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2007年10月01日

築地魚河岸昔がたり(87) 何でもいいから白状しろ

「おい、おっさん、おっさん。アンタ何やったんだ?」
留置場のなかで、田口氏にささやく男があります。
刑務所とシャバを何度も出たり入ったりして主となっている男でした。
「これか?」と指を曲げます。スリで捕まったのか、という意味です。
「それとも忍びか、タタキかい?」
余計なことを話してはならないと、田口氏は無視しました。
四六時中、警官に見張られていたからです。
 
 
警察では事件の首謀者に違いない、と決めてかかっていたので、
何としても叩いて供述を取ろうというハラでした。
田口氏にしてみればまったくのとばっちりで、ひどい目に遭うことになったのですが、
なかなか貴重な体験だった、と後に自著『魚河岸盛衰記』で当時を克明に回想しています。
 
 
「一言いいさえすれば家に帰してやるんだ。
家では子どもたちが、お父さんが警察に挙げられたので、
きまりが悪くて学校にも行けないといって、大変なことになっているぞ。」
 
「何でもいいから一つでも白状しろ。こちらもお前を捕まえておいて、
新聞の三面記事に二段抜き、三段抜きで毎日出しているものを、
何もなかった、悪くなかったでは警視庁はどうなるんだ。
オレの落ち度になるじゃないか。」
 
そんなことを言ったって、あんた達が勝手に私を捕まえたのじゃないか。
話せと言われても、何もないものは話せはしない。
田口氏は頑として否定します。
 
 
「それじゃ、賄賂のことだけ認めろ。商工局長にお前が相当な金をやったことは確かだろ。
 商工省に五千円やったのも挙がっている。その顛末を言え」
「冗談じゃないですよ。あの潔白な商工局長が賄賂なんか受け取るものですか。
 以前にお世話になったときにブリ一本をお宅に届けたら、
 こんなもの貰うわけにいかない、と返して寄こしたほどの人ですよ。」
「ばか、ブリだから返したんだ。金は受け取ったろ。証拠は挙がってるんだからな」
「証拠が挙がってるといっても、私はやった覚えもなければ、するはずもない」
「とにかく何でもいいから、やったと言え。」
 
それでも白状しないとなると、拷問道具を見せて言います。
「貴様のようなやつは、ここに百日でも百五十日でも入れておいて、
 水がめに落っこちたご飯粒みたいに膨れあがらせてやる」
そうしてさんざんに脅かすのですが、実際には拷問などは行ないません。
 
 
あるときなどは、どうしても白状しないのなら、そこに座れ、と言います。
「こんなところには座れない」と答えると、
「座れねえ、とはどういうことだ。」
「座ったことがないから座れません。」
「ふざけるな、座ったことがない奴があるか。」
「呉服屋や足袋屋じゃありませんし、市場の者は座っている者は一人もいない。
 みんな立っている。少しくらいなら座れるが、長くは座れません。」
「それならずっと立っていろ。」と、何時間でも立たされる始末。
 
 
「何だよ、おっさんは大きな会社の社長だそうじゃないか。
何もオレに素性を隠すことはないだろう。」留置場の主がまた話しかけてきます。
二月七日の検束からひと月あまり。
来る日も来る日も、聴取に明け暮れているうちに、
監房内では他の収監者は出て行ってしまい、今や田口氏が一番の古顔になってしまいました。
 
 
そうして毎日、同じ担当官と顔を合わせていると、次第に打ち解けてきて、
田口さん、岡さんなどと、世間話のひとつも話すようになるから不思議なものです。
 
 
「ときに何だな。お前さんも強情だが、オレの方でもこれだけの事件に関与したのだから、
 一人はどうしても刑務所に送らなくちゃならない。どうだ、お前行ってくれるか?」
「馬鹿を言わないで下さいよ、岡さん。刑務所に行ったら長くなるというし、
 これで帰してくださいよ。」
「いや、そうはいかん。三人のうちで伊藤さんか、鈴木さんか、お前さんか、
 誰か一人を刑務所に送らなくちゃならないんだ。
 伊藤さんは奥さんが毎日やってきて心配するし、鈴木さんは家に子どもが多い。
 早い話が、お前さんは責任者だ。
お前さんだけ会社へ帰って、鈴木亀次郎や伊藤春次を刑務所へ送ったら気の毒だろう?」
「その通りですよ。だから誰もやらないでくれ。」
 
 
しかし、結局どうすることも出来ずに、三月十五日、田口氏は市ヶ谷の刑務所に送られます。
そうと確定すれば、ここまでの拘留日数が通算されます。
その晩のうちに市ヶ谷にいけば、一日助かる、ということになり、
警視庁を出た田口と刑事は急いで市ヶ谷刑務所に向かいます。
 
