼる煙を見、轟く砲声をきいたといいます。
しかし、何しろ激動の時代だったので治安も悪く、
このホテルを訪れる外国人客はどんどん減っていきます。
経営悪化などから明治三年にはついに閉鎖。
そして明治五年の銀座、築地の大火により惜しくも焼失の憂き目をみることになります。
 
 
竣工から四年足らず。ほんのひとときの幻のような存在でしたが、
当時の市民にとって、この最初のホテルの威容はよほど驚きだったようで、
三十数点を数える錦絵が残っていて、今でもその面影を偲ぶことができます。
 
 
かつて築地ホテル館があったと思しき場所には、現在、市場厚生会館が建っています。
ここには宿泊施設もあるので、いにしえに想いを馳せて泊まってみるのも
一興かもしません。
眼下に隅田川を眺めて、遠き明治のエキゾチックな気持ちに……
なるかどうかは分かりませんが、早朝から市場の騒音を感じて
「おー、クソうるせえ!寝てられんぞ!」
とツキジチックな気持ちになることだけは請合いでございます。
 

2007年04月04日

築地魚河岸昔がたり(65)  築地市場の沿革(その一)

中央卸売市場築地本場は紆余曲折を経て、昭和八年十二月に竣工いたします。
ここで築地市場の敷地である築地一帯の歴史的な移り変わりを簡単に見てみましょう。
 

 
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          嘉永板切絵図より
 
築地は明暦の大火(明暦三・1657年)後に埋め立てられたといわれております。
当初、稲葉長門守の下屋敷があったのを、延享三年(1746)、南側半分を一橋家に分与、
さらに寛政四年(1792)には一橋家の南西部分を松平越中守定信が賜わります。
松平定信は天明七年(1787)から寛政五年(1793)まで老中職を務め、
緊縮政策や風紀取締りによって幕政の安定を狙った寛政の改革を行なった人ですが、
そのお堅い政治手法とは裏腹に、隠居後は浴恩園という名の見事な庭園を築いて
悠々逍遥たる造園ライフを楽しみました。
二万坪におよぶ園内に春風池、秋風池の二池を掘り、桜と紅葉を配置した見立ては、
春秋それぞれに楽しめるという、すこぶるつきの贅沢であり、
さらに中国の景勝を模した五十一ヶ所のミニ中国名勝は、東都随一の絶景といわれました。
しかし残念なことに文政12年(1829)の大火により浴恩園は焼失、
春風、秋風の二つの池のみが跡地に残されます。
 
 
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           浴恩園の図
 

嘉永六年(1853)、ペリーの浦賀来航によって海防の必要に迫られた江戸幕府は、
鎖国以来の軍艦建造の禁を解くこととなります。
そしてオランダの意見に基づいて洋式海軍の創設、軍艦の購入(咸臨丸)とともに、
安政二年(1856)長崎に初の海軍学校ともいえる長崎海軍伝習所を設立しました。
ここでは航海術とともに砲術、機関などの総合技術を教えていて、
卒業生には勝海舟、松本良順、幕府天文方の小野友五郎らがおります。
伝習所は安政六年に閉鎖されますが、これが前身となり築地南小田原町、
堀田相模守の中屋敷にできた講武所内に伝習所卒業生を教師とする軍艦教授所が設けられ、講武所が神田小川町に移転ののちに同地は軍艦操練所と改称、
勝海舟が教授方頭取をつとめます。
これを機に明治新政府のもと、築地5丁目一帯の諸藩屋敷跡地8万坪余には、
海軍の重要機関が次々に設けられることになります。
旧浴恩園敷地内には「賜山」という築山がありましたが、
ここに海軍大臣旗が掲揚され、通称「旗山」と呼ばれます。
築地は名実共に海軍発祥の地となりました。
 
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              明治初年の築地
 
・海軍省
 明治三年に旧浴恩園跡地に庁舎を構えます。
春風、秋風の大池には「乾行」という練習艦が係留されていました。
明治十五年、同地が手狭になったため芝公園内へ移転。

・海軍兵学校
 明治二年に海軍操練所が海軍将校養成のために教育を開始。
イギリス人お雇い教師A.L.ダグラスら三十余人を招聘して
英海軍式の教練が行われました。明治二十一年広島県江田島に移転。
・海軍大学校
海軍兵学校が広島に移転したあとに同地に大学が新設されました。
関東大震災後、昭和七年に目黒の新校舎に移転。

