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2007年09月26日

築地魚河岸昔がたり(86) 検束される市場関係者

留置場はしらみや南京虫のたかる陰々滅々たるところで、
嫌疑者は早く出たくて、つい自白をしてしまうといいます。
春次氏は訊問を受けては、一週間程この不潔な場所に留められるということを
くりかえされました。
 
 
「相当な金を持っていったな。調べはついている。白状せんとためにならんぞ」
「何も持っていってません」
「バカヤロウ! 今時、女学校の入学を頼んでも10円の商品券が当たり前だ。
 これほどのことを頼むのに手ぶらで行くわけはないだろう!
 いったいいくら持っていったんだ!!」
訊問の刑事は凄みをきかせて怒鳴りつけます。
気の弱い者なら、すくみ上がってしまうのですが、春次氏は淡々と答えました。
「村瀬局長は中央大学の商法の先生です。人格者で、もしも金を出しても受け取りません。
 辻さんも松田さんも大金持ちの御曹司。金なんかつっ返されますよ。」
「どうしても言わないのだな。ようし、また油を抜いてこい!」
それでまた留置場へと逆戻り。
 
 
毎日のように奥さんが差し入れにまいりますが、面会はさせてもらえません。
逆に「お前の亭主は大罪人だ」などと蔑んだ目つきをされたといいます。
警察に捕まるなどということは世間的には大変に不名誉なことでありました。
しかし、留置場生活が長くなりますと、その世界では次第に地位が向上していきます。
周囲のスリや泥棒、ばくち打ちたちから「旦那」といわれるようになります。
「何だか知らないが、旦那は偉い、立派だ。何されても自白しねえんだからな」
混房内での席も良くなり、食事のときの味噌汁もたっぷり実のあるものにありつけます。
そうして、いつのまにか春次氏は留置場の親分格に祭り上げられる始末。
 
 
そうしたある日、ふたたび訊問に呼び出されます。
「魚問屋会社の合併問題や営業停止のことを一番知っていたのは誰なんだ」
そうきかれて春次氏は正直に答えました。
「それは府知事の横山……」
そのとたん、取調べの刑事はびっくりして「ばかっ!」と叫んで火鉢を蹴り上げました。
春次氏は知らないことだったのですが、以前に田口氏とともに会社合併を主張した相手の
当時、府知事であった横山氏は、実はこのとき偶然にも警視総監になっていて、
今回の疑獄事件の取調べでは総司令だったのでございます。
春次氏のなにげない一言が、警視庁では大変な問題となり、
これはどうも釈放した方が良さそうだという結論に達しまして、
伊藤春次氏は四十八日ぶりに拘束を解かれ、家へ帰れることになりました。
 
 
「やれやれ、えらい目にあった。」
実に不愉快な日々を送り、ようやく家でくつろげる喜びにひたろうというとき、
春次氏は驚愕の事実を知らされます。
「えっ、田口さんが引っ張られた!?」
 
 
春次氏が釈放される九日前の昭和十二年二月七日朝、
田口達三氏の築地の自宅に二人の刑事が連行されました。
そのときの様子を田口氏は自伝『魚河岸盛衰記』の中で語っています。
 
 
見かけはやさしそうな人で、「何ですか」と尋ねると「一緒にいってもらいたい」という。
刑事が一人ならたいしたことはないが、二人で来るときは事によると帰れないかもしれない、
以前に引っ張られた人の話をきいていた。
しかし実際に賄賂を使って市会議員を買収したわけでもなし、私は気持ちを楽にしていた。
そこでもう一度年を押した。
「何の用ですか。」
「いや、たいしたことないですから。」
「泊められるようなことがありますかね。」
「ないだろうと思うけれども、泊められるつもりで仕度をしてもらいたい。」
 
 
それで覚悟を決めた田口氏は、仕度を整え、食事を取り、
朝七時に刑事とともに警視庁へと入りました。
その日の取調べは穏やかでしたが、夜になると泊められることが分りました。
「用があるならまた来るから帰してもらえないか」
「バカなことをいうな!」
 
