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2007年05月28日

築地魚河岸昔がたり(74) 日本で14番目の大会社

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    築地市場開場を伝える新聞記事
 
魚河岸の問屋が集まって卸売会社をつくる。
ひと口に言えば簡単そうですが、昭和十一年当時、
資本金二千七百五十万円の会社といえば、日本で十七番目の会社だったといいます。
もっとも大半が現物出資なので額面通りとはまいりませんが、
それでも現金出資が五百五十万円といえば大したものでした。
その頃、都市銀行の資本金が大体五百万円くらいだったそうです。
それまで法人組織などには無関係だった魚屋連中が、
いきなり日本を代表する大企業になったのですから大変なことでございます。
 

 
何しろ大会社だといってみても、まずは現金出資の五百五十万円のうちの半額、
二百二十五万円の最初の払込金をどうやってつくるのか、その難題に頭を抱えこみました。
 
 
「金は借りられることになっているから大丈夫だ」
田口氏は会社の創立委員の人びとに心配かけまいと明るくつとめますが、
しかし本当のところまったくメドがたってはおりません。
創立総会まであと二週間、胃の腑に鉛のような重みを感じながら、
何とか金を工面しようと奔走いたします。
 
 
そんなとき助け舟を出してくれたのが、
当時大同電力(現関西電力)の社長であった増田次郎氏でした。
魚市場会社の誕生にいたく興味を持って接します。
 
 
「直接家庭につながる必要物資を扱うのだし、
法律だって会社が成り立たないように決めるのでもないから、この仕事は大丈夫だ。
金は相談に乗ってあけるから、一生懸命やりなさい」と言ってくれます。
 
 
やれやれ。これで何とかなる、とひと安心したのですが、いざ払い込みという段になると、
「魚河岸には会社経営の経験者は少ないだろうから、私の方にも条件がある」
と秘書を通じて伝えてまいりました。
副社長か専務を一人、常任監査役を一人、会計課長を一人、平取締役を二人程度、他二名
都合七人を増田氏側から送り込むという条件を提示してきたのです。
魚市場会社は、外からは一人も入れないという大方針でやっていましたので、
二百七十五万円は出すから七人入れろ、という主張に田口氏は返答につまります。
 
 
「何も会社を乗っ取ろうというんじゃない。
 一人で二百七十五万円を出すのだから、業務を監督したり、会計を監査したりするのは、
 当たり前じゃないか」
増田氏の言い分はもっともではありましたが、結局、この話はお流れとなってしまいます。
 
 
いや、困った。本当に困った。どうしよう。
六月二十五日の魚市場会社創立総会まで、もう日がございません。
と、そこへ飛び込む一本の電話。
「あゝ、私だ。早川だよ」
何と、前回このお話でドタキャン決め込んだ早川ビルブローカー氏が
今度はドタコールをかけてきたのでございます。
「いよいよ私の出番ってわけ。
 名案があるんだけどさあ、長くなっから、くわしい話は次回につづくってことで」 (つづく)

2007年05月24日

ふくちゃんの視力検査

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 石です 止です
 マログマンです
 ヒューヒューポーポーです
 
  
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     1.5! 
 
 
 
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 わかりませんか
 それもわかりませんか
 オバQですか
 やはりわかりませんか 
 
 
  
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     0.1!
 
 
 
 

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           3mはなれてお使いください

2007年05月21日

ぽあああああ 2

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        本日は代役をつとめさせていただきます
 
 
 
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          ぽ・あ・あ・あ・あ・あ・あ…
 
 
 
 
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          ぽ・あ・あ・あ・あ・あ・あ…
 
 
 
 
 
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  絶賛発売中!! 中経出版 1260円 ぽ・あ・あ・あ・あ・あ・あ…

2007年05月17日

ぽあああああ!