 
「これは間に合わないから円タクを奮発しよう。」
小雪まじりの真夜中の東京を二人を乗せたタクシーが飛ばします。
こんなふうに刑務所へタクシーで乗りつけた収監者は、後にも先にも田口氏一人だったでしょう。
 

2007年10月04日

築地魚河岸昔がたり(88) 刑務所の親分

 
「おい、魚河岸の社長は刑務所じゃあ大した顔だってなあ。こないだ佃繁親分がムショのなかでエライ世話になったそうだよ。」
拘留されてすでに百五十日を過ぎようという頃、
市場では田口氏が刑務所の大した顔役になっているという噂が立ちました。
何でも先代の佃政親分の跡を継いだ佃繁親分が、
ひょんなことから市ヶ谷刑務所へしばしのご奉公とあいなりましたときに、
「あの男はここに収容されたとはいえ、決して恐喝や乱暴行為をする男ではない。
 博打打ちだが人格者だ。ケチなことはしない立派な男だから、
 ここ(刑務所)では、なるべく楽な仕事に回してやってくれ」
と、所長に口添えしてくれた人物がいました。
それが何と魚河岸の社長ということで親分はびっくりします。
「繁、いま嘆願があったところだ、こちらの魚河岸の社長からな。」
すると佃繁親分、田口氏の方を向いて、
「親分、よろしくお願いします。」と礼を述べました。
 
 
関東屈指の大親分から親分呼ばわりされてしまった田口氏。
この話が市場に伝わると、またも大げさに騒ぎ立てます。
「会社の社長が刑務所の親分に収まっちまったんだから、
これからどんどん市場の人間がしょっぴかれるぞ。
会社合併にかかわった奴は、みんな刑務所行きだ。」
実際に中央市場の場長や監理課長はじめ東京府や商工省、銀行関係者までも
証人として呼び出されます。
しかし、疑獄問題にはなかなか発展せず、警察の思惑は大きくはずれてしまいます。
 
 
その頃、田口氏は所長室で差し入れの素麺をずるずるとやっていました。
「うまい。うまいな。この歳になるまでいろんなものを食ったが、
 こんなにうまいと思ったことはないよ」
刑務所に収容されたのが東京に初雪の舞った冬で、今はセミの鳴き始める盛夏ですから、
シャバとの長い別れは、所長のちょっとした心遣いにも身にしみる思いがしてきます。
 
 
「私はいつになったら出られるのでしょうかね。
 調べるなら調べるで、早くやって、そして出してもらいたい。」
 
 
当時は予審制度というものがあって、被告は弁護士も立てられず、期限も定められず、
判事の一方的な訊問によって進められました。
昭和12年の夏は、ちょうど衆議院選挙と市会議員選挙が重なって、選挙犯が次々に出て、
田口氏の予審訊問は遅れに遅れていたのです。
 
 
焦点であった商工省と市会への疑惑は完全にシロとなって判事は慌てました。
そこで別の問題で攻めていきます。
 
 
「会社の創立総会前に北門銀行から工面した預け合い勘定は明らかに商法違反である。
 お前は総会やりたさに商法も知らずにやったことであろうが、
 お前のところの本多弁護士が黙認したことは法律を職とする者が許されることではない。」
 お前さえ承知ならば本多氏をひっくくろう。」
 
 
いや、それは困る、と田口氏は首を振ります。
「本多弁護士には私が無理を言って頼んだんだし、
 それにどうせここまで来たんだから、私が背負えば問題はないことだ。」
 
 
これで有罪となるのですが、百五十日の拘留で商法違反ではお話にならない。
そこで判事が持ち出してきたのが次の問題です。
 
 
昭和11年4月18日、市場監理課長の桑原氏から田口氏に電話があり、
「これから市会議員17、8人を連れて、板船権問題の件で関西に調査旅行に行きたいが、
もう銀行も閉まっていて金がない。5,6百円貸してくれないか」と言われます。
そこで田口氏は足らないといけないということで千円貸してやりました。
今でいうと百万円くらいに相当する金額です。
旅行から帰った桑原氏は百円札十枚入った封筒を持って田口氏宅を訪れますが、
「別に今、急いで返してもらわなくても良いよ。
 要るときは言うからそのままで持っていてもいい。」
桑原氏はその金をカバンに入れて長い間もっていて、そこへ疑惑問題が勃発してしまいます。
結局これが贈収罪にあたりました。
 
 
魚河岸の疑獄事件発覚、その波紋は市会にまで広がるか、と新聞が書きたて、
世間を大いに騒がせたこの事件。
結局、田口達三氏が公正証書不実記載行使並びに贈収罪ということで罰金4百円、
市場監理課長桑原徹氏が、千円の追徴と懲役四ヶ月、執行猶予二年という判決で決着します。
まさに泰山鳴動鼠一匹というありさまで、長期拘留を受けた田口氏こそ大変な迷惑でした。
 
