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2007年08月01日

築地魚河岸昔がたり(79) 第二回不買争議(その三)

    fubai2.jpg
 
 
約束の期限を過ぎても合併に応じない魚問屋会社の態度に業を煮やした市当局は、
遂に同社に対して業務停止命令を下します。
もっとも約束の期限といっても商工省が勝手に決めたものであり、
結局、期間限定の複数会社容認というその場しのぎの方策をするなら、
はじめから魚問屋会社の創立を認めなければよかったわけです。
複数派としては、あまりにも理不尽なやり方と感じるのも当然なわけで、
その上、業務停止などあり得ないっしょ、と考えていたものですから、
市当局の強行策は魚問屋会社はじめ複数派の人びとにはまさに青天の霹靂でございました。
 

 
「やばいっすよ、やっぱ、ここはおとなしくお上に従った方がいいんじゃね?」
「んなバカなことってねえよ。ここは断固業務停止撤回に動くべきだよ!」
浮き足立った魚問屋会社内では硬軟両派に分かれて意見が対立しております。
するとそこに、
「キミたちィ、何言ってるのよ。今がチャンスじゃないの!」
と口火を切ったのが、買出人の大ボス塩澤達三氏でございます。
「不買だよ、不買争議。もう各方面には手を回してあっからね。
 何、私の言う通りにやれば万事O.K.大丈夫、大丈夫、ふはははは!」
 
 
さても、この事態を憂慮した代議士の田川大吉郎氏と河原田稼吉氏、
および国粋会の大物、梅津勘兵衛氏らが調停に乗り出します。
しかし、府も市も処分を解除する意志はまったくなく、
魚問屋会社も頑として合併決議の誓約書に調印しないので、
まったく調停の余地はなく、事態は完全に行き詰まりを見せるのでございます。
 
 
そうして昭和十一年、九月二日。
震災記念日の翌日より、買出人連盟理事長塩澤氏の指導のもとに
昭和七年八月以来、二度目の不買争議が実行に移されることになります。
このときの争議は失敗に終わった前回の徹を踏むまいと、周到に準備されたことで、
規模も大きく、またその期間も長いものとなりました。
 
 
一万五千人の買出人のうち、連盟側七千人が築地魚市場をボイコット。
周辺市場である横浜、川崎、大森、千住での買出しに一斉に繰り出します。
これを受けて、市当局と魚市場組合の連合軍は十数万枚のビラを配布、
「築地市場は消費者への直売をします!」と訴えました。
 
 
市場が真っ二つに分かれての一大争議は、連日新聞紙上をにぎわせることとなり、
全市民の耳目をひきつけました。
大東京の一角の築地市場だけがあたかも戒厳令下のようなものものしさに包まれます。
市場内は円タク等の入場禁止、市職員を動員して入場者の整理に当たります。
不審な者は一切市場内には入れないということで、
万一のために築地警察から七十名の警官が動員されました。
 
 
一方、買出人連盟側は、五百台のトラックを用意。
荷台には向こう鉢巻に赤襷の魚屋を乗せて、
隊列も見事に各市場を一斉にめざします。
まるでこれから合戦にでも出かけるかのような雰囲気でござまして、
魚屋がこんな殺気立って魚を買いに行くのは、有史以来はじめてのことでございましょう。
 
 
そんなことから、当然築地市場の入場者は激減します。
お客さんは六割減、入荷量も四割減。
大変な打撃を受けることになりましたが、魚市場会社の田口氏は
「まあ、このくらいは予想しておったよ」
と、あらかじめ用意しておりましたトラック四十台とオート三輪二十数台を稼動し、
東京市内全域、お魚の無料配送で対抗いたします。
生鮮魚のデリバリという、数十年後に実現される先駆的な業務を
偶然にもこのときに実現させていたのでございますな。
 
 
築地市場の売上がたいそう凹んでしまったのと反対に、
買出人連盟がどっと繰り出した周辺市場では売上が倍増、魚価も一割の高騰を見せました。
「いや、いいっすよ争議。もっとやれって感じ」
とは心の底で思っていたかもしれませんが、
東京の買出人たちの凄まじいパワーに、顔を見合わせるばかりの周辺市場の人びとでした。
 

2007年08月02日

夕可゛しのアジ

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江戸前といえば寿司のこと、かというと
実はそうじゃなくて、鰻のことなんだよ、と
したり顔でウンチクを語ったりする。
 
