築地魚河岸昔がたり(88) 刑務所の親分
「おい、魚河岸の社長は刑務所じゃあ大した顔だってなあ。こないだ佃繁親分がムショのなかでエライ世話になったそうだよ。」
拘留されてすでに百五十日を過ぎようという頃、
市場では田口氏が刑務所の大した顔役になっているという噂が立ちました。
何でも先代の佃政親分の跡を継いだ佃繁親分が、
ひょんなことから市ヶ谷刑務所へしばしのご奉公とあいなりましたときに、
「あの男はここに収容されたとはいえ、決して恐喝や乱暴行為をする男ではない。
博打打ちだが人格者だ。ケチなことはしない立派な男だから、
ここ(刑務所)では、なるべく楽な仕事に回してやってくれ」
と、所長に口添えしてくれた人物がいました。
それが何と魚河岸の社長ということで親分はびっくりします。
「繁、いま嘆願があったところだ、こちらの魚河岸の社長からな。」
すると佃繁親分、田口氏の方を向いて、
「親分、よろしくお願いします。」と礼を述べました。
関東屈指の大親分から親分呼ばわりされてしまった田口氏。
この話が市場に伝わると、またも大げさに騒ぎ立てます。
「会社の社長が刑務所の親分に収まっちまったんだから、
これからどんどん市場の人間がしょっぴかれるぞ。
会社合併にかかわった奴は、みんな刑務所行きだ。」
実際に中央市場の場長や監理課長はじめ東京府や商工省、銀行関係者までも
証人として呼び出されます。
しかし、疑獄問題にはなかなか発展せず、警察の思惑は大きくはずれてしまいます。
その頃、田口氏は所長室で差し入れの素麺をずるずるとやっていました。
「うまい。うまいな。この歳になるまでいろんなものを食ったが、
こんなにうまいと思ったことはないよ」
刑務所に収容されたのが東京に初雪の舞った冬で、今はセミの鳴き始める盛夏ですから、
シャバとの長い別れは、所長のちょっとした心遣いにも身にしみる思いがしてきます。
「私はいつになったら出られるのでしょうかね。
調べるなら調べるで、早くやって、そして出してもらいたい。」
当時は予審制度というものがあって、被告は弁護士も立てられず、期限も定められず、
判事の一方的な訊問によって進められました。
昭和12年の夏は、ちょうど衆議院選挙と市会議員選挙が重なって、選挙犯が次々に出て、
田口氏の予審訊問は遅れに遅れていたのです。
焦点であった商工省と市会への疑惑は完全にシロとなって判事は慌てました。
そこで別の問題で攻めていきます。
「会社の創立総会前に北門銀行から工面した預け合い勘定は明らかに商法違反である。
お前は総会やりたさに商法も知らずにやったことであろうが、
お前のところの本多弁護士が黙認したことは法律を職とする者が許されることではない。」
お前さえ承知ならば本多氏をひっくくろう。」
いや、それは困る、と田口氏は首を振ります。
「本多弁護士には私が無理を言って頼んだんだし、
それにどうせここまで来たんだから、私が背負えば問題はないことだ。」
これで有罪となるのですが、百五十日の拘留で商法違反ではお話にならない。
そこで判事が持ち出してきたのが次の問題です。
昭和11年4月18日、市場監理課長の桑原氏から田口氏に電話があり、
「これから市会議員17、8人を連れて、板船権問題の件で関西に調査旅行に行きたいが、
もう銀行も閉まっていて金がない。5,6百円貸してくれないか」と言われます。
そこで田口氏は足らないといけないということで千円貸してやりました。
今でいうと百万円くらいに相当する金額です。
旅行から帰った桑原氏は百円札十枚入った封筒を持って田口氏宅を訪れますが、
「別に今、急いで返してもらわなくても良いよ。
要るときは言うからそのままで持っていてもいい。」
桑原氏はその金をカバンに入れて長い間もっていて、そこへ疑惑問題が勃発してしまいます。
結局これが贈収罪にあたりました。
魚河岸の疑獄事件発覚、その波紋は市会にまで広がるか、と新聞が書きたて、
世間を大いに騒がせたこの事件。
結局、田口達三氏が公正証書不実記載行使並びに贈収罪ということで罰金4百円、
市場監理課長桑原徹氏が、千円の追徴と懲役四ヶ月、執行猶予二年という判決で決着します。
まさに泰山鳴動鼠一匹というありさまで、長期拘留を受けた田口氏こそ大変な迷惑でした。
昭和12年7月7日盧溝橋事件が勃発、日本が戦争の泥沼へ深く足を突っ込んだその日に、
田口氏は市ヶ谷刑務所を出所します。
拘留期間に一本もタバコを吸わず、これを機に生涯やめようと思っていましたが、
迎えの車のなかで、息子さんが差し出したタバコをみると、
矢も盾もたまらずに立て続けに二本吸って、田口氏の禁煙は失敗に終わりました。