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2007年10月23日

築地魚河岸昔がたり(89) つかのまの繁栄

十年余の長きにわたって続いた築地中央市場誕生をめぐる様々な問題も収まり、
いよいよ活発な取引が開始されるかという、その矢先の昭和12年7月、
盧溝橋事件にはじまる日華事変がおこります。
日中両国とも宣戦布告をして戦時国となるのは芳しくなかったので、
「事変」と呼称しましたが、これはどう見ても戦争でした。
戦線はまたたくまに拡大し、12年12月、日本軍は中国の首都南京を陥落、
戦勝ムードのなか、東京市では提灯行列が行われています。
13年1月、時の近衛内閣は蒋介石を相手にせず、という声明を出しており、
当時の日本政府は中国大陸での戦争不拡大の方針をとっていました。
しかし、日華事変はとどまることなく拡大してまいります。
 
 
それに伴って国の歳出はどんどん膨れ上がります。
昭和16年度の公債発行額は87億8千万円、これは歳入総額の58%を占めるものでした。
政府は日華事変直後の12年8月に「暴利行為等取締規則」を公布し、
米や貴金属などで暴利をむさぼることを取り締まる目的で低物価政策を打ち出します。
これを期に適用品目が拡大、戦時下の統制経済が本格化していくこととなります。
昭和16年3月、国家総動員法が成立し、同5月より施行、
いつでも戦争に踏み込める体制が整います。
 
 
社会情勢とともに魚市場も長い統制時代へと向かうのでございますが、
それでも、日華事変がはじまったばかりの頃は、市場に直接の影響は少ないものでした。
満を持して発足した魚市場会社は予想を大きく上回る売上実績をあげます。
昭和12年は日本が戦争の泥沼へと入り込んだ年ですが、
国民生活一般は先の昭和恐慌の傷跡も癒えて、比較的安定していた時期でもありました。
重化学工業を中心とした産業が急速に発展し、農村も生産力を回復、
いっぽう水産業は、サケマス漁業、冷凍マグロ缶詰などの輸出も好調、
この時点では経済効果が企業の成長を助長していました。
すったもんだのあげくに旗揚げした魚市場会社も、その恩恵に浴することができたのです。
むしろ、もう少し早い、中央市場の施設が完成した昭和8年前後に発足していたなら、
あるいは苦しいスタートとなったと見る向きもあります。
 
 
また、魚市場会社の出資者は仲買人であって、
株主といっても、もとは同じ魚市場組合の仲間です。
だから、自分たちの会社だという意識が強く、
出資したからといって、すぐに配当を要求することはしません。
これが会社の運営を非常にスムーズにいたします。
田口氏が商法違反に問われる借金をしてまでも、
外部からの出資を仰がなかったことが功を奏しました。
単一会社の発足から戦時統制経済へ移行するまでの、ほんの数年間が
魚市場がもっともうまくいっていた時期で、
昭和戦前の黄金時代ともいえる繁栄をつかのま謳歌いたします。
 
 
当時の資本漁業が一時的にうまくいっていたことも市場には追い風になりました。
漁獲量の急速な増加で魚価は安く、潤沢な入荷が続いていたのです。
その頃は、日魯が北洋さけ・ます漁業を掌握、日水はかに産業を推進、
後のマルハとなる林兼は、南氷洋捕鯨へと乗り出していきます。
戦前における水産業の絶頂期にあって、中央市場はよいお客であり、
単一卸売会社の存在は集荷の点で非常に有利にはたらくことになります。
 
 
昭和12年の売上高は5370万円にのぼり、以後、13年6676万円、
14年8544万円、15年には1億580万円の大台に乗りました。
物価の上昇以上に取扱高は増えていったのです。
それというのも、当時の軍事費が景気うまく刺激する程度に循環して、
いわゆる軍需景気が社会経済に好影響を与えていたからです。
 
 
しかし、昭和15年を境として様相は一変します。
軍事費の増大が戦時インフレを引き起こし、社会生活を圧迫するようになります。
日本の水産業はつかのまの繁栄ののち、漁船の徴用、乗組員の徴兵などによって、
一気に漁獲量は減少、衰微の道をたどることとなります。
 

2007年10月04日

築地魚河岸昔がたり(88) 刑務所の親分

 
「おい、魚河岸の社長は刑務所じゃあ大した顔だってなあ。こないだ佃繁親分がムショのなかでエライ世話になったそうだよ。」
拘留されてすでに百五十日を過ぎようという頃、
市場では田口氏が刑務所の大した顔役になっているという噂が立ちました。
何でも先代の佃政親分の跡を継いだ佃繁親分が、
ひょんなことから市ヶ谷刑務所へしばしのご奉公とあいなりましたときに、
「あの男はここに収容されたとはいえ、決して恐喝や乱暴行為をする男ではない。
 博打打ちだが人格者だ。ケチなことはしない立派な男だから、
 ここ(刑務所)では、なるべく楽な仕事に回してやってくれ」
と、所長に口添えしてくれた人物がいました。
それが何と魚河岸の社長ということで親分はびっくりします。
「繁、いま嘆願があったところだ、こちらの魚河岸の社長からな。」
すると佃繁親分、田口氏の方を向いて、
「親分、よろしくお願いします。」と礼を述べました。
 