 
江戸時代、鰻ばかりは土地のものじゃなくちゃいけない、
他所から持ってくるものは「旅鰻」といって嫌われた。
だから、「江戸前」というのは、江戸で捕れた鰻を宣伝する、
いわばキャッチコピーとして広まったというわけ。
 
 
ところが、そいつをもうちょっと調べてみると、
最初に「江戸前」を名乗ったのは鰻じゃなくて、
どうも鯵らしいということがわかる。
 
 
享保二十年(1735)に菊岡沾涼という人の著した地誌『続江戸砂子』に
 
“江戸前鯵
 中ぶくらと云、随一の名産也、江戸前にて漁るを前の魚と称して佳品也”とある。
 
鰻屋が江戸市中にあらわれるのは、ずっと後の天明の頃(1788-1789)だから、
鰻よりも早くに「江戸前」の称号が鯵に冠せられていたわけだ。
 
 
鯵、そして夏、とくれば、お江戸魚河岸の名物に「夕河岸」というのがあった。
魚の売れ口が悪く、傷みやすい夏場は小田原町では難儀だったが、
ただ、この季節には上総方面から小魚が捌ききれないほど、どっと届いた。
そこで、その余りを午後にまとめて売っちまおうというのが「夕河岸」で、
朝市ほどではないが、結構賑わったという。
主役は「鯵」、それから虫の声をきく時分には「鰯」が出回った。
 
 
夕方に日本橋の川風に吹かれての魚売。
さぞや清々しいものだったろう。
 

2007年08月06日

築地魚河岸昔がたり(80) 第二回不買争議(その四)

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不買争議ついに勃発。


一斉にあがった不買の火の手は東京全市を渦中に巻き込みつつ拡がりを見せます。
その最中の九月十二日、塩澤達三氏率いる買出人連盟は婦人団体との共催により
神宮外苑の日本青年会館で「東京魚市場不買市民大会」を開催、
「当局は東京魚問屋会社を弾圧して魚類部の販売権を一営利会社に独占させるのは、
 消費大衆の福利を蹂躙するものである!
 速やかに魚問屋会社への業務停止を解除し、卸売人の複数制を確立せよ!!」
と大いに気勢を上げます。
 

 
「まずはいい調子じゃん!」とほくそ笑む塩澤理事長。
「これで業務停止命令も撤回されますかね。」
「そりゃ、されるに決まっとるよ。世間の支持も集まってるし、
我々の勝利も目前だよ、ふぉふぉふぉふぉ!」
 
 
不買争議の世間に対するインパクトの強さに悦に入る複数派の人びとでしたが、
事の進展はこの人たちの思うようには進まなかったようです。
 
 
九月十一日付の都新聞は次のように報じました。
 
 
“……不買決行の火蓋を切った魚河岸の哥兄(あにい)連も去る二日から既に八日、
 意気だけはピンピンと生きがよいが、見透しのつかない持久戦に、いささかうだり、
 営業停止を食わせた当局も案外の抵抗にあせり、抜いた伝家の宝刀も収め方に窮し、
 開会、休憩、散会、紛糾ですったもんだの市会も来春の改選を控え
 地盤も大切、市への情誼も断ちかねて、
 三者三すくみ、三うだりで、昨今の空同様、有力な調停を待つ風情である。
 これをめぐって、婦人団体の声援、魚河岸疑獄の風説さえ飛び出している。
 信望ある調停者は何処にいる……”

 
 
東京市会では不買争議の勃発とともに、
「これは重大事だ」ということで連続審議を重ねてまいります。
その争点は魚問屋会社への業務停止命令を解除するか否か、
それは即ち、卸売人単複問題への行政の最終決断でもありました。
世論は独占とか業務停止という言葉に強く反応し、当局横暴に大きく傾き、
新聞もまた批判的な記事をぶち上げます。
しかし、時の牛塚東京市長は“単一合併は国家の方針”の一点張で押し通します。
むしろ態度をより硬直化して、塩澤らの不買大会の翌日の十三日には、
魚問屋会社にさらに一ヶ月の業務停止の延長を申し渡します。
これにはさすがに議員の反発も強く、東京市会を真っ二つに割っての論争となります。
結局は議員投票での決着となり、四十三対四十二という一票差で、
単一合併に傾くことになりますが、これには事前の工作があったとも伝えられています。
 