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             では はじめます
 
 
 
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              ぽ・あ・あ・あ・あ・あ
 
 
 
 
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              ぽ・あ・あ・あ・あ・あ
 
 
 
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             ぽ・あ・あ・あ・あ…あ

2007年05月16日

築地魚河岸昔がたり(73) 払込金をめぐって

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           当時の新聞記事
 
 
査定委員会の決定した各店舗の問屋営業権の査定額は、
一切口外しないということになっておりました。
もしも不服があっても再査定は一切しないということになっておりましたし、
そうしなければ、いつまでもゴタゴタが収まらなかったからです。
そこで業者一人ひとりに査定額を免状のように手渡しました。
 
 
ところが、一日もするとそれぞれの査定額は市場の誰もが知るところとなり、
自分の店と他人の店を比較して、あそこは年期が浅いとか売上高が少ないとか、
オレよりもアイツの方が多いのはどういうわけだ、と大変な騒ぎになります。
自分の店の額に不満をもらすのではなく、「アイツのところは多すぎるんじゃねえか」と
他人のことばかり文句をいうのは、閉鎖社会魚河岸らしい言い回しでしょう。
 

 
少しでも多くの補償金をもらいたいのは当然なことで、
市場内はてんやわんやの騒ぎとなります。
ところが会社創立にあたって、出資金を出す段になると騒ぎはぴたっと収まります
紆余曲折の末にはじきだした営業権総額二千二百万円。
このうち現金出資が五百五十万円。
その半額の二百七十万円が払い込みで、残りを株券での受け渡しとなりますが、
現物出資のうち二十五パーセントを出資金として現金で持ち寄ることに決まったからです。
つまり五十万円の査定額を受けた者は、十二万五千円を現金出資しなければなりません。
 
 
当時の平均魚価は一貫目九十五銭くらいで、
市場の年間売上が五千万円足らずというくらいでしたから、
魚市場会社の五百五十万円出資は膨大なものでした。
しかも卸売会社となると、すべて委託によるせり販売。
手数料は公定の率しかとれないことを考えると、あまりにも過大な額でした。
「査定通り振り込めない」という声が続出してまいります。
早い話がそんなに儲かるのかい? ということで、
いつ配当できるか判らない会社に現金払込みなんてできない。
権利はただ取られ、株券なんて紙屑じゃないのか? なんて不満まで出てくる始末。
実のところ、委員長である田口氏本人ですら、自分のところの査定額二十万円に対する、
五万円の払込みも出来ずに他から借りなければならないという状況でしたから、
ほとほと困り果ててしまいます。
 
 
その頃、兜町でたいそう幅を利かしていた南波礼吉という人と、
米穀取引所理事長の早川芳太郎という人がいました。
田口氏はこの二人の大物に相談にいきます。
そのとき早川氏の助言は、
現金出資五百五十万円の半額、二百五十万円を会社設立時に払い込まなければならないが、
これは私の方で心配してあげるから、株を売りなさい、というものでした。
一株五十円としても五十五万株になります。
そのうち八万八千株を一株二十円で売ることとしました。
五十円が二十円とはばかに安いのですが、それでも紙屑同然とまでいわれるほど、
先行き不透明の会社ですから、まあ、これくらいで売れれば良いや、という考えでした。
 
 
「おいおい、株屋や米相場師に会社を乗っ取られるんじゃないか」
外部の者は一切入れないという話なのに株を売れとはどういうことだ、
と不満の声が上がります。
「だから八万八千株におさえているんです。それ以上の売り希望があれば私が引き受ける」
「ふざけるな、そんな金がどこにあるんだ。大きなこというな」
「金があろうとなかろうと、買えばいいんだろう」
 
 
こんなやり取りもあり、売り言葉に買い言葉で見得を切った田口氏。
しかし、フタを開けてみれば、案の定、十一万株もの売りの申し込みがありました。
「あんたが買うと言ったじゃないか」
仕方なく田口氏はとあるところから借金をして、二十円で四万株を買うことになります。
 
 
まあ、これで業者の払込みの件は何とかなった、あとは現金出資の二百二十五万だ。
というところに早川芳太郎氏がとんでもないことを言い出します。
「金? いや、オレなら持ってないよ」
その言葉をきいて、田口氏が思わず椅子からころげ落ちそうになったのは、
会社創立総会のわずか二週間前のことでした。
 