 
それから過酷な取調べがはじまることは春次氏の場合と同じです。
警視庁に入った容疑者には収容番号というのがつけられるのですが、
田口氏が頂戴したのが三百番というキリの良い数字。
ここでは一番、五十番、百番、二百番、三百番という分りやすい番号は
いずれもみな重要な嫌疑者につけられることになっていたそうです。
監視人も普通の容疑者には特別に気をつけませんが、
キリ番容疑者には監視が四六時中つくことになっていました。
重要容疑者田口氏の取調べは真夜中に行なわれました。
昼間は寝かせておいて、夜中にたっぷりと叩く。
 
 
世間では魚河岸の大物拘束が大々的に報じられ、
すわっ疑獄事件とばかり騒がれます。
魚河岸は悪の伏魔殿だ、との日頃からのイメージに火がつき、
とんでもない大事件として巷間をかけめぐるのでした。
 

2007年09月21日

築地魚河岸昔がたり(85) ふたたび疑獄事件に

不買争議終結後、魚市場会社への魚問屋会社の吸収合併は速やかに行なわれ、
昭和11年11月2日、合併契約が結ばれて魚問屋会社の業務が引き継がれます。
 
 
単一制による卸売会社創立に伴って、問屋、および問屋兼仲買は消滅し、
日本橋魚河岸以来続いてきた旧来の売買は完全に姿を変えました。
魚問屋は卸会社(俗に大卸ともいう)に収容され、仲買は専業となります。
仲買業者は魚類一般を扱う者1376人、川魚のみ扱う者33人が正式に許可されています。
また、長い歴史を持つ魚市場組合も昭和10年12月をもって解散することとなり、
同23日、歌舞伎座で盛大な解散式が挙行されました。
組合解散によって、仲買人は仲買組合と少数の若手による仲買人協会を組織しますが、
後に合同し、現在の東京魚市場卸協同組合(東卸組合)をつくります。
 
 
魚河岸は長い陣痛の末、世界最大級の中央卸売市場として
ようやく産声をあげようとしていました。
しかし、ここに再び問題が持ち上がります。
魚市場会社に警視庁の捜査のメスが入ったのでございます。
 
 
一般的に見ても、世間を騒がせた単複問題の決着には何か納得できないものがありました。
それは単一派である魚市場会社の考えが市場行政当局の思惑と一致していて、
あまりに事が強引に進められたので、
魚市場会社の関係者が裏で不正な行為をはたらいたのではないか、
という疑念が生まれてきたからです。
たとえば商工省から、府、市、という具合に次々に単一方針となったのも、
連中は関係官僚の説得工作に動いて、かなりの賄賂をしたのじゃないか、とか
市会での決戦投票で、わずか一票差で単一派が勝利を収めたときも、
複数派の欠席が多かったのはおかしい、何か仕組んだに違いない、
などと噂されていました。
 
 
世間で騒がれるより以前に、警視庁ではかなりの疑念を抱いておりましたが、
そこへ市場関係者からの投書が殺到し、電話によるタレこみも次々に舞い込みます。
これは投書好き、チクリ好きの市場人にはよくあることで、
オレは何だかおもしろくねえ、となれば、すぐにあらぬ噂も立てるわけです。
ムラ社会特有のレクリエーションみたいなものなのですが、
警察関係にシャレは通じません。
市場内で利権取引の密通が行なわれたと判断し、
疑獄事件への発展の可能性ありと捜査を開始します。
するといろいろと出てまいります。
田口氏らが要人を訪問した日時などもハイヤーの伝票などから分ります。
これは相当大がかりな贈収賄事件に違いない。
一途に思い込んだ警視庁は、捜査二課挙げて、大がかりな取調べを始めます。
 
 
昭和11年も押しせまった12月28日朝、
田口達三氏の片腕である伊藤春次氏は二人の刑事に連行されます。
同日、魚市場会社取締役会計部長の鈴木亀次郎氏も拘束。
警視庁はこの二人の自白を皮切りに、会社幹部を一網打尽にしょっ引くハラでした。
 
 
取調べ室で春次氏は、商工省商務局への工作に対する尋問を受けます。
昭和9年11月初めの日曜日、春次氏は商工省村瀬商務局長から遊びに来いと、
自宅に呼ばれ、組合常用のハイヤーで出かけたことがありました。
そこには商政課長はじめ、商工省の事務官らもいて、市場の単複論に花が咲きます。
 