 
複数派の人びとは市会でも過半数の賛同者を得ているとの認識があり、
勝利を確信していただけに、この結果に非常にショックを受けます。
これはきっと田口達三氏ら複数派が圧力をかけたものだと思い込み、
違法行為だと訴えて争議をさらに持久戦へと持ち込もうといたします。
 
 
しかし、昭和十一年の残暑はことさら厳しく、
争議が一ヶ月に達する頃になると、さすがにみんなうだってまいりました。
 
 
「塩澤さん、一体いつになったら業務停止は解除されるのかね。
 いたずらに不買運動を続けていても、肝心の当局が折れないのではね。」
「いやいや、事を急いではいかんですよ。
 いかように決着をつけるか、タクトを振るのは私らですからな。」
塩澤氏はそう言いながらも、自分の視線がすでに事態とは別の方向にあることを、
自ら確認するのでした。
 
 
泥沼化する不買争議。出口は一体どこに?
 

2007年08月09日

スイカの行進

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 これは伺ですか スイカですか
 この委節はスイカが美昧しいですか
 
 
 
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 ここになぜスイカがありますか? 
 
 
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       …… …… ……
 
 
 
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 スパッと割ったら とても美昧しいですか
 

2007年08月10日

スイカの行進2

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         こちらがあまいですか
 
 
 
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     それとも こちらのほうが あまいですか
 
 
 
 
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       やっぱり こちらが おいしいですか
 
 
 
 
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2007年08月20日

残暑ですか

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      残署ですか まだ署いですか
   夏グッズをひろげて ゆく夏をおしみますか
 
 
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         おや? 人道雲ですか
 
 
 
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          これは太変です
      でもタ立が なぜふりますか
 
 
 
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         なにをするのですか

2007年08月21日

築地魚河岸昔がたり(81) 第二回不買争議(その五)

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       まるで戒厳令下のような築地市場
 
 
KYというのが流行っていまして、「空気読めない」人の略だそうですが、
それじゃ「空気読める人」のことは何て言うんですかね。
それはともかく、今から70年前に世間を揺るがせた築地市場の不買争議、
単一派と複数派の対立は、国家権力の介入と世論の高まりにあおられ、
一気に燃え上がっておりました。
その最中、多くの人びとはKY(読めない方)でした。
しかし、少なくともこの不買争議の仕掛人、買出人連盟の塩澤達三氏は
KY(読める方)だったのではないでしょうか。


このまま徒らに不買を続けていても結局は権力にやられてしまうのだ。
だが、この争議の目的は単複問題にあらず、真の狙いは……
塩澤氏はいよいよターゲットを絞っていました。
市場問題には誰よりもKY(読める方)なかれの目は、
KY(読めない方)な人とは別のものを見ていたのです。
でも、それもやっぱり全体の流れからは逸脱しているわけで、
KY(読める方)すぎてかえってKY(読めない方)ということだってあるわけです。
 

 
市は当初この争議は10日もすれば収束に向かうだろう、とタカをくくっておりました。
しかし、1ヶ月を過ぎてもまだ解決の糸口もつかめない。
そうしているうちに新聞など世論も次第に行政を非難するようになってまいります。
「今度の単複騒動では生産者も中間業者も誰も儲けていない。皆損をしている。
 市当局者の中から責任をとる人が出て、問題を一応白紙に返してしまうよりほかに
 方法はないだろう」(十月四日付『朝日新聞』)
 
 
こいつぁ、どうにもあんべえ悪いや、ということで
市当局は不買争議の総指揮官である塩澤氏を呼び、事態の収拾方法を相談いたします。
「いやいや、私らはあくまでも不買をつらぬきますよ」と、
塩澤氏は徹底抗戦の態度を見せて、ここは物別れに終わります。
しかし、これは表向きのことで、水面下ではこのときから具体的折衝に入りました。
 
 
「いよお、塩澤さん。やってるねえ。ワシは何といってもアンタたちを応援するぞお!」
と、気勢を挙げるのは複数論者である青果商組合長の大沢常太郎氏でございます。
大沢氏は白米二十俵、手拭千本を贈って争議を応援してきました。
「市場の将来のためには、ここは断固戦わなくてはなりませんぞ」
大沢氏は塩澤氏がその戦略を転換したことに気づいておりません。
塩澤氏が市とどんな折衝をしているのか知ったのはこの直後のことです。
あまりのことに大沢氏はイスからころげおちました。
 