 
関東屈指の大親分から親分呼ばわりされてしまった田口氏。
この話が市場に伝わると、またも大げさに騒ぎ立てます。
「会社の社長が刑務所の親分に収まっちまったんだから、
これからどんどん市場の人間がしょっぴかれるぞ。
会社合併にかかわった奴は、みんな刑務所行きだ。」
実際に中央市場の場長や監理課長はじめ東京府や商工省、銀行関係者までも
証人として呼び出されます。
しかし、疑獄問題にはなかなか発展せず、警察の思惑は大きくはずれてしまいます。
 
 
その頃、田口氏は所長室で差し入れの素麺をずるずるとやっていました。
「うまい。うまいな。この歳になるまでいろんなものを食ったが、
 こんなにうまいと思ったことはないよ」
刑務所に収容されたのが東京に初雪の舞った冬で、今はセミの鳴き始める盛夏ですから、
シャバとの長い別れは、所長のちょっとした心遣いにも身にしみる思いがしてきます。
 
 
「私はいつになったら出られるのでしょうかね。
 調べるなら調べるで、早くやって、そして出してもらいたい。」
 
 
当時は予審制度というものがあって、被告は弁護士も立てられず、期限も定められず、
判事の一方的な訊問によって進められました。
昭和12年の夏は、ちょうど衆議院選挙と市会議員選挙が重なって、選挙犯が次々に出て、
田口氏の予審訊問は遅れに遅れていたのです。
 
 
焦点であった商工省と市会への疑惑は完全にシロとなって判事は慌てました。
そこで別の問題で攻めていきます。
 
 
「会社の創立総会前に北門銀行から工面した預け合い勘定は明らかに商法違反である。
 お前は総会やりたさに商法も知らずにやったことであろうが、
 お前のところの本多弁護士が黙認したことは法律を職とする者が許されることではない。」
 お前さえ承知ならば本多氏をひっくくろう。」
 
 
いや、それは困る、と田口氏は首を振ります。
「本多弁護士には私が無理を言って頼んだんだし、
 それにどうせここまで来たんだから、私が背負えば問題はないことだ。」
 
 
これで有罪となるのですが、百五十日の拘留で商法違反ではお話にならない。
そこで判事が持ち出してきたのが次の問題です。
 
 
昭和11年4月18日、市場監理課長の桑原氏から田口氏に電話があり、
「これから市会議員17、8人を連れて、板船権問題の件で関西に調査旅行に行きたいが、
もう銀行も閉まっていて金がない。5,6百円貸してくれないか」と言われます。
そこで田口氏は足らないといけないということで千円貸してやりました。
今でいうと百万円くらいに相当する金額です。
旅行から帰った桑原氏は百円札十枚入った封筒を持って田口氏宅を訪れますが、
「別に今、急いで返してもらわなくても良いよ。
 要るときは言うからそのままで持っていてもいい。」
桑原氏はその金をカバンに入れて長い間もっていて、そこへ疑惑問題が勃発してしまいます。
結局これが贈収罪にあたりました。
 
 
魚河岸の疑獄事件発覚、その波紋は市会にまで広がるか、と新聞が書きたて、
世間を大いに騒がせたこの事件。
結局、田口達三氏が公正証書不実記載行使並びに贈収罪ということで罰金4百円、
市場監理課長桑原徹氏が、千円の追徴と懲役四ヶ月、執行猶予二年という判決で決着します。
まさに泰山鳴動鼠一匹というありさまで、長期拘留を受けた田口氏こそ大変な迷惑でした。
 
 
昭和12年7月7日盧溝橋事件が勃発、日本が戦争の泥沼へ深く足を突っ込んだその日に、
田口氏は市ヶ谷刑務所を出所します。
拘留期間に一本もタバコを吸わず、これを機に生涯やめようと思っていましたが、
迎えの車のなかで、息子さんが差し出したタバコをみると、
矢も盾もたまらずに立て続けに二本吸って、田口氏の禁煙は失敗に終わりました。
 

2007年10月01日

築地魚河岸昔がたり(87) 何でもいいから白状しろ

「おい、おっさん、おっさん。アンタ何やったんだ?」
留置場のなかで、田口氏にささやく男があります。
刑務所とシャバを何度も出たり入ったりして主となっている男でした。
「これか?」と指を曲げます。スリで捕まったのか、という意味です。
「それとも忍びか、タタキかい?」
余計なことを話してはならないと、田口氏は無視しました。
四六時中、警官に見張られていたからです。
 
 
警察では事件の首謀者に違いない、と決めてかかっていたので、
何としても叩いて供述を取ろうというハラでした。
田口氏にしてみればまったくのとばっちりで、ひどい目に遭うことになったのですが、
なかなか貴重な体験だった、と後に自著『魚河岸盛衰記』で当時を克明に回想しています。
 
