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築地魚河岸昔がたり(71)  魚市場会社創立へ

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    昭和12年、鮪仲買団体大物組(現大物業会)組旗入魂式
 
  
田口達三氏の強硬な単一制主張を嫌った少数派の問屋連中が
卸売人の複数制を唱えて東京魚問屋株式会社の設立の動きを見せたことによって、
単複論争はさらに激化の一途をたどることとなります。
昭和九年十一月、再び魚市場組合長に返り咲いた田口達三氏は、
魚市場組合の新役員が決まると、会社設立を急ぎます。
しかし、所詮は魚問屋の集まりですから、
経験のない現場上がりが大魚河岸会社を設立しようなどは並大抵ではありません。
 

 
千余名の業者を一丸とする会社をつくるのだし、一部に不服があってもまとまらない。
そこで老舗料という名の営業権、これを現物出資の形として、
各問屋、仲買業者を買収して株券を渡す、というのが田口氏の考えです。
しかし、それでうまくまとまるか――複雑怪奇な魚河岸の世界では、
気の遠くなるようなお話で、それを短期間に成し遂げるのはとても不可能に思えました。
田口氏は自分の懐刀ともいうべき盟友伊藤春次氏に「どうすべえか」と意見を求めます。
すると春次氏、理路整然と答えていわく、
 
 
「問屋と仲買は別物として考え、また、複数派もそこから除外しましょう。
 単一派の問屋業者だけで創立発起人会をつくり、そこから選ばれた創立委員によって
 定款の作成、および老舗料の査定を決行するが吉」
 
 
春次氏の考えは、魚市場組合では問屋も仲買も同資格の組合員だが、
両者は立場が異なるので、組合内で単複を論じても解決しない、というものでした。
田口氏は春次論に大いに同意し、志ある者だけでとっと事を進めます。
問屋業者の懇談会を開いて、広く意見を聞くと共にかれらを説得していきまして、
ようやく新会社の発足へとこぎつけることとなります。
 
 
東京魚市場株式会社の発起人総会は、
昭和九年十二月八日、日比谷帝国ホテルに於いて開催されました。
出席者は五八七名で、すべて受付で発起人承諾証に拇印をとらされました。
あとで気が変わらないことと、満場一致の場合、創立委員会の権限が適用することから、
春次氏と組合の本多顧問弁護士とが相談したものです。
この総会で、発起人規約を満場一致で可決に持ち込み、同規約にもとづいて
定款の作成、老舗料の査定などを行う創立委員六〇名を選出します。
もちろんこの中には田口氏や春次氏はじめ市場の顔役相沢常吉などがおりました。
この瞬間から、会社設立は組合の問題ではなくなり、魚河岸の旧弊から完全に離れて、
商法に基づく創立準備の段階に入ります。
 
 
そうなると、次は営業権の査定問題となってまいります。
それには魚市場全体の営業権がいくらかを算定し、その総額を各業者に割当てるのですが、
その算定基準をどこに置くかが問題でした。
田口氏は鉄道用地の買収の場合、二十ヵ年は現在と同じ収益とみなす、とききつけました。
それを魚市場に適用すれば、当時年間一億の売上高で、その二分が儲けとして、
二十年間では四割の四千万となります。
しかし、それでは期間が長すぎるとして、十年間、二千万円という金額をはじきました。
 
 
まあ市場の総額はそれで良いとして、さて、そこから各問屋の営業権を査定、
という段階で、困り果てることになります。
魚河岸は長く特殊な場所でしたから、世間一般の尺度に合わないところが多く、
なによりも商法などとは無縁の商売を続けてまいりましたから、
査定しようにも、根拠となる書類が存在しないのです。