 
十月五日、市は“買出人のために努力する”ことなど三項目の提案を塩澤氏に示します。
しかし、塩澤氏ら争議首脳陣はこの程度の案では到底妥協できないとして、
翌六日、不買側として八か条の意見を提出します。
そして、これが容れられなければ争議は続行すると宣言しました。
その八か条の内容とは、
 
 
 一、魚問屋会社の業務停止の即時解除
 二、鮮魚買出人組合連合会を認めること
 三、買出人のせり参加を認めること
 四、会社は買出人のせり参加者に仲買人同等の奨励金を交付すること
 五、仲買人は鮮魚買出人連合会員に限り奨励金を交付すること
 六、卸・仲買の小売行為の禁止
 七、会社は毎年一定の金額を魚食宣伝費として支出すること
 八、会社は興業資金として買出人信用組合へ相当金額を交付すること
 
 
これは魚商の地位向上とその組合の権利強化を訴えるもので、
要求のなかには、そもそも争議の発端であり、焦点である
卸売会社の単複問題には一切触れられていませんでした。
もともとそんなものは塩澤氏の頭になかったのかもしれません。
かれが考えていたのは前回の失敗を挽回することでした。
 
 
昭和七年八月の第一回の不買争議では、買出人の権利確保を求めて闘ったにもかかわらず、
実質的な収穫を見ないままに終わってしまいました。
塩澤氏の要求はまさに第一回不買争議で求めて失敗したことの蒸し返しだったのです。
 
 
「つまりリベンジというわけですわ」
 
 
塩澤氏はしてやったりということでしょうが、周囲は困惑します。
市はこれが争議の目的なの? と意外に思ったでしょうし、
青果組合の大沢氏はイスからころげて尾てい骨をいささか打った上、
起き上がるときには机に頭を打ちつけたので怒り心頭に発したと思います。
 
 
 「うぬぬぬぬ、許せん!」
 
 
塩澤氏の言動を裏切行為と受け取った大沢氏は、
これまでの争議援護から一転、調停役を買って出て、火消しに回ります。
奇襲攻撃に出た塩澤氏でしたが、人びとの心情に思いやらなかったのは読み違いでした。
KY(読める方)すぎてKY(読めない方)に、自らの策に溺れたといえましょう。
 

2007年08月22日

ぱらいそ

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池の真ん中で蓮に囲まれる。
毎年、この時期だけ中に入れる とっておきの場所。
 
 
薄暮の水面に吸い込まれそうになると
あの世がすぐ近くにきている気がした。
 

2007年08月23日

金華楼のチャーハン

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むかし足立区梅島の環七近くに金華楼という中華屋さんがあった。
カウンターだけの小さな店で、一節太郎ばりのダミ声のおじさんがやっていた。
小っちゃいギョウザが人気で、地元のお客がよく銭湯帰りに買って帰ってた。
でも僕はここのチャーハンこそは一度食べたら忘れられない、 えもいわれぬ美味しさだったと思う。

 
ある晩、他のお客のいないときに、
カウンター越しに、おじさんからその作り方を教えてもらった。
「どうやったらそんなふうにつくれるの?」「ああ、教えてやるよ」
みたいな感じで、気楽に教えてくれたけど、もちろんその通りやったって同じ味にはならなかった。
 
 
中華なべに油をはって、やや弱火で玉ねぎをゆっくりと炒める
とき玉子を流し込んで、強火、固まったらご飯を入れて振る
中華スープ、塩、こしょうで味を整え、鍋はだに醤油をふって香りづけ
最後に日本酒をふってテリを出す(これはおじさんはやっていなかったけど)
 
 
いろいろ工夫してかなり近づけたと思うけど99.9%、
あと0.1%は永遠に届きそうにない。
もういちど本物を食べられたら、と思うけど、それはもう適わないことだ。
 
 
たまに思い出したようにつくる金華楼チャーハンもどき。
食べるとちょっと元気になり、少しだけ淋しくなる。
なつかしいおじさんのダミ声を思い出す。
 

2007年08月24日

築地魚河岸昔がたり(82) 第二回不買争議(その六)

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ところ変わって、こちらは浜町の待合でございます。
魚市場会社の幹部たちがここをアジトにしておりました。
単一派の首魁、田口達三理事長は一ヶ月を経ても進展しない争議の行方を
少々の苛立ちと共に見守っておりました。
もちろん黙って指をくわえていたわけではございません。
消費者への直売を行い断固たる態度で臨んでおります。
何となれば、田口氏の頭には一本通った市場流通の理念がございました。
 
