夜嵐阿絹花廼仇夢・其ノ弐-よあらしおきぬはなのあだゆめ・その2-

「そいつあ、いくら何でも滅法界な話じゃねえか。」
「まったくだよ。いっそいめいめしいったらありゃしない。」
密かな逢瀬を重ねて想いをつのらせるお絹さんと璃嘴(りかく)。
しかし、そこに横恋慕いたしますのが、旦那の金平ジイサンでございます。
近頃、何かと世間の口に上る二人の間柄を放っておきゃあしません。
「なあ、お絹。役者買いは構わねえさ。たまには若えもんと遊ぶのも良い気散じにもなるってもんだ。だがな、お前、ここんとこ森田屋に随分と入れ込んでいるそうじゃないか。ええ。まさか本気じゃあるまい。忘れちゃならねえのはな、所詮お前は儂の持ち物だってことだ」
金平ジイサンは女中のお駒に言いつけて、お絹を家から出さないようにします。
自由のきかなくなった二人、それでも監視の目を盗んで璃嘴と逢ったお絹は言います。
「妾(アタシ)は決めましたヨ。いっそ旦那を……」
きっと見つめ合い、無言のうちに二人はすっかり覚悟を決めます。
璃嘴がお絹さんに、そっと渡した石見銀山。
うどん粉様の白い粉末をお茶に混ぜ、ひと泡立ったところを旦那に差し出しました。
時に明治四年正月十二日
「お、すまねえな。お前も近頃すっかり落ちついたな。
そういう料簡なら今晩もお前を可愛がってやろうというものよ……うぐっ!
ぐぶぶぶ……お絹! 手前、いってえ何ぃ入れやがった……」
途端に七転八倒に苦しみだすと、ほどなく金平ジイサンは力尽きたのでございます。
これで邪魔者は消えた。
さあこれから手に手を取って東京を逐電し、どこか遠い土地で暮らそうと
お絹さんと璃嘴は恋の道行をもくろみますが、しかしそれも果敢なき夢と消えます。
浅草屯所からかけつけた羅卒らに取り押さえられて、あえなく御用に。
犯行の一部始終を見ていた女中のお駒の通報によって悪事が露見したのでございます。
五月末、捕われたお絹さんは殺害を自白、罪状に服します。
「東京府士族小林金平妾ニテ浅草駒形町四番借店 原田キヌ 歳二十九
此者、妾ノ身分ニテ嵐璃鶴ト密通ノ上、金平ヲ毒殺二及ビ候段、不届至極二付、
浅草二於テ梟首二行フ者ナリ」
梟首というのは晒し首のことです。
不倫は文化とまで言われる現代と違いまして、不義密通は大罪であった明治の世。
いかに女性であろうと、毒殺は重罪をもって断じられたのでございます。
しかし、このときお絹さんはすでに璃嘴の子どもを身ごもっておりました。
そこで出産を待つこととなり、玉のような赤子が産まれ落ちましたが、
お絹さんはわが子の顔を見ることなく、九月二十九日の朝、小伝馬町の牢屋を出まして、
小塚原刑場において、山田浅右衛門の手により斬首されます。
このときにかの女が残した辞世の句“夜嵐のさめて跡無し花の夢”が
世間に伝わり、“夜嵐お絹”として、その名を残すこととなるのでございます。
まあ、この辞世が実際にあったかどうは別にして、
有名な役者と謀って金持ちの旦那を毒殺したのが色っぽい年増だというニュースは
当時をして、たいそうスキャンダラスな事件。
ことにお絹さんへの同情的な世評は後々まで語り継がれ、
その後、演劇や映画の題材として繰り返し扱われることになるのでございます。
一方、情夫の璃嘴はと申しますと、
かれもまたお絹さんとともに縄目を受けるのですが、
こちらは旦那の殺害を知っていて隠したという咎で二年の刑に服しました。
さて、このお話と魚河岸がどのへんで関係するのかと申しますと、
このあたりでちょっとだけ関係してまいります。
監獄を出所後あてない璃嘴に声をかけ、
「お前さんのような者がこのまま埋もれては惜しい」と
世話を焼いたのが、無類の芝居好きである魚河岸の顔役たち。
かれを九代目市川団十郎のところ預けることとします。
この辺り、団十郎と魚河岸との密接な関係を示すものでありますな。
璃嘴は後に市川権十郎を名乗り、見事カムバック。
人気役者として生涯を送ったといいます。