2007年05月11日

ラジオで眠れない (2)22:00~

気象徴予報部、午後10時発表の気象通報を申し上げます。はじめに天気概況、
明石町の南、北緯35度、東経139度には1007ミリバールの発達した低気圧があって北北西に進んでおります。一方、万年橋の東、北緯35度、東経139度には1020ミリバールの高気圧があって、ほぼ停滞しています。このため、閉塞前線の交差する築地市場のあたりでは雷や雹が降っております。
続いて各地の天気、
波除神社では北東の風、風力3 曇り 02ミリバール 気温10℃
場外市場では南の風 風力4 曇り 01ミリバール 気温18℃
仲卸店舗では 南の風 風力4 晴れ 1045ミリバール 気温26℃
銀鱗会 東の風 風力5 天気不明 08ミリバール 気温は不明です
マグロせり場では 西の風 風力3 雨 987ミリバール 気温24℃
超低温冷蔵庫では 北の風 風力8 霙 986ミリバール 気温-40℃
続いて気象徴海洋ブイおよび船舶の報告をお知らせします……
 

 
さて、築地地方の天気図も描けたんで、またラジオをきこう。
10時半からは、TBSだったけかな、「ミステリーS」ってのをきいてた気がする。
そこでやってたレノックス・ロビンスン原作の「顔」ってのがヒジョーに恐かった。
いまだにいっとう恐いお話のひとつだと思う。
 
RF2200.jpg
    名機クーガー2200のフィギュア
 

この時間になると「そろそろ寝なよ」と親にいわれるので、とりあえず寝床につき、
ロケット型の鉱石ラジオにきりかえるんだけど、これがまたチューニングがむずかしい。
ようやく微弱なニッポン放送を受信すると、
高橋祐二が調子に乗せて「ソニー・ディスク・フラッシュ」とかやってる。
~♪ ソニー、ディ~スク、フラーッシュッ!
多分、生録とか効果音なんかの音趣味な番組だったと思う。

で、23:35~ 沢田研二の愛を求めて
無呼吸になる前、パラシュートもつける前のジュリーが愛を求めていた。

23:45~ ザ・パンチ・パンチ・パンチ
「ア・ハァ~ン、ウッフ~ン」ではじまる、当時としては親にナイショできくべきお色気番組。
提供は平凡パンチで、小学生にとって「平凡パンチ」といえば
6年2組のカッちんは「平パン」見てテント張った、などとまことしやかに伝えられたものだ。
今思えばどうってことないけど、鉱石ラジオをかなり慎重にチューニングしながらきいた。


00:00あおい君と佐藤クン

~♪ズッチャッ・ズチャチャッ・ズッチャ……のメジャーセブンスのボサノバ生ギターにのって、

“……きょうカレにいわれたの キミの髪って 不思議な甘いにおいがするね、なんて、
 ヒミツはこれ……”

みたいなナレーションのエメロン・シャンプーのCMに続いて、
あしたのジョーのあおい輝彦とケメことフォークシンガーの佐藤公彦のトークが始まる。
ピンポ~ン、という明るいチャイムの音がして、軽快な語りが始まるのは、
耳の奥底から“ジェットストリーム・ジェットストリーム・ジ・エ・ツ・ト・ス・ト・リ・ー・ム!”
と強迫的に近づいてくる裏番組とは好対照だったけれど、
さて、この番組がどんな内容だったかはちっとも覚えていない。
けっこう好きだったんだけど、記憶に薄い。覚えているのはただ、
~♪チャン・チャカ・チャカ・チャン……PPMばりスリーフィンガーのアコギにのって、

“たそがれどきに見つけたの おしゃべりな瞳が 少しだけ片想い
きのうみた夢は 歌い忘れた一小節のように ヒミツはこれ……”

のエメロンシャンプーのCMだけだ。


0:10 たむたむたいむ

か~ぜ~さ~ん!