 
「一言いいさえすれば家に帰してやるんだ。
家では子どもたちが、お父さんが警察に挙げられたので、
きまりが悪くて学校にも行けないといって、大変なことになっているぞ。」
 
「何でもいいから一つでも白状しろ。こちらもお前を捕まえておいて、
新聞の三面記事に二段抜き、三段抜きで毎日出しているものを、
何もなかった、悪くなかったでは警視庁はどうなるんだ。
オレの落ち度になるじゃないか。」
 
そんなことを言ったって、あんた達が勝手に私を捕まえたのじゃないか。
話せと言われても、何もないものは話せはしない。
田口氏は頑として否定します。
 
 
「それじゃ、賄賂のことだけ認めろ。商工局長にお前が相当な金をやったことは確かだろ。
 商工省に五千円やったのも挙がっている。その顛末を言え」
「冗談じゃないですよ。あの潔白な商工局長が賄賂なんか受け取るものですか。
 以前にお世話になったときにブリ一本をお宅に届けたら、
 こんなもの貰うわけにいかない、と返して寄こしたほどの人ですよ。」
「ばか、ブリだから返したんだ。金は受け取ったろ。証拠は挙がってるんだからな」
「証拠が挙がってるといっても、私はやった覚えもなければ、するはずもない」
「とにかく何でもいいから、やったと言え。」
 
それでも白状しないとなると、拷問道具を見せて言います。
「貴様のようなやつは、ここに百日でも百五十日でも入れておいて、
 水がめに落っこちたご飯粒みたいに膨れあがらせてやる」
そうしてさんざんに脅かすのですが、実際には拷問などは行ないません。
 
 
あるときなどは、どうしても白状しないのなら、そこに座れ、と言います。
「こんなところには座れない」と答えると、
「座れねえ、とはどういうことだ。」
「座ったことがないから座れません。」
「ふざけるな、座ったことがない奴があるか。」
「呉服屋や足袋屋じゃありませんし、市場の者は座っている者は一人もいない。
 みんな立っている。少しくらいなら座れるが、長くは座れません。」
「それならずっと立っていろ。」と、何時間でも立たされる始末。
 
 
「何だよ、おっさんは大きな会社の社長だそうじゃないか。
何もオレに素性を隠すことはないだろう。」留置場の主がまた話しかけてきます。
二月七日の検束からひと月あまり。
来る日も来る日も、聴取に明け暮れているうちに、
監房内では他の収監者は出て行ってしまい、今や田口氏が一番の古顔になってしまいました。
 
 
そうして毎日、同じ担当官と顔を合わせていると、次第に打ち解けてきて、
田口さん、岡さんなどと、世間話のひとつも話すようになるから不思議なものです。
 
 
「ときに何だな。お前さんも強情だが、オレの方でもこれだけの事件に関与したのだから、
 一人はどうしても刑務所に送らなくちゃならない。どうだ、お前行ってくれるか?」
「馬鹿を言わないで下さいよ、岡さん。刑務所に行ったら長くなるというし、
 これで帰してくださいよ。」
「いや、そうはいかん。三人のうちで伊藤さんか、鈴木さんか、お前さんか、
 誰か一人を刑務所に送らなくちゃならないんだ。
 伊藤さんは奥さんが毎日やってきて心配するし、鈴木さんは家に子どもが多い。
 早い話が、お前さんは責任者だ。
お前さんだけ会社へ帰って、鈴木亀次郎や伊藤春次を刑務所へ送ったら気の毒だろう?」
「その通りですよ。だから誰もやらないでくれ。」
 
 
しかし、結局どうすることも出来ずに、三月十五日、田口氏は市ヶ谷の刑務所に送られます。
そうと確定すれば、ここまでの拘留日数が通算されます。
その晩のうちに市ヶ谷にいけば、一日助かる、ということになり、
警視庁を出た田口と刑事は急いで市ヶ谷刑務所に向かいます。
 
 
「これは間に合わないから円タクを奮発しよう。」
小雪まじりの真夜中の東京を二人を乗せたタクシーが飛ばします。
こんなふうに刑務所へタクシーで乗りつけた収監者は、後にも先にも田口氏一人だったでしょう。
 

2007年09月26日

築地魚河岸昔がたり(86) 検束される市場関係者

留置場はしらみや南京虫のたかる陰々滅々たるところで、
嫌疑者は早く出たくて、つい自白をしてしまうといいます。
春次氏は訊問を受けては、一週間程この不潔な場所に留められるということを
くりかえされました。
 
 
「相当な金を持っていったな。調べはついている。白状せんとためにならんぞ」
「何も持っていってません」
「バカヤロウ! 今時、女学校の入学を頼んでも10円の商品券が当たり前だ。
 これほどのことを頼むのに手ぶらで行くわけはないだろう!
 いったいいくら持っていったんだ!!」
訊問の刑事は凄みをきかせて怒鳴りつけます。
気の弱い者なら、すくみ上がってしまうのですが、春次氏は淡々と答えました。
「村瀬局長は中央大学の商法の先生です。人格者で、もしも金を出しても受け取りません。
 辻さんも松田さんも大金持ちの御曹司。金なんかつっ返されますよ。」
「どうしても言わないのだな。ようし、また油を抜いてこい!」
それでまた留置場へと逆戻り。
 