 
「その夕刻にお前、うな丼をご馳走になったろう。」
「いえ、あれは……うな重だったと思います。」
「何ィ、それはなお怪しいじゃないか。」
 
 
この日、春次氏は明け方近くまで話し込みました。
商工省では魚市場の業務規定を許可しなければならない時期で、
このときの春次氏との話合いによって、村瀬局長は
「単一を旨とする」という通牒を出したといいます。
そのときに賄賂を渡していたのではないか、というのが警視庁の見方でした。
 
 
二人の対談中に複数派である魚問屋会社の者が、たまたま局長に陳情に来て、
「問屋会社の者ですが」と玄関で名乗ったところ、
取次ぎの家政婦さんが何を思ったか「トウフ屋」と聞き違えてしまいました。
「豆腐なら間に合っています」と玄関払いを喰わされたこの男、
そのとき中に春次氏がいた事を知って、いぶかしく思い、
警察に投書をしたのが嫌疑のもととなりました。
 

2007年09月19日

築地魚河岸昔がたり(84) 不買争議が終わって

世間を騒然とさせた魚河岸不買争議も集結しましたが、
終わってみると、この戦いによって誰が何を得たのか、
さっぱり分らないという曖昧な空気が残りました。
 
 
そもそも卸売人の単複問題に端を発した争議でありながら、
魚市場会社と魚問屋会社の合併問題はなおざりにされた感があります。
そして、商工省、東京府、市はこぞって権威の維持と面子にのみ固執し、
複数派であるはずの買出人側は、第一回争議での失敗を取り戻すことに
いつのまにか問題をすりかえてしまいました。
 
 
その結果、行政としては、当初の方針通りの単一卸売会社ということで、
よく分からないが権威は保った形になります
買出人側は、要求項目のうち限定的なセリ参加資格と奨励金を得て、
将来の利益を確保したかに見えますが、空手形かもしれないという不安定な状況。
最も甚大な被害を被ったのが魚問屋会社です。
五十日余にわたる不買運動参加で、業務停止の期間の給料、運動費の捻出に明け暮れて、
その損害はいまの金額でおよそ10億円にものぼるといいます。
矢尽き刀折れ、ボロボロになった魚問屋会社は、
業務停止解除の日をもって、魚市場会社の合併を余儀なくされました。
 
 
昭和十一年の不買争議は、魚河岸最大の騒動でありながら、
単複論まで含めて、その真の歴史的意味を言い当てる者はいないかもしれません。
おそらくその当事者によってすら、まったく違う問題として語り出すことでしょう。
芥川龍之介の「藪の中」にも似て、いくつもの事実が重なり合い、
その姿は曖昧模糊として、つかみどころがありません。
しかし、漠然としていながらも、それは中央市場の本質的な議論であって、
築地市場のスタートにあたり、ぜひ解決すべき問題でありました。
ところが卸会社は一社であるべきか、複数がいいのか、といった単純なことですら、
70年を経た今も、結論は出ないままにあります。
 
 
中央市場が誰のものか、何のためにあるのか、
その命題はついに決着を見ることもなく、
先送りされた宿題は、現代になって築地移転問題にまで波及しているように思えます。
しかし、そのようなスタートを余儀なくされた築地市場ですが、
それもまた時代の流れに翻弄されたことにはちがいありません。
戦争ファシズムの影は市場関係者たちの背中を突いていました。
最早誰も止めることのできない暗い時代に、市場もまた否応なく入っていきます。
 

2007年09月07日

参考文献

このブログに魚河岸の歴史続きものを載せてきて
ここまで参考文献を明らかにしていないことに気づきました。
 
 
あらためて、築地および日本橋魚河岸の歴史を綴った書籍をご紹介いたします。
興味ある方のご参考となればと思います。
  
 
☆『日本橋魚市場沿革紀要』川井新之助著 明治22年 日本橋魚会
 
 日本橋魚河岸の歴史研究の基礎史料。
 復刻版もでています。
 
 
☆『日本橋魚市場の歴史』岡本信男・木戸憲成著 昭和60年 水産社
 
 『日本橋魚市場沿革紀要』上を徹底的に読み解いて魚河岸の実像を明らかにしている、
 最も信頼のおける研究書です。
 
 
☆『魚河岸百年』魚河岸百年編纂委員会 昭和43年 日刊食料新聞社
 
 情緒豊かな文章で戦後までの魚河岸のできごとをダイナミックに描いた一冊。
 これを抜粋したものが『魚河岸の記』味道探求名著選集9 近藤正弥著 東京書房社 昭和53年
 