・海軍軍医学校
 明治二十七年、軍医教育を目的に海軍大学校に軍医科を設置。
同三十一年に海軍軍医学校となります。
震災で焼失し、跡地に中央卸売市場が建設されることになり、
昭和五年に隣接地に新築され築地病院と称されます。
終戦後は軍医学校と築地病院は米軍の病院として接収されたのち、
昭和三十七年、癌研、現在の国立がんセンターとして生まれ変わりました。

・海軍経理学校
 芝公園内にあった海軍主計学校が明治二十一年築地に移転。
すぐに廃止されますが、三十二年海軍主計管練習所として再開、
四十年に海軍経理学校と改称されました。
終戦後まで開校しましたが、現在は築地市場の一部(厚生会館・立体駐車場の区画)
となっています。

・水路部
 明治四年、海軍操練所跡地に水路部ができました。
しかし明治五年の銀座大火で「築地ホテル」と共に焼失。
移転をくりかえすも、昭和五年に築地に新庁舎が完成します。
それが現在の水産庁水路部で、その敷地内に現朝日新聞社が建ちました。

2007年04月03日

お前はもう死んでいる

(復刻版『築地市場ガイド』第13回)

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『Tsukiji Fish Market』J.B.Haywood著より
 
ニッポン人を大別するとニッポン民族とツキジ民族とに分けられるが
後者はツキジ市場という限られた空間にのみ棲息し、
そこに一種の独立国家を形成していることは周知のとおりである。
今や絶滅種とまでいわれるツキジ民族も厳密に見ていくと
ニホンバシ系、サンダイメ系、ウラヤス系など多彩な系譜を認められるのであるが、
それぞれの部族間には特徴的な大差はなく、概していえば、みんな同じようなものといえる。
 

 
というよりも、
すべてのツキジ人はテレパシー(ESP)によって感応し合ってでもいるかのように、
千件を越すナカオロシのオヤジは、全員でひとつの人格を形成していると思えるフシがある。
一人の意見はすべての意見であり、一人の感情はすべてを支配するのだ。
 
 
たとえば「こいつはいい魚だな」と一人が思ったとすると、
「ああ、いい魚だ」「ほんとにいい魚だ」「こいつあ上物だ!」
とイチバの全員が口をそろえて言うことになる。
「この魚で一杯飲りてえな」と誰かが考えれば、
「ああ、一杯いきてえ」「ほんとに飲りてえ」「こいつあ晩酌だ!」
とすぐに同意が得られるだろう。
そこで誰かが「この魚で一杯飲って、横にイイオンナがいたら最高!」とでも言おうものなら、
「ああ、イイオンナだ」「ほんとにオンナが好きだ」「こいつあパツキンだ!」
あっというまに市場中が「イイオンナ」のことで持ちきりになるのは言うまでもない。
 
 
こうした感応現象はとりもなおさずツキジ人の同族意識からきていることに他ならない。
ツキジ市場内には無数の血族関係が存在しており、兄弟、義兄弟、従兄弟、ハトコ、
さらにはアニキ舎弟の兄弟分まで含めれば、超巨大な家族的集団ができあがるのである。
 
 
強固な血縁によって繋がれた世界において最も重視される習俗は冠婚葬祭だ。
ほぼ毎週、婚礼と葬儀が執り行われるので、
ネクタイの色を間違えないように気をつけなければならない。
婚姻の方は事前に分かっているからまだ良いのだが、
葬儀となると、死は突然にやってくるため、9時の回覧板によって故人を悼むことになる。
 
 
「ああ、良い人を亡くした」「ほんと良い人だった」「ホトケのような人がホトケになるなんて」
と市場内は深い悲しみにつつまれるのであるが、
市場では3日顔を出さないと死んだことにされるため、
どうかすると訃報によって、あるいは香典を受け取ってはじめて、
自分が死んだことに気づく粗忽者もいる。
「お前はもう死んだぞ」
「そうか、オレは死んだのか」
ツキジ人の物故者情報はつねに錯綜をきわめている。
 