 
毎日のように奥さんが差し入れにまいりますが、面会はさせてもらえません。
逆に「お前の亭主は大罪人だ」などと蔑んだ目つきをされたといいます。
警察に捕まるなどということは世間的には大変に不名誉なことでありました。
しかし、留置場生活が長くなりますと、その世界では次第に地位が向上していきます。
周囲のスリや泥棒、ばくち打ちたちから「旦那」といわれるようになります。
「何だか知らないが、旦那は偉い、立派だ。何されても自白しねえんだからな」
混房内での席も良くなり、食事のときの味噌汁もたっぷり実のあるものにありつけます。
そうして、いつのまにか春次氏は留置場の親分格に祭り上げられる始末。
 
 
そうしたある日、ふたたび訊問に呼び出されます。
「魚問屋会社の合併問題や営業停止のことを一番知っていたのは誰なんだ」
そうきかれて春次氏は正直に答えました。
「それは府知事の横山……」
そのとたん、取調べの刑事はびっくりして「ばかっ!」と叫んで火鉢を蹴り上げました。
春次氏は知らないことだったのですが、以前に田口氏とともに会社合併を主張した相手の
当時、府知事であった横山氏は、実はこのとき偶然にも警視総監になっていて、
今回の疑獄事件の取調べでは総司令だったのでございます。
春次氏のなにげない一言が、警視庁では大変な問題となり、
これはどうも釈放した方が良さそうだという結論に達しまして、
伊藤春次氏は四十八日ぶりに拘束を解かれ、家へ帰れることになりました。
 
 
「やれやれ、えらい目にあった。」
実に不愉快な日々を送り、ようやく家でくつろげる喜びにひたろうというとき、
春次氏は驚愕の事実を知らされます。
「えっ、田口さんが引っ張られた!?」
 
 
春次氏が釈放される九日前の昭和十二年二月七日朝、
田口達三氏の築地の自宅に二人の刑事が連行されました。
そのときの様子を田口氏は自伝『魚河岸盛衰記』の中で語っています。
 
 
見かけはやさしそうな人で、「何ですか」と尋ねると「一緒にいってもらいたい」という。
刑事が一人ならたいしたことはないが、二人で来るときは事によると帰れないかもしれない、
以前に引っ張られた人の話をきいていた。
しかし実際に賄賂を使って市会議員を買収したわけでもなし、私は気持ちを楽にしていた。
そこでもう一度年を押した。
「何の用ですか。」
「いや、たいしたことないですから。」
「泊められるようなことがありますかね。」
「ないだろうと思うけれども、泊められるつもりで仕度をしてもらいたい。」
 
 
それで覚悟を決めた田口氏は、仕度を整え、食事を取り、
朝七時に刑事とともに警視庁へと入りました。
その日の取調べは穏やかでしたが、夜になると泊められることが分りました。
「用があるならまた来るから帰してもらえないか」
「バカなことをいうな!」
 
 
それから過酷な取調べがはじまることは春次氏の場合と同じです。
警視庁に入った容疑者には収容番号というのがつけられるのですが、
田口氏が頂戴したのが三百番というキリの良い数字。
ここでは一番、五十番、百番、二百番、三百番という分りやすい番号は
いずれもみな重要な嫌疑者につけられることになっていたそうです。
監視人も普通の容疑者には特別に気をつけませんが、
キリ番容疑者には監視が四六時中つくことになっていました。
重要容疑者田口氏の取調べは真夜中に行なわれました。
昼間は寝かせておいて、夜中にたっぷりと叩く。
 
 
世間では魚河岸の大物拘束が大々的に報じられ、
すわっ疑獄事件とばかり騒がれます。
魚河岸は悪の伏魔殿だ、との日頃からのイメージに火がつき、
とんでもない大事件として巷間をかけめぐるのでした。
 

2007年09月21日

築地魚河岸昔がたり(85) ふたたび疑獄事件に

不買争議終結後、魚市場会社への魚問屋会社の吸収合併は速やかに行なわれ、
昭和11年11月2日、合併契約が結ばれて魚問屋会社の業務が引き継がれます。
 
 
単一制による卸売会社創立に伴って、問屋、および問屋兼仲買は消滅し、
日本橋魚河岸以来続いてきた旧来の売買は完全に姿を変えました。
魚問屋は卸会社(俗に大卸ともいう)に収容され、仲買は専業となります。
仲買業者は魚類一般を扱う者1376人、川魚のみ扱う者33人が正式に許可されています。
また、長い歴史を持つ魚市場組合も昭和10年12月をもって解散することとなり、
同23日、歌舞伎座で盛大な解散式が挙行されました。
組合解散によって、仲買人は仲買組合と少数の若手による仲買人協会を組織しますが、
後に合同し、現在の東京魚市場卸協同組合(東卸組合)をつくります。
 