 

「いつ出番が回ってくるかとヒヤヒヤしましたが、久しぶりに登場とあいなりましたので、
ひとつこの場をお借りして、ワタクシの単一論など申し上げたいと思います。
卸売会社が一社に集中することの弊害が叫ばれておりますが、
そのようなことは断じてないのでございます。
会社が荷主と結託して値段をつり上げるとか、仲買が思うように買えない、などは
まったく根拠のない憂慮としか言いようがございません。
いったい、生の魚を売買するのに、談合や止め札の類がどれほどあろうものか。
大東京には無数の小売店、料理屋がございます。
自分の得意先と思った品物も、各所にこまかく分かれてしまいます。
料理屋向けは料理屋向け専門に、惣菜物は惣菜専門に、塩干物は塩干専門という具合で、
ひとつところに千人も集まるわけではございます。
また、とくに出荷者は単一になると卸売人が横暴になると反対しておりますが、
これは誤解はなはだしく、市場の実情が分っていないとしか言いようがございません。
むしろ卸売人が複数あると、それだけ人件費や通信費など、
いろいろの費用が何倍にも余分にかかります。
その費用を一体誰が負担しているというと、実は消費者や仲買ではなく、
出荷者の負担になっております。
それが単一になって大いに軽減するのだから反対する道理はないと思うのであります。
いま中央市場に送られてくる荷の80%は産地出荷で、生産者が直接送る分は少しです。
生産者は魚を獲っても漁港では必ず産地仲買業者の手を経ているわけですから、
こうした人たちの経費を減らすためにも、農林当局も単一という方針のもとに
法改正をしようというのは当然のことなのでございます……」


田口氏が長口上を続けているその時、争議調停者より呼び出しの使いがまいります。
相手は土地の顔役、大日本国粋会理事長の梅津勘兵衛氏。
「ひとつ相談に応じたく候」
梅津氏は青果の大沢氏や明治座社長の渡辺明氏などからなる争議団から依頼を受け、
問題解決を頼まれたのでございますが、何しろ右翼の大親分でございます。
魚市場会社の幹部たちは皆おじけづいてしまいました。
さしもの田口氏も、
 
 
「困ったね。ワシが行って話こじれるとヤバイッしょ。
 ここはひとつ物腰の柔らかい人にお願いしたいなー……
 どお? 誰か行ってくんない?」
 
 
などと、言われても、進んで自分が行く、なんて者はおりません。
誰だってこんなところで命は落としたくはないですから。
と、そこに所用で外回りをしておりました田口氏の参謀役である
伊藤春次氏が汗を拭きながら帰って参りました。
 
 
「おお、いいところへ来た。
 伊藤君、悪いけどアンタ、梅津親分んとこ、行ってくれんか」
「え? ああ、いいっすよ」
 
 
伊藤春次氏、当年とって三十六歳。
築地市場随一の理論派で知られたかれはまた、
“頼まれて 一肌脱ぐは男なり”を地でいく漢(おとこ)でした。
 
 
春次氏は風呂場で身体を清めると、真新しいフランネルの着物に袴をつけ、
蛇の目の傘を斜に構え、凛とした姿で待合を出ます。
そこには普段の物静かで理知的な容姿と打って変わった気組が漂っておりました。
折りしも降り出した雨の中を、人力車を走らせます。
場所は不忍池のほとりに建つ翠松園。
~♪花も嵐もぉ~踏み越ぉえてぇ~ 行くが男の生きる道
霧島昇、ミスコロムビアの『旅の夜風』をバックに、
春次氏を乗せた人力車は市中を跳ぶように行きます。
 
 
魚河岸争議もいよいよ大詰めの調停にこぎつける、と聞きつけた報道陣が
すでに翠松園を取り囲んでおりました。
到着した春次氏が部屋へ入ると、新聞記者たちがぞろぞろと後について来ましたが、
梅津氏の子分らに「貴様らはさがれ!」と一喝され、退散しました。
 
 
春次氏は案内された部屋に入ると、そこは二十畳ほどの座敷で、
梅津大親分がひとり座しております。
卓をはさんで対座する春次氏を梅津氏はジロリと睨みつけました。