 
しかしながら、誰が死のうと、めでたく結婚しようと、
そうした多少の人口の消長などはおかまいなしに、
ツキジという一個の生物は、「いい魚だ」「一杯飲りてえ」「イイオンナはいねえのか」と
騒々しい日々の活動を繰りかえすばかりなのである。
 

2007年04月02日

築地魚河岸昔がたり(64) 卸売人の単複問題(二)

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 昭和8年築地市場 営業はバラック建て、後ろの建物は空家
 
卸売人を単一にするか複数にするかが問題となるのは、
中央卸売市場の開設によって、問屋の業務形態が市場法で制限されるからです。
民間の自由市場であれば、一つの問屋を中心とする小規模市場なら単一であるし、
複数問屋の集合市場なら自然に複数となるという具合に、
それぞれの地区ごとの経済的事情によって形態はさまざまであるはずです。
ところがこれを法で制限し、中央卸売市場という形に集中統合しようとすれば、
市場や卸売人の数というのが問題となってまいりまして、
一地区一市場一卸売人という構想のもとに単一論が生まれました。
つまり、本来、単一か複数かは、その地区の実態に合わせるべきところを
市場法で単一制に限定することが可否か、というのが単複問題の実体でありました。
 

 
さて、単複問題は中央卸売市場第一号である京都市場開設とともに
全国に論争が巻き起こったわけですが、もとは日本橋魚河岸がその発祥です。
明治四十四年に東京市提出の建議書に、全問屋一丸となっての単一会社結成の要望が
日本橋魚河岸の組合から出されています。
都市の発展にともない市場と問屋の数が無制限に急増して、業者間競争が苛烈化したため、まあ自分らの利益を守るために、法でこいつを規制しておくれよ、というのが
市場業者が単一を望む理由です。
業者の乱立を防ぐことで、市場営業権の独占的な確保することが狙いでございます。
 
 
一方、生産者(荷主)、買方(小売)にとっては魚問屋の営業独占は脅威です。
荷主には買値の廉価による損害を与え、小売には売値の高騰による苦しみを生む
その結果、漁業の不振、衰退を招き、ひいては国家的損失をもたらす。
むしろ独占の弊害を排して、競争主義に基づくことで、
魚市場の旧弊の打破して、鮮魚を迅速かつ大切に扱い、衛生面の向上にもつながる、
というのが複数論を支持する荷主、小売商の意見でした。
 
 
また世論も大方は複数による競争制を支持でありまして、
単一というのは現今の魚問屋を庇護ためのものである、などと新聞にも書き立てられます。
市場と生産者、小売の対立は、それぞれの立場を主張するだけものでしたし、
新聞の論調なども市場取引の実際をよく把握した上での批判ではありませんでした。
 
 
魚河岸としては、まあ既存の権利が優先されるなら、それでいいや、という調子で、
あえて世論の反対や荷主の不満を買ってまで主張する気はなく、
日本橋魚河岸の移転をめぐって長くすったもんだしておりましたから
単複問題というのは長く議論されないまま放置されました。
しかし、行政にとっては中央卸売市場の開設に際して、これは避けて通れない問題です。
市場法では建前上は複数を認めていましたが、行政管理上は単一の方が都合は良いのです。
また、卸売人の単一を認めず、他の新規業者を複数制によって許可するとなると、
優先資格者が収容に応じないという事態もでてくると考えられました。
 
 
京都市場はじめ関西の中央市場は単一卸売人として開場しましたが、
そこで単複問題が大きく騒がれたことが、築地中央卸売市場の開設に大きく影響します。
市場建設工事も昭和八年まで長引いたこともありますが、
市場完成後も数年にわたって中央市場が機能しないという異常事態にみまわれます。
それというのも本来は単一を願っていた市場業者までが内部分裂をはじめたからです。
 
 
そこには単一卸売会社への収容時に各問屋へ割り当てられる補償金、
いわゆる老舗料の査定をめぐる困難がありました。
また、単一を望む業者の多くは安全策として独占的な会社への収容を願いましたが、
自分で仕事が出来る有力な業者は複数を望むという、力関係も存在していました。
そこに単一に反対する荷主、小売の抵抗、そして世論の声が加わりましたから、
築地市場は開場とともに大混乱をきたしてしまったわけです。
それは旧態然たる魚河岸が中央卸売市場へと大きく変貌をとげる
いわば陣痛にも似た苦しみでありました。