 
魚河岸は長い陣痛の末、世界最大級の中央卸売市場として
ようやく産声をあげようとしていました。
しかし、ここに再び問題が持ち上がります。
魚市場会社に警視庁の捜査のメスが入ったのでございます。
 
 
一般的に見ても、世間を騒がせた単複問題の決着には何か納得できないものがありました。
それは単一派である魚市場会社の考えが市場行政当局の思惑と一致していて、
あまりに事が強引に進められたので、
魚市場会社の関係者が裏で不正な行為をはたらいたのではないか、
という疑念が生まれてきたからです。
たとえば商工省から、府、市、という具合に次々に単一方針となったのも、
連中は関係官僚の説得工作に動いて、かなりの賄賂をしたのじゃないか、とか
市会での決戦投票で、わずか一票差で単一派が勝利を収めたときも、
複数派の欠席が多かったのはおかしい、何か仕組んだに違いない、
などと噂されていました。
 
 
世間で騒がれるより以前に、警視庁ではかなりの疑念を抱いておりましたが、
そこへ市場関係者からの投書が殺到し、電話によるタレこみも次々に舞い込みます。
これは投書好き、チクリ好きの市場人にはよくあることで、
オレは何だかおもしろくねえ、となれば、すぐにあらぬ噂も立てるわけです。
ムラ社会特有のレクリエーションみたいなものなのですが、
警察関係にシャレは通じません。
市場内で利権取引の密通が行なわれたと判断し、
疑獄事件への発展の可能性ありと捜査を開始します。
するといろいろと出てまいります。
田口氏らが要人を訪問した日時などもハイヤーの伝票などから分ります。
これは相当大がかりな贈収賄事件に違いない。
一途に思い込んだ警視庁は、捜査二課挙げて、大がかりな取調べを始めます。
 
 
昭和11年も押しせまった12月28日朝、
田口達三氏の片腕である伊藤春次氏は二人の刑事に連行されます。
同日、魚市場会社取締役会計部長の鈴木亀次郎氏も拘束。
警視庁はこの二人の自白を皮切りに、会社幹部を一網打尽にしょっ引くハラでした。
 
 
取調べ室で春次氏は、商工省商務局への工作に対する尋問を受けます。
昭和9年11月初めの日曜日、春次氏は商工省村瀬商務局長から遊びに来いと、
自宅に呼ばれ、組合常用のハイヤーで出かけたことがありました。
そこには商政課長はじめ、商工省の事務官らもいて、市場の単複論に花が咲きます。
 
 
「その夕刻にお前、うな丼をご馳走になったろう。」
「いえ、あれは……うな重だったと思います。」
「何ィ、それはなお怪しいじゃないか。」
 
 
この日、春次氏は明け方近くまで話し込みました。
商工省では魚市場の業務規定を許可しなければならない時期で、
このときの春次氏との話合いによって、村瀬局長は
「単一を旨とする」という通牒を出したといいます。
そのときに賄賂を渡していたのではないか、というのが警視庁の見方でした。
 
 
二人の対談中に複数派である魚問屋会社の者が、たまたま局長に陳情に来て、
「問屋会社の者ですが」と玄関で名乗ったところ、
取次ぎの家政婦さんが何を思ったか「トウフ屋」と聞き違えてしまいました。
「豆腐なら間に合っています」と玄関払いを喰わされたこの男、
そのとき中に春次氏がいた事を知って、いぶかしく思い、
警察に投書をしたのが嫌疑のもととなりました。
 

2007年09月19日

築地魚河岸昔がたり(84) 不買争議が終わって

世間を騒然とさせた魚河岸不買争議も集結しましたが、
終わってみると、この戦いによって誰が何を得たのか、
さっぱり分らないという曖昧な空気が残りました。
 
 
そもそも卸売人の単複問題に端を発した争議でありながら、
魚市場会社と魚問屋会社の合併問題はなおざりにされた感があります。
そして、商工省、東京府、市はこぞって権威の維持と面子にのみ固執し、
複数派であるはずの買出人側は、第一回争議での失敗を取り戻すことに
いつのまにか問題をすりかえてしまいました。
 
 
その結果、行政としては、当初の方針通りの単一卸売会社ということで、
よく分からないが権威は保った形になります
買出人側は、要求項目のうち限定的なセリ参加資格と奨励金を得て、
将来の利益を確保したかに見えますが、空手形かもしれないという不安定な状況。
最も甚大な被害を被ったのが魚問屋会社です。
五十日余にわたる不買運動参加で、業務停止の期間の給料、運動費の捻出に明け暮れて、
その損害はいまの金額でおよそ10億円にものぼるといいます。
矢尽き刀折れ、ボロボロになった魚問屋会社は、
業務停止解除の日をもって、魚市場会社の合併を余儀なくされました。
 
