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築地魚河岸昔がたり(69)  魚河岸が真っ二つに

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        昭和初期のウォータフロント計画を伝える新聞記事
 
 
市場施設が完成に近づくにつれて、旧日本橋魚河岸の問屋で組織された
魚市場組合内部に分裂のきざしが出てまいります。
 

 
昭和七年二月、魚市場組合長に田口達三氏が選任されます。
かねてより卸売人の単一制を唱えていた田口氏は
翌年『東京魚市場株式会社組織の大綱』と題する三七頁の小冊子を発行し、
全組合員に単一制支持を呼びかけております。
 
 
何といいましても魚河岸というところは、我も我もの群雄割拠の窟となっております。
仮にどれほど卓越した理論なり、見識がありましても
「俺は何となくあ奴が気に喰わねえ」
「どんな野郎か見たことねえが、ただなんとなく虫が好かねえ」
などと訳もない、反対のための反対意見によって、潰しにかかるわけです。
開明的な考えなどは空しく消えた何百年を過ごしたのが魚河岸でした。
 
 
当然、田口は独断専行だ、反対だ! という声が起こってまいりまして
その反対派が結束して複数制を主張し始めますと、組合内部は混乱状態となり、
昭和八年八月の臨時総会で田口氏ら単一派は全員総辞職、
代わって複数派である高村氏が組合長となります。
単複問題にはかなりの部分で、老舗料といわれる、魚問屋が会社の収容さえる際の
いわば補償金の査定問題がからんでおりました。
現代の商法にのっとった財務書類など何ひとつない、魚河岸という特殊な商売で
各問屋の補償金額を決定するのは並々ならぬことでございました。
 
 
何といっても財産、生活のかかっていることですから
双方の対立も血を見るばかりの激しいものとなっていきます。
複数派は築地市場の大立者といわれた佃政親分に協力を依頼します。
そこで事件が勃発しました。
田口氏と心をひとつにして単一を進めてきた安倍小治郎氏が
組合一切の職を辞して魚河岸から足を洗い、日本水産の常務となってしまったのです。
 
 
“あるとき佃政の子分がほんとうの槍を持って私の事務所になぐり込んで来た。
 身辺に危険が迫ったのを知りこの際市場から身を退こうと決心した”
(安倍小治郎自伝『さかな一代』より)
 
 
これまで組合の対外折衝から文書、要綱作成まで安倍氏の立案でしたから、
今辞められても困ると、田口は説得しますが、その決意は固いものでした。
もっとも旧弊に縛られた魚河岸を出て、水産資本を動かす方が
はるかに将来性は高いものではありました。
 
 
一時的にはアドバンテージを握ったかに見えた複数派でしたが、
じゃあどうするのよ、といえば、それほどの妙案を持っているわけでなく、
本質的には多数派である単一支持の組合員を統括することはできません。
その矢先、拠りどころであった佃政親分の急逝によって、
高村氏ら複数派はそろって任期半ばで退陣します。
 
 
すると、またしても田口氏の組合長返り咲きとあいなります。
昭和九年十一月、あらためて組合の方向を決める総会の席上、田口氏は
複数派もあっけにとられるような、強引な強行採決により単一合同を決議します。
これにはもちろん承服しかねる複数派は少数意見の留保を求めて、
対立のままこれを見送ったことで、事実上、単一収容は絶望となりました。
組合はここに完全に分裂し、魚河岸の二つの勢力はそれぞれの望むかたちで、
新しい組織づくりを目指す、という、無茶苦茶な状況となりました。