築地魚河岸昔がたり(89) つかのまの繁栄
十年余の長きにわたって続いた築地中央市場誕生をめぐる様々な問題も収まり、
いよいよ活発な取引が開始されるかという、その矢先の昭和12年7月、
盧溝橋事件にはじまる日華事変がおこります。
日中両国とも宣戦布告をして戦時国となるのは芳しくなかったので、
「事変」と呼称しましたが、これはどう見ても戦争でした。
戦線はまたたくまに拡大し、12年12月、日本軍は中国の首都南京を陥落、
戦勝ムードのなか、東京市では提灯行列が行われています。
13年1月、時の近衛内閣は蒋介石を相手にせず、という声明を出しており、
当時の日本政府は中国大陸での戦争不拡大の方針をとっていました。
しかし、日華事変はとどまることなく拡大してまいります。
それに伴って国の歳出はどんどん膨れ上がります。
昭和16年度の公債発行額は87億8千万円、これは歳入総額の58%を占めるものでした。
政府は日華事変直後の12年8月に「暴利行為等取締規則」を公布し、
米や貴金属などで暴利をむさぼることを取り締まる目的で低物価政策を打ち出します。
これを期に適用品目が拡大、戦時下の統制経済が本格化していくこととなります。
昭和16年3月、国家総動員法が成立し、同5月より施行、
いつでも戦争に踏み込める体制が整います。
社会情勢とともに魚市場も長い統制時代へと向かうのでございますが、
それでも、日華事変がはじまったばかりの頃は、市場に直接の影響は少ないものでした。
満を持して発足した魚市場会社は予想を大きく上回る売上実績をあげます。
昭和12年は日本が戦争の泥沼へと入り込んだ年ですが、
国民生活一般は先の昭和恐慌の傷跡も癒えて、比較的安定していた時期でもありました。
重化学工業を中心とした産業が急速に発展し、農村も生産力を回復、
いっぽう水産業は、サケマス漁業、冷凍マグロ缶詰などの輸出も好調、
この時点では経済効果が企業の成長を助長していました。
すったもんだのあげくに旗揚げした魚市場会社も、その恩恵に浴することができたのです。
むしろ、もう少し早い、中央市場の施設が完成した昭和8年前後に発足していたなら、
あるいは苦しいスタートとなったと見る向きもあります。
また、魚市場会社の出資者は仲買人であって、
株主といっても、もとは同じ魚市場組合の仲間です。
だから、自分たちの会社だという意識が強く、
出資したからといって、すぐに配当を要求することはしません。
これが会社の運営を非常にスムーズにいたします。
田口氏が商法違反に問われる借金をしてまでも、
外部からの出資を仰がなかったことが功を奏しました。
単一会社の発足から戦時統制経済へ移行するまでの、ほんの数年間が
魚市場がもっともうまくいっていた時期で、
昭和戦前の黄金時代ともいえる繁栄をつかのま謳歌いたします。
当時の資本漁業が一時的にうまくいっていたことも市場には追い風になりました。
漁獲量の急速な増加で魚価は安く、潤沢な入荷が続いていたのです。
その頃は、日魯が北洋さけ・ます漁業を掌握、日水はかに産業を推進、
後のマルハとなる林兼は、南氷洋捕鯨へと乗り出していきます。
戦前における水産業の絶頂期にあって、中央市場はよいお客であり、
単一卸売会社の存在は集荷の点で非常に有利にはたらくことになります。
昭和12年の売上高は5370万円にのぼり、以後、13年6676万円、
14年8544万円、15年には1億580万円の大台に乗りました。
物価の上昇以上に取扱高は増えていったのです。
それというのも、当時の軍事費が景気うまく刺激する程度に循環して、
いわゆる軍需景気が社会経済に好影響を与えていたからです。
しかし、昭和15年を境として様相は一変します。
軍事費の増大が戦時インフレを引き起こし、社会生活を圧迫するようになります。
日本の水産業はつかのまの繁栄ののち、漁船の徴用、乗組員の徴兵などによって、
一気に漁獲量は減少、衰微の道をたどることとなります。