 
昭和十一年の不買争議は、魚河岸最大の騒動でありながら、
単複論まで含めて、その真の歴史的意味を言い当てる者はいないかもしれません。
おそらくその当事者によってすら、まったく違う問題として語り出すことでしょう。
芥川龍之介の「藪の中」にも似て、いくつもの事実が重なり合い、
その姿は曖昧模糊として、つかみどころがありません。
しかし、漠然としていながらも、それは中央市場の本質的な議論であって、
築地市場のスタートにあたり、ぜひ解決すべき問題でありました。
ところが卸会社は一社であるべきか、複数がいいのか、といった単純なことですら、
70年を経た今も、結論は出ないままにあります。
 
 
中央市場が誰のものか、何のためにあるのか、
その命題はついに決着を見ることもなく、
先送りされた宿題は、現代になって築地移転問題にまで波及しているように思えます。
しかし、そのようなスタートを余儀なくされた築地市場ですが、
それもまた時代の流れに翻弄されたことにはちがいありません。
戦争ファシズムの影は市場関係者たちの背中を突いていました。
最早誰も止めることのできない暗い時代に、市場もまた否応なく入っていきます。
 

2007年09月07日

参考文献

このブログに魚河岸の歴史続きものを載せてきて
ここまで参考文献を明らかにしていないことに気づきました。
 
 
あらためて、築地および日本橋魚河岸の歴史を綴った書籍をご紹介いたします。
興味ある方のご参考となればと思います。
  
 
☆『日本橋魚市場沿革紀要』川井新之助著 明治22年 日本橋魚会
 
 日本橋魚河岸の歴史研究の基礎史料。
 復刻版もでています。
 
 
☆『日本橋魚市場の歴史』岡本信男・木戸憲成著 昭和60年 水産社
 
 『日本橋魚市場沿革紀要』上を徹底的に読み解いて魚河岸の実像を明らかにしている、
 最も信頼のおける研究書です。
 
 
☆『魚河岸百年』魚河岸百年編纂委員会 昭和43年 日刊食料新聞社
 
 情緒豊かな文章で戦後までの魚河岸のできごとをダイナミックに描いた一冊。
 これを抜粋したものが『魚河岸の記』味道探求名著選集9 近藤正弥著 東京書房社 昭和53年
 
 
☆『東京都中央卸売市場史・上巻』昭和33年 東京都
 
 いわゆる公式歴史書。特に近代以降の文書、データ類が充実しています。
 
 
☆『日本橋魚市場』森火山画集 昭和53年 東京魚市場卸協同組合
 
 魚河岸草創期から築地移転までを描く画集。
 森画伯は大正期に政治漫画などで活躍し、晩年は郷土史に傾倒して魚河岸研究をすすめました。
 詩情豊かな画風は大変に魅力的であり、史料価値の高いものです。
 
 
☆『魚河岸盛衰記』田口達三著 昭和37年 いさな書房
☆『魚市場人 伊藤春次小伝』岡本信男著 昭和63年 いさな書房
☆『欧米魚市場覗記』小網源太郎著 大正14年 私家版
☆『塩澤達三伝』塩澤達三伝刊行会著 昭和37年 中小企業PRセンター
☆『さかな一代』安倍小治郎著 昭和44年 銀鱗会
☆『日本橋魚河岸物語』青蛙選書65 尾村幸三郎著 昭和59年 青蛙房
☆『鮪屋繁盛記』寶井善次郎著 平成3年 主婦の友社
 
 戦前・戦後、市場で活躍された人びとの自叙伝は、当時の生々しい事件を記すもの。
 特に築地市場完成前後の逸話は当事者のみが知るものでしょう。
 
 
ほかにも、さまざまな書籍に題材を求めましたが、
詳しくは こちら を参照してください。 

2007年09月03日

築地魚河岸昔がたり(83) 第二回不買争議(その七)

 
右翼の大物、梅津勘兵衛親分。
対するは魚河岸きっての理論派、伊藤春次氏。
不忍池畔の翠松園の一室で、卓をはさんで二人は対峙します。
 
 

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2007年08月24日

築地魚河岸昔がたり(82) 第二回不買争議(その六)

sanrin.jpg
 
ところ変わって、こちらは浜町の待合でございます。
魚市場会社の幹部たちがここをアジトにしておりました。
単一派の首魁、田口達三理事長は一ヶ月を経ても進展しない争議の行方を
少々の苛立ちと共に見守っておりました。
もちろん黙って指をくわえていたわけではございません。
消費者への直売を行い断固たる態度で臨んでおります。
何となれば、田口氏の頭には一本通った市場流通の理念がございました。
 
 

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2007年08月21日

築地魚河岸昔がたり(81) 第二回不買争議(その五)

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       まるで戒厳令下のような築地市場
 
 
KYというのが流行っていまして、「空気読めない」人の略だそうですが、
それじゃ「空気読める人」のことは何て言うんですかね。
それはともかく、今から70年前に世間を揺るがせた築地市場の不買争議、
単一派と複数派の対立は、国家権力の介入と世論の高まりにあおられ、
一気に燃え上がっておりました。
その最中、多くの人びとはKY(読めない方)でした。
しかし、少なくともこの不買争議の仕掛人、買出人連盟の塩澤達三氏は
KY(読める方)だったのではないでしょうか。


