築地魚河岸昔がたり(76) 魚河岸のM&A

田口氏の必死の金策によって、
東京魚市場会社は昭和十年六月二十五日に創立総会を無事に終えることができました。
実際の営業は翌年一月からとなりますが、
名目上は魚河岸の問屋合同による卸売会社の誕生とあいなったわけでございます。
一方、東京魚市場会社の発足と相前後するように、
田口氏らの単一制反対を唱えて袂を別った組合員合同によって組織された
東京魚問屋会社も発足しております。
当時の中央卸売市場の趨勢として、卸売人単一の動きが進むなかで、
築地市場では、近い将来の合併を条件として、
ふたつの鮮魚卸売会社ができることとなりました。
つまり、魚市場会社と魚問屋会社との合併問題が、
長らく続いた中央卸売市場の単複問題の最後のヤマ場となりました。
卸売人の単一制に強い意欲を見せたのは当時の商工省で、
両社の合併を前提とする発足も商工省の考えによるものでした。
開業後六ヶ月以内に単一合同する旨の一札を両社からとっています。
しかし、このときの覚書に対して双方の会社で温度差があったことは問題でした。
魚市場会社はそもそも単一をめざしていたので、躊躇いたしませんが、
魚問屋会社の方は「各問屋が魚問屋会社に収容後の状況によって、合併は強制しない」
という決議を、株主総会で決定しております。
商工省の覚書にしたがえば、昭和十一年四月十一日が、両社合併の期日でしたが、
何の進展もないままに過ぎていきました。
魚問屋会社は、規模でこそ魚市場会社の数分の一でしたが、
荷物を受ける権利は同等でしたし、少数ゆえの小回りの良さも味方して、
予想以上の営業実態をあげます。
こうなると魚市場会社に吸収されるのはどうしても避けたい、ということになります。
市場当局からの再三の合併勧告にめげずに、
ひたすら時をかせいで、複数制の既成事実をつくろうとねばりました。
するとそこに、もとから複数制を支持していた買出人団体が参戦してまいりますと、
全国連盟の大会など開いて気勢をあげます。
さらに山田わか、山高しげり、市川房江ら婦人団体が参加してきたことから、
築地市場の単複問題は市会でも取り上げられることとなり、
次第に容易ならざる事態となってまいります。
さて、他の中央卸売市場では、とうに単一の流れになっていて、
京都、大阪、横浜などの各市場では単一卸売会社が発足しております。
それらは多少の紆余曲折はあれ、自然な流れとして結束したものでしたが、
最後に残った東京だけが、その決着をみないまま、こじれていました。
この時間の差が、結果的に築地市場にとっては不幸な方向づけを生むことになります。
昭和七年、上海事変により満州国が成立。
軍部の独走による暗い時代の幕開けとなります。
魚河岸が単複問題や板船権でもめている頃には、
時の犬養首相が海軍士官によって射殺される「五・一五事件」が勃発しています。
ファッショ勢力はほどなく市場行政にも影を落としていきます。
ファシズムの台頭は、経済恐慌のなかから生まれたなどともいわれます。
景気建て直しのために軍事費を増大させていくことで、
必然的に国家独占資本主義へと移行していきました。
その方向性のなかで、企業の独占集中が進められたという面があり、
商工省の狙う単一制はいわば、国家権力による統制経済への前段階とみることができます。
魚市場会社の業務開始から一ヶ月あまりたった昭和十一年二月、
昭和史を塗りかえる大事件が勃発します。
陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが千四百名の兵を率いて
「昭和維新断行・尊王討奸」をかかげて起こした反乱、いわゆる二・二六事件です。
これを契機として起こった軍部の政治、経済への介入は
そのまま市場行政に反映してくることになるのですが、
そのような状況下、築地市場では単複問題の最後の闘いが火ぶたを切ろうとしておりました。