築地魚河岸昔がたり(65) 築地市場の沿革(その一)
中央卸売市場築地本場は紆余曲折を経て、昭和八年十二月に竣工いたします。
ここで築地市場の敷地である築地一帯の歴史的な移り変わりを簡単に見てみましょう。

嘉永板切絵図より
築地は明暦の大火(明暦三・1657年)後に埋め立てられたといわれております。
当初、稲葉長門守の下屋敷があったのを、延享三年(1746)、南側半分を一橋家に分与、
さらに寛政四年(1792)には一橋家の南西部分を松平越中守定信が賜わります。
松平定信は天明七年(1787)から寛政五年(1793)まで老中職を務め、
緊縮政策や風紀取締りによって幕政の安定を狙った寛政の改革を行なった人ですが、
そのお堅い政治手法とは裏腹に、隠居後は浴恩園という名の見事な庭園を築いて
悠々逍遥たる造園ライフを楽しみました。
二万坪におよぶ園内に春風池、秋風池の二池を掘り、桜と紅葉を配置した見立ては、
春秋それぞれに楽しめるという、すこぶるつきの贅沢であり、
さらに中国の景勝を模した五十一ヶ所のミニ中国名勝は、東都随一の絶景といわれました。
しかし残念なことに文政12年(1829)の大火により浴恩園は焼失、
春風、秋風の二つの池のみが跡地に残されます。
浴恩園の図
嘉永六年(1853)、ペリーの浦賀来航によって海防の必要に迫られた江戸幕府は、
鎖国以来の軍艦建造の禁を解くこととなります。
そしてオランダの意見に基づいて洋式海軍の創設、軍艦の購入(咸臨丸)とともに、
安政二年(1856)長崎に初の海軍学校ともいえる長崎海軍伝習所を設立しました。
ここでは航海術とともに砲術、機関などの総合技術を教えていて、
卒業生には勝海舟、松本良順、幕府天文方の小野友五郎らがおります。
伝習所は安政六年に閉鎖されますが、これが前身となり築地南小田原町、
堀田相模守の中屋敷にできた講武所内に伝習所卒業生を教師とする軍艦教授所が設けられ、講武所が神田小川町に移転ののちに同地は軍艦操練所と改称、
勝海舟が教授方頭取をつとめます。
これを機に明治新政府のもと、築地5丁目一帯の諸藩屋敷跡地8万坪余には、
海軍の重要機関が次々に設けられることになります。
旧浴恩園敷地内には「賜山」という築山がありましたが、
ここに海軍大臣旗が掲揚され、通称「旗山」と呼ばれます。
築地は名実共に海軍発祥の地となりました。

明治初年の築地
・海軍省
明治三年に旧浴恩園跡地に庁舎を構えます。
春風、秋風の大池には「乾行」という練習艦が係留されていました。
明治十五年、同地が手狭になったため芝公園内へ移転。
・海軍兵学校
明治二年に海軍操練所が海軍将校養成のために教育を開始。
イギリス人お雇い教師A.L.ダグラスら三十余人を招聘して
英海軍式の教練が行われました。明治二十一年広島県江田島に移転。
・海軍大学校
海軍兵学校が広島に移転したあとに同地に大学が新設されました。
関東大震災後、昭和七年に目黒の新校舎に移転。
・海軍軍医学校
明治二十七年、軍医教育を目的に海軍大学校に軍医科を設置。
同三十一年に海軍軍医学校となります。
震災で焼失し、跡地に中央卸売市場が建設されることになり、
昭和五年に隣接地に新築され築地病院と称されます。
終戦後は軍医学校と築地病院は米軍の病院として接収されたのち、
昭和三十七年、癌研、現在の国立がんセンターとして生まれ変わりました。
・海軍経理学校
芝公園内にあった海軍主計学校が明治二十一年築地に移転。
すぐに廃止されますが、三十二年海軍主計管練習所として再開、
四十年に海軍経理学校と改称されました。
終戦後まで開校しましたが、現在は築地市場の一部(厚生会館・立体駐車場の区画)
となっています。
・水路部
明治四年、海軍操練所跡地に水路部ができました。
しかし明治五年の銀座大火で「築地ホテル」と共に焼失。
移転をくりかえすも、昭和五年に築地に新庁舎が完成します。
それが現在の水産庁水路部で、その敷地内に現朝日新聞社が建ちました。