このまま徒らに不買を続けていても結局は権力にやられてしまうのだ。
だが、この争議の目的は単複問題にあらず、真の狙いは……
塩澤氏はいよいよターゲットを絞っていました。
市場問題には誰よりもKY(読める方)なかれの目は、
KY(読めない方)な人とは別のものを見ていたのです。
でも、それもやっぱり全体の流れからは逸脱しているわけで、
KY(読める方)すぎてかえってKY(読めない方)ということだってあるわけです。
 

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2007年08月06日

築地魚河岸昔がたり(80) 第二回不買争議(その四)

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不買争議ついに勃発。


一斉にあがった不買の火の手は東京全市を渦中に巻き込みつつ拡がりを見せます。
その最中の九月十二日、塩澤達三氏率いる買出人連盟は婦人団体との共催により
神宮外苑の日本青年会館で「東京魚市場不買市民大会」を開催、
「当局は東京魚問屋会社を弾圧して魚類部の販売権を一営利会社に独占させるのは、
 消費大衆の福利を蹂躙するものである!
 速やかに魚問屋会社への業務停止を解除し、卸売人の複数制を確立せよ!!」
と大いに気勢を上げます。
 

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2007年08月01日

築地魚河岸昔がたり(79) 第二回不買争議(その三)

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約束の期限を過ぎても合併に応じない魚問屋会社の態度に業を煮やした市当局は、
遂に同社に対して業務停止命令を下します。
もっとも約束の期限といっても商工省が勝手に決めたものであり、
結局、期間限定の複数会社容認というその場しのぎの方策をするなら、
はじめから魚問屋会社の創立を認めなければよかったわけです。
複数派としては、あまりにも理不尽なやり方と感じるのも当然なわけで、
その上、業務停止などあり得ないっしょ、と考えていたものですから、
市当局の強行策は魚問屋会社はじめ複数派の人びとにはまさに青天の霹靂でございました。
 

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2007年07月03日

築地魚河岸昔がたり(78) 第二回不買争議(その二)

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               困っている
 
 
魚市場会社と魚問屋会社の合併問題のこじれは、
業者間で辛抱強く解決すべきことではありましたが、
時代はそれを悠長に放っておいてはくれませんでした。
単一合併がこのまま進まないのであれば、
市場の監督統制を乱し、業務の円滑な遂行に支障をきたす、として
東京府、東京市、商工省は強行手段に出ます。
 

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2007年06月27日

築地魚河岸昔がたり(77) 第二回不買争議(その一)

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すぐに単一合併することを前提として創立した二つの卸売会社。
卸の単一制を唱える魚市場会社は資本金の上では日本で十四番目という大会社。
一方、魚問屋会社は、単一に反対し複数論を唱えて袂を別った組合員で結成されました。
これを無理に合併させようとしても、うまくいく道理がありません。
しかし、ファッショへと向かう時代の流れは、
市場業者間の自然解決を待つ時間的な余裕を与えはしませんでした。
単一企業による独占集中を促進させることで、
国家が市場を監督統制しょうという狙いがそこにはあったからでございます。


背後には戦時国家の影が見え隠れしていましたが、
表面的には魚市場会社と魚問屋会社との小競り合いは感情的なものでした。
 

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2007年06月25日

築地魚河岸昔がたり(76) 魚河岸のM&A

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田口氏の必死の金策によって、
東京魚市場会社は昭和十年六月二十五日に創立総会を無事に終えることができました。
実際の営業は翌年一月からとなりますが、
名目上は魚河岸の問屋合同による卸売会社の誕生とあいなったわけでございます。
 
 
一方、東京魚市場会社の発足と相前後するように、
田口氏らの単一制反対を唱えて袂を別った組合員合同によって組織された
東京魚問屋会社も発足しております。
当時の中央卸売市場の趨勢として、卸売人単一の動きが進むなかで、
築地市場では、近い将来の合併を条件として、
ふたつの鮮魚卸売会社ができることとなりました。
つまり、魚市場会社と魚問屋会社との合併問題が、
長らく続いた中央卸売市場の単複問題の最後のヤマ場となりました。
 

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2007年06月01日

築地魚河岸昔がたり(75) 薄氷を踏む思いで

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「まあ、私は相変わらず金は出さんのだがね。
 北拓ってあるじゃん、北海道拓殖銀行……けっこう大銀行だよ。
 いや、決して破綻なんてしないから心配はいらないよ。
 そこの親爺に話を通しておいたから行ったらいいよ。
 いやいや、大丈夫、大丈夫」
 
 
「本当かなあ……」
早川氏の言うとおりなら、願ってもない話です。
しかし、北拓銀行といえば札幌に本社を持つ銀行。
東京支社に話を持ちかけて、大金を融通してくれるものかどうか不安でしたが、
何しろ時間がない。
まあ当たって砕けろとばかりに、出かけていってそこの支店長をたずねると、
かれの言うには……
 