かぜ耕士の「たむたむたいむ」は中学生の、わりと思春期な頃まで熱心にきいていた。
リスナーの録音メッセージを流す「30秒たむたむ発言」とか、
「お便り読みっぱなしの日」とか「自作自演コーナーなんてのがあった。
「自作自演」はアマチュアの自作曲を紹介するもので、
“ハックルベリーフィン”なんてグループがいて、『流れ星』って曲が良かったな。
“卒業生と在校生”っていうのもあったなあ。


「たむたむ」が終わる頃になると、そろそろ眠くてモーローとしてくる。
イヤホンを耳に押し込んだまま寝てしまい、朝になったら耳の穴がものすごく腫れたことがあった。
やっぱ、小学生には午前0時以降は未知の世界で、
オールナイトニッポンとか深夜放送をきくようになるのは、中学生になってからのことだ。

2007年05月10日

ラジオで眠れない (1)21:00~

タイムスリップして昔に戻れるとしても、
もう一回おんなじことやるのは疲れるから気が進まないんだけど、
昔きいてたラジオ番組は、またきいてみたいなって思う。
 
 
小学4年生か5年生の頃、夜がくるのが楽しみだった。
ラジオが面白かったから。
毎晩、ソニーの4石スーパーのけっこう微妙なチューニングに苦労しつつ、
夜の9時からはニッポン放送をきいてた。
確かこんな番組だったと思う。
 

 
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   ワタクシの所有していたラジカセ
   けっこう音が良かった
 
 
21:00~ ラジオドラマ「日本沈没」
 
原作が大ベストセラーになった頃。
映画化されて、劇場に観に行ったのだけど、小林桂樹の田所博士役がスゴかった。
あと、藤岡弘が最後までライダーに変身しないので、とうとう日本は沈没してしまった。
ラジオの小野寺役は鹿賀武史だったかな。田所役は宮口精二? けっこうシブイ。
原作に忠実で緊迫感のある番組だったな。
NKK日本鋼管(現JFE)が提供してた。
 
 
21:15~ 岸辺シローの気ままな旅
 
ここであわてて風呂に入ることになっているので、
この番組はちゃんときいたことない。
 
 
21:25~ ラジオ劇画 愛川欣也の立川文庫
 
ちょうど風呂上りに流れてくるのが「豪傑マン」の歌
 
~♪ 西に東にその名も高く
正義の???をふるうとき
豪傑マンは風をよぶ 豪傑マンは風を切る
 
これもどんな番組だったか忘れちゃった。
歌だけ印象的だったけど。
当時キンキンといえば、ニャンコ先生でしょ。
 
 
21:40~ 欽ちゃんのドンといってみよう
 
テレビで有名になった「欽ドン」だけど、はじめはラジオ番組だった。
毎日コーナーが変わり、「ああカン違い」とか「突然の質問」とか「ドジ」とか、
一番おもしろかったのは「レコード大作戦」。
「バカうけ」「ややウケ」「どっちらけ」で、「バカうけ」には賞が贈られた。
「ジャンプ賞」「ノンノ賞」「プレイボーイ賞」「ノンノ賞」「明星賞」「ロード賞」…など。
どれもスポンサーの集英社の雑誌名で、確か「ジャンプ賞」が最高だった。
 
友達同士でもずいぶん流行って、いつもハガキのネタを考えていた気がする。
友人がハガキを出して「ジャンプ賞」と「ノンノ賞」を取ったときはスゲエと思った。
あとパジャマ党って何だっけな。
~♪ハガキの便りが…… っていう「今がチャンス」と「山に登れば水虫ふんだ」は、
今でも私のiPodに入っている。
 
 
21:50~ オリベッティ劇場「怪人二十面相」
 
「あなたはいくつ顔を持っていますか? 内ヅラに外ヅラに恋人用に家用に……」
熊倉一雄のナレーションではじまる楽しいドラマ。
本来、二十面相の登場しない乱歩の通読長編もの、
「孤島の鬼」「芋虫」「恐怖王」「暗黒星」「幽霊塔」などが原作になっていた。
確かこの後番組が、同じく熊倉一雄のナレーション「あなたは信じますか? ジェロのせかい」
が耳に残る、けっこう恐い「ゼロの世界」だったと記憶している。
 
