築地魚河岸昔がたり(67) 築地市場の沿革(その三)
明暦の大火(1657)によって焼失した本願寺が、浅草横山町から現在の築地へ
移転してきたとき、その建立をおこなったのは佃の漁師たちでした。
かれらには敬虔な信仰心があり、そして当時最先端の土木技術を有していたからです。
そもそも佃島を拝領したとき、そこは葦の生い茂る湿地帯。
とても人の住める地所はございませんでした。
それを自分たちの手で十五年もかけて造成し、住居を構えるに至ったのです。
そこで培われたノウハウによって、本願寺建立工事に着手、
明暦の大火から数えて十九年後の延宝元年(1673)に築地本願寺を完成させております。
この工事のさなかの寛文四年(1658)、幕府は魚河岸の問屋に
本願寺裏手の旧町名南小田原町一帯を四千両上納とひきかえに下賜しております。
しかし、そこは建設中の本願寺同様、人家もない湿地の原ですから、
とても大枚四千両で手に入れるような土地であったとは思われません。
ひとつ考えられるのは、本願寺完成後の市街地化を見越しての先行投資でしょうか。
たぶん森一族は超高層マンションの乱立するウォーターフロント計画でも目論んだのでしょう。
しかし土地価格高騰に踊ったバブル景気まで三百三十年程も待たねばならなかったのですから、
ちょっと早すぎる先行投資なわけで、いったいどれほど儲かったのかわかりません。
ただひとついえることは、築地は魚河岸の魚屋によって開かれた土地だということです。
文化十年(1813)の「京橋南築地鉄砲図絵図」に南小田原町二丁目付近に「肴店」とあり、
そこで何らかの魚販売が行なわれていたことが分かります。
これが江戸末期から大正期まで存在していた、もうひとつの「築地市場」でございます。
その創始者は松田松五郎といいまして、白魚屋敷の下請けとして隅田川で白魚漁を営む者。
白魚屋敷、といえば佃衆とは犬猿の仲で、大立ち回りの喧嘩を繰りひろげてきたことは、
石ノ森章太郎先生の『佐武と市捕物控』にも出てきます。
魚河岸REITは百五十年の時を経て、同じ土地に仇役が市場を開くというのですから、
その間にどのような経緯があったのでしょうか。
支配的な日本橋魚河岸の力が弱まることとなったのは天保の改革によりますが、
このとき周辺の市場がいわゆる規制緩和の波に乗って勢力を増していきます。
何しろ「日本橋より高く買うよぉ」と荷を集めるものだから、魚河岸の連中は面白くない。
日本橋から築地の河岸まで乗り込んでいって大喧嘩を始めます。
「まあまあ、お前さんがた仲良くおやりよ」
そこに割って入ったのが「遊び人の金さん」と名乗る人物でした。
「アンタ、お奉行様でしょ、いま、ちらっと桜吹雪が見えましたぜ」
「え、分かっちゃったのお!」
名奉行遠山の金さんのお裁きで「築地」の問屋は魚河岸に編入され
「一件落着!」とあいなりますが、「築地市場」はその後も存在し続けます。
明治十七年(1884)には正式認可を受け、大正期になんとなく廃れるまで営業しました。

もうひとつの「築地市場」店舗図
なお、この市場の流れをくむサテライト店舗というようなものが、
軽子橋(現在のキャピタル東急のあたり)辺と入船橋辺につくられたこともあります。
さて、築地本願寺は大正十二年の関東大震災で被災する以前は、
南西の方角、つまり現在の市場の方角を向いておりました。
境内には多数の関連寺や墓地がありましたが、
震災で多大な被害を受けて、震災復興の道路計画によって境内が分断されることによって
昭和九年(1934)、和田堀廟所へと移転いたします。
折りしも魚河岸の移転によって中央卸売市場(当時は市営市場)が隣接地につくられ、
もとの境内門前町には魚商が多く入り込むこととなり商店街を形成いたします。
これが現在の場外市場の起こりでございます。

昭和十二年場外市場地図
都市史研究家の鈴木理生氏によれば、道路に面した庇下こそが「町」だといいます。
大きくせり出した軒下で「ひと」と「もの」の交易が行なわれ、「市」が立ちます。
「酉の市(まち)」と読むように「市」と「町」は同じものを意味しました。
観光客や買出人で賑わう場外市場をアジア的なバザール空間だ、などという人がいますが、
まさにそこには中世以来の日本の市場風景そのものが息づいているように思われます。