 
昭和12年7月7日盧溝橋事件が勃発、日本が戦争の泥沼へ深く足を突っ込んだその日に、
田口氏は市ヶ谷刑務所を出所します。
拘留期間に一本もタバコを吸わず、これを機に生涯やめようと思っていましたが、
迎えの車のなかで、息子さんが差し出したタバコをみると、
矢も盾もたまらずに立て続けに二本吸って、田口氏の禁煙は失敗に終わりました。
 

2007年10月23日

築地魚河岸昔がたり(89) つかのまの繁栄

十年余の長きにわたって続いた築地中央市場誕生をめぐる様々な問題も収まり、
いよいよ活発な取引が開始されるかという、その矢先の昭和12年7月、
盧溝橋事件にはじまる日華事変がおこります。
日中両国とも宣戦布告をして戦時国となるのは芳しくなかったので、
「事変」と呼称しましたが、これはどう見ても戦争でした。
戦線はまたたくまに拡大し、12年12月、日本軍は中国の首都南京を陥落、
戦勝ムードのなか、東京市では提灯行列が行われています。
13年1月、時の近衛内閣は蒋介石を相手にせず、という声明を出しており、
当時の日本政府は中国大陸での戦争不拡大の方針をとっていました。
しかし、日華事変はとどまることなく拡大してまいります。
 
 
それに伴って国の歳出はどんどん膨れ上がります。
昭和16年度の公債発行額は87億8千万円、これは歳入総額の58%を占めるものでした。
政府は日華事変直後の12年8月に「暴利行為等取締規則」を公布し、
米や貴金属などで暴利をむさぼることを取り締まる目的で低物価政策を打ち出します。
これを期に適用品目が拡大、戦時下の統制経済が本格化していくこととなります。
昭和16年3月、国家総動員法が成立し、同5月より施行、
いつでも戦争に踏み込める体制が整います。
 
 
社会情勢とともに魚市場も長い統制時代へと向かうのでございますが、
それでも、日華事変がはじまったばかりの頃は、市場に直接の影響は少ないものでした。
満を持して発足した魚市場会社は予想を大きく上回る売上実績をあげます。
昭和12年は日本が戦争の泥沼へと入り込んだ年ですが、
国民生活一般は先の昭和恐慌の傷跡も癒えて、比較的安定していた時期でもありました。
重化学工業を中心とした産業が急速に発展し、農村も生産力を回復、
いっぽう水産業は、サケマス漁業、冷凍マグロ缶詰などの輸出も好調、
この時点では経済効果が企業の成長を助長していました。
すったもんだのあげくに旗揚げした魚市場会社も、その恩恵に浴することができたのです。
むしろ、もう少し早い、中央市場の施設が完成した昭和8年前後に発足していたなら、
あるいは苦しいスタートとなったと見る向きもあります。
 
 
また、魚市場会社の出資者は仲買人であって、
株主といっても、もとは同じ魚市場組合の仲間です。
だから、自分たちの会社だという意識が強く、
出資したからといって、すぐに配当を要求することはしません。
これが会社の運営を非常にスムーズにいたします。
田口氏が商法違反に問われる借金をしてまでも、
外部からの出資を仰がなかったことが功を奏しました。
単一会社の発足から戦時統制経済へ移行するまでの、ほんの数年間が
魚市場がもっともうまくいっていた時期で、
昭和戦前の黄金時代ともいえる繁栄をつかのま謳歌いたします。
 
 
当時の資本漁業が一時的にうまくいっていたことも市場には追い風になりました。
漁獲量の急速な増加で魚価は安く、潤沢な入荷が続いていたのです。
その頃は、日魯が北洋さけ・ます漁業を掌握、日水はかに産業を推進、
後のマルハとなる林兼は、南氷洋捕鯨へと乗り出していきます。
戦前における水産業の絶頂期にあって、中央市場はよいお客であり、
単一卸売会社の存在は集荷の点で非常に有利にはたらくことになります。
 
 
昭和12年の売上高は5370万円にのぼり、以後、13年6676万円、
14年8544万円、15年には1億580万円の大台に乗りました。
物価の上昇以上に取扱高は増えていったのです。
それというのも、当時の軍事費が景気うまく刺激する程度に循環して、
いわゆる軍需景気が社会経済に好影響を与えていたからです。
 
 
しかし、昭和15年を境として様相は一変します。
軍事費の増大が戦時インフレを引き起こし、社会生活を圧迫するようになります。
日本の水産業はつかのまの繁栄ののち、漁船の徴用、乗組員の徴兵などによって、
一気に漁獲量は減少、衰微の道をたどることとなります。