 
☆『東京都中央卸売市場史・上巻』昭和33年 東京都
 
 いわゆる公式歴史書。特に近代以降の文書、データ類が充実しています。
 
 
☆『日本橋魚市場』森火山画集 昭和53年 東京魚市場卸協同組合
 
 魚河岸草創期から築地移転までを描く画集。
 森画伯は大正期に政治漫画などで活躍し、晩年は郷土史に傾倒して魚河岸研究をすすめました。
 詩情豊かな画風は大変に魅力的であり、史料価値の高いものです。
 
 
☆『魚河岸盛衰記』田口達三著 昭和37年 いさな書房
☆『魚市場人 伊藤春次小伝』岡本信男著 昭和63年 いさな書房
☆『欧米魚市場覗記』小網源太郎著 大正14年 私家版
☆『塩澤達三伝』塩澤達三伝刊行会著 昭和37年 中小企業PRセンター
☆『さかな一代』安倍小治郎著 昭和44年 銀鱗会
☆『日本橋魚河岸物語』青蛙選書65 尾村幸三郎著 昭和59年 青蛙房
☆『鮪屋繁盛記』寶井善次郎著 平成3年 主婦の友社
 
 戦前・戦後、市場で活躍された人びとの自叙伝は、当時の生々しい事件を記すもの。
 特に築地市場完成前後の逸話は当事者のみが知るものでしょう。
 
 
ほかにも、さまざまな書籍に題材を求めましたが、
詳しくは こちら を参照してください。 

2007年09月03日

築地魚河岸昔がたり(83) 第二回不買争議(その七)

 
右翼の大物、梅津勘兵衛親分。
対するは魚河岸きっての理論派、伊藤春次氏。
不忍池畔の翠松園の一室で、卓をはさんで二人は対峙します。
 
 

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眼光鋭く睨みつける梅津親分。
隣の部屋には子分たち、さらに別の大広間には塩澤達三氏はじめ
買出人連合会の面々が成り行き如何、とばかり控えております。
ただならぬ雰囲気に、春次氏の背中を冷や汗がつたいました。
 
 
「どうだ」
やおら切り出したのは梅津親分。ドスの利いた声で言います。
「塩澤の方に歩戻しを出してやってくれんか」
 
 
青果では卸売人が買出人組合員に歩戻しを出しているので、
水産の方でもそれを行なうのは当然というふうに親分は理解していました。
しかし、この問題は第1回不買争議のときの焦点でありながら、
買出人側が要求を却下された形で終わったものです。
塩澤氏は今回の不買争議のもとになった卸売人の単複問題を
買出人の権利問題へとすり替え、前回争議の蒸し返しをはかったのです。
 
 
「私の考えを申し述べてよろしいでしょうか」
春次氏はひと呼吸おき、下っ腹に力を入れて言いました。
「卸売人は生産者から販売の委託を受けて仲買人に売るものなので、
買出人に歩戻しのようなものを出すのは筋が通りません」
 
 
これを聞いた梅津親分、うーんと唸ってしまいます。
「どうだい、田口にいま一度相談してくれんか」
「もちろんお話いたします。
ただし田口から、会ってきた君の考えは、と聞かれたときには、
私はただ今先生に申し上げた通りのことを答えます。それはご了承願います」
 
 
きっぱりと言うと、深く頭を下げました。
梅津親分は、さらにうーんと考え込んでいましたが、
ぽーんとひとつ膝を打つと
「ようし分った」
力のこもった一言ですべてけりがつきました。
春次氏の真摯な態度は侠客中の侠客の心に届いたのでしょう。
面子も何もすべて腹におさめて、大親分はこの件から一切手をひきます。
こうして伊藤春次氏は会談三十分で無事帰還の途につくことができました。
 
 
この会談の後、細部の調停は渡辺市議が行い、
最後は買出人の希望条件の一部を市が認めるということで、
十月十四日、四十三日に及ぶ不買争議は終幕を迎えました。
翌十五日、両国の福井楼で形ばかりの手打式が行なわれ、
築地市場は平常の営業に戻ります。