「ふはははは、明智君、また明日」と二十面相が納谷五郎の声で言うと
もう夜の10時だ。
 
 
「……気さくな仲間を集めてのパーティもたけなわ。
 盛り上がった空気にほんの一瞬流れる重い静けさ。
 そんなとき、誰かがカセットのボタンを押す。
 とたんに笑顔がこぼれる。
 会場に流れる軽快なミュージックが皆の心をときほぐす。
 日立パディスコ3000……」
 
みたいなCMではじまるのが「日立ミュージック・イン・ハイフォニック」
でも、そいつはきかないで、ダイヤルを690Khzに合わせてNHK「気象通報」を流す。
何たって理科部だからね、ラジオきいて天気図を描かなきゃいけないんだよ。
 
まだ眠くないので、つづく。
 

2007年05月08日

築地魚河岸昔がたり(72)  魚問屋の査定でもめる

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箱根での老舗料査定委員会の面々。前列中央が田口委員長
 
 
田口氏らに単一派によって組織された東京魚市場株式会社は、
そこに収容する千百件からの業者への補償金である老舗料を二千万円と決めます。
しかし、そのうち現金出資をいくらにするか、また配分をどうするかは大きな悩みでした。
何しろ各問屋の実態を調査しなければならないために、それは大変な作業です。
 

 
老舗料は、千百件から仲買専業をのぞいた約五百の魚問屋の売上実績をもとに査定します。
魚河岸のなかには何百年という古い店も多いのですが、
それほど古いものまでさかのぼることもできませんので、
過去三、四年の平均売上高を各店舗が申告するということになりました。
もしも申告が不確かであれば、
“調査に行くので、資料を整えておいて貰いたい。
資料がなかった場合には申告を認められない”
との旨を通達します。
 
 
ところが、いざ申告となりますと、怪しい内容が多いばかりか、
資料なんて何もなく、本当に分からない、なんて店舗がざらに出てまいります。
そのようなお店に帳簿なんて気の利いたものはもちろんございません。
そのつど手帳か何かに控えてあればいい方で、
どうかすると、きれいさっぱり何にもない、なんて店もあります。
これにはまったくのお手上げです。
仕方ないので、最終的には会社の決定にしたがってもらう、という誓約書を取って、
ようやく全店舗の調査を行ないました。
 
 
魚市場会社では、老舗料の査定にあたって委員会を設けまして、
旧魚市場組合のなかでも、とくに信用の厚い者が選ばれて、
その委員長には組合長である田口氏が就任します。
 
 
何しろ他人の財産を決めるのだから細心の注意を払います。
田口氏以下十五人の査定委員は、箱根の旅館に十四日間泊まり込みで、
外部の人間と完全に連絡を遮断して査定作業にかかります。
朝、近くの神社へお参りに行き、そのまま夜まで旅館に缶詰状態。
査定金額のことで委員と個人的に連絡が取れないように面会は一切謝絶です。
 
 
それでも緊急と称して電話をしてくる者もいて、
「何とか五十万円に査定してくれ」などといいます。
「一切そういうことは聞かないことになっている」
「そういわず、頼むよ、やってくれよ」そうしてきっぱりと断るのですが、
生涯であれほど真剣だった時はない、とのちに田口氏は述懐しております。
 
 
老舗料という名目でしたが、古い店から高く買い上げるかというとそうでもなく、
むしろ古い実績以上に現在の取扱高、あるいは若い人であれば将来性があるか、
などということも加味されて査定したといいます。
また、仲買に対しても補償はありましたが、こちらはぐっと低い額に設定されました。
仲買のなかには小さな問屋以上の取扱高を上げている店もありましたが、
魚市場会社は問屋権を買収してつくるため、あくまでも問屋に重点を置きます。
そこで仲買には一斉査定で三千円づつ、多少の甲乙をつけても、最高で五千円くらい、
これをすべて株券で引き渡しました。
 
 
こうして魚問屋は自分の荷受権利をすべて魚市場会社に売り、
卸売人となる者、または仲買人となる者に分かれます。
ただ、仲買は洩れなく平等に収容されるというのが東京市と組合の約束でしたし、
仲買の許可は市ではなく組合によるものでしたから、
当時はほぼ全員が仲買になりました。