築地魚河岸昔がたり(70) 問屋と仲買が分かれる

あゝ、できた、できた
昭和十年二月十一日、東京市中央卸売市場築地本場が正式に業務を開始。
この日をもって魚河岸は終わり、築地本場魚類部として再スタートいたします。
とはいっても、この時点で営業を開始したのは青果部や淡水など一部の魚類部で、
魚河岸の問屋、仲買は一人も入場しておりません。
卸売人の単複問題が後を引いており、収容もかけひきの材料のひとつであったからです。
かれらが築地本場に入場するのはさらに数ヵ月後のことでした。
魚市場組合、田口理事長の強行な単一合同の動きに真っ向から反対する複数派は、
同年十一月二十三日、東京魚問屋会社を結成、
その二日前には複数派支持である東京魚商組合員六千人らとマーチにのって
魚類部への入場行進を行なっております。
一方、単一派の東京魚市場株式会社が業務を開始するのは翌十一年一月十六日。
この日が事実上の魚河岸から中央卸売市場へと移行をした日となるでしょう。
魚市場会社と魚問屋会社の相次ぐ設立によって旧魚河岸は終焉を迎えました。
それは問屋と仲買が分離したことによります。
中央卸売市場の誕生は、従来の問屋仲買がはっきりと分野を分かつことを意味しました。
問屋は卸売人として会社組織となります。
単一派は営業権の独占を狙い、複数派は競争原理を考えるという思惑のちがいはあれ、
市場の運営、取引上の利便性で考えられたものではございません。
数多くの問屋の合同組織としての卸会社が集荷の役割を担うこととなりました。
一方の仲買は、何百年もの間に、その形態を変化させてまいりました。
はじめは請下(うけした)と呼ばれた仲買は、問屋から荷を分けてもらい、
これを朝売りで販売した後に、問屋との折衝で値を決める。
そして売値と問屋へ支払う代金との差益を得ることがその業務でした。
いわば問屋の下働きのようなものでしたから、その支配下から抜け出すために、
資金をつくり、ノウハウをためて、自分で集荷をする自由を得ようとします。
そのために問屋兼仲買の業者が増えていきます。
また、日本橋時代に仲買営業に必要となった板船権も、
築地移転とともに事実上は消滅しましたから、権利者からの制約もなくなり、
魚河岸特有の新旧序列の空気も薄らいでいきました。
古株も新顔も、大商店も小者も対等の権利と義務を持つようになったために、
昭和の御世においては、問屋専業はわずかで、
ほとんどの店舗は問屋兼仲買か、仲買専業でした。
このような背景があって、問屋と仲買を分離し、それぞれ集荷と評価・分荷とに、
その職能が分化する下地となったのでございます。
もっとも、当時の農商務省などは、仲買人のような中間業者を削った方が、
物価安定に役立つという考え方でした。
しかし、大都市においては大量に集荷したものを短時間で分荷するには
仲買人の存在は不可欠ということに決定し
当時、築地の仲買人千三百六十七人は、全員が失業することなく
すべて中央市場に収容とあいなりました。
まあ、そうすることによって、仲買人の営業権の補償をしないで済む、
というのが行政側の計算ではありました。
コメント
連載七十回おめでとうございます。
こんなに興味深い「昔がたり」なのに、
トラバが大体、小生とメカ様の交換日記になってしまっていることが不思議でなりませんなあ。
皆さん魚河岸には興味がないのでしょうか?
(まぁ、そうなのでしょう。普通の人なら当たり前に興味はないでしょうから)
先日、ついでがあって大手門辺りからを日本橋界隈を抜けて佃、豊洲まで徒歩車を交えてブラブラしてきましたが、目を凝らし、耳を澄ますとそこかしこに江戸の息づかいが聞こえて参りました。
考えてみれば、天子様の御代になってから、まだ、100年そこそこ。その前の江戸の300年以上の色々を思えば、こんな短い時間で江戸の名残が消え失せる訳はないですな。
とはいえ、いつか将来、小田原町から魚河岸の喧噪が消えてしまうのは、寂しい限りです。
今のうちに、この界隈をぞろっと流しておきてぇものです。
投稿者: 築地屋魚丸 | 2007年04月22日 22:28
東京散策とは良うございますな。
足の向くまま旧跡を訪ねるのも、また一興でございましょう。
あたくしも学生の頃は、懐中に切絵図なんぞ忍ばして、広重の名所絵を今に訪ねたものでございます。
しかし、東京には失われゆくものをいつくしみたくなるような、
少しもの哀しい風情がありますな。
それは荷風翁の「日和下駄」の頃から、多くの人が感じるところじゃないでしょうか。
そのあたりが京都や奈良を散策するのとは違うところだと思います。
投稿者: メカジキ | 2007年04月23日 10:16