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2007年05月28日

築地魚河岸昔がたり(74) 日本で14番目の大会社

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    築地市場開場を伝える新聞記事
 
魚河岸の問屋が集まって卸売会社をつくる。
ひと口に言えば簡単そうですが、昭和十一年当時、
資本金二千七百五十万円の会社といえば、日本で十七番目の会社だったといいます。
もっとも大半が現物出資なので額面通りとはまいりませんが、
それでも現金出資が五百五十万円といえば大したものでした。
その頃、都市銀行の資本金が大体五百万円くらいだったそうです。
それまで法人組織などには無関係だった魚屋連中が、
いきなり日本を代表する大企業になったのですから大変なことでございます。
 

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2007年05月16日

築地魚河岸昔がたり(73) 払込金をめぐって

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           当時の新聞記事
 
 
査定委員会の決定した各店舗の問屋営業権の査定額は、
一切口外しないということになっておりました。
もしも不服があっても再査定は一切しないということになっておりましたし、
そうしなければ、いつまでもゴタゴタが収まらなかったからです。
そこで業者一人ひとりに査定額を免状のように手渡しました。
 
 
ところが、一日もするとそれぞれの査定額は市場の誰もが知るところとなり、
自分の店と他人の店を比較して、あそこは年期が浅いとか売上高が少ないとか、
オレよりもアイツの方が多いのはどういうわけだ、と大変な騒ぎになります。
自分の店の額に不満をもらすのではなく、「アイツのところは多すぎるんじゃねえか」と
他人のことばかり文句をいうのは、閉鎖社会魚河岸らしい言い回しでしょう。
 

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2007年05月08日

築地魚河岸昔がたり(72)  魚問屋の査定でもめる

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箱根での老舗料査定委員会の面々。前列中央が田口委員長
 
 
田口氏らに単一派によって組織された東京魚市場株式会社は、
そこに収容する千百件からの業者への補償金である老舗料を二千万円と決めます。
しかし、そのうち現金出資をいくらにするか、また配分をどうするかは大きな悩みでした。
何しろ各問屋の実態を調査しなければならないために、それは大変な作業です。
 

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2007年04月24日

築地魚河岸昔がたり(71)  魚市場会社創立へ

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    昭和12年、鮪仲買団体大物組(現大物業会)組旗入魂式
 
  
田口達三氏の強硬な単一制主張を嫌った少数派の問屋連中が
卸売人の複数制を唱えて東京魚問屋株式会社の設立の動きを見せたことによって、
単複論争はさらに激化の一途をたどることとなります。
昭和九年十一月、再び魚市場組合長に返り咲いた田口達三氏は、
魚市場組合の新役員が決まると、会社設立を急ぎます。
しかし、所詮は魚問屋の集まりですから、
経験のない現場上がりが大魚河岸会社を設立しようなどは並大抵ではありません。
 

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2007年04月20日

築地魚河岸昔がたり(70)  問屋と仲買が分かれる

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            あゝ、できた、できた
 
昭和十年二月十一日、東京市中央卸売市場築地本場が正式に業務を開始。
この日をもって魚河岸は終わり、築地本場魚類部として再スタートいたします。
 
 

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2007年04月17日

築地魚河岸昔がたり(69)  魚河岸が真っ二つに

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        昭和初期のウォータフロント計画を伝える新聞記事
 
 
市場施設が完成に近づくにつれて、旧日本橋魚河岸の問屋で組織された
魚市場組合内部に分裂のきざしが出てまいります。
 

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2007年04月13日

築地魚河岸昔がたり(68)  築地市場建設の経緯

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          昭和七年建設中の築地市場
 
関東大震災によって魚河岸が築地へ移転しますが、
そこにつくられたのは急造バラックの仮店舗でございました。
名称も「東京市魚市場」といいまして、あくまでも仮設市場。
営業形態も旧来の日本橋魚河岸の商売を踏襲しました。
 

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2007年04月10日

築地魚河岸昔がたり(67)  築地市場の沿革(その三)

明暦の大火(1657)によって焼失した本願寺が、浅草横山町から現在の築地へ
移転してきたとき、その建立をおこなったのは佃の漁師たちでした。
 

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2007年04月05日

築地魚河岸昔がたり(66)  築地市場の沿革(その二)

 
海軍施設のおとなりに鎮座ましましていたのが波除神社でございます。
 

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2007年04月04日

築地魚河岸昔がたり(65)  築地市場の沿革(その一)

中央卸売市場築地本場は紆余曲折を経て、昭和八年十二月に竣工いたします。
ここで築地市場の敷地である築地一帯の歴史的な移り変わりを簡単に見てみましょう。
 

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2007年04月02日

築地魚河岸昔がたり(64) 卸売人の単複問題(二)

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 昭和8年築地市場 営業はバラック建て、後ろの建物は空家
 
卸売人を単一にするか複数にするかが問題となるのは、
中央卸売市場の開設によって、問屋の業務形態が市場法で制限されるからです。
民間の自由市場であれば、一つの問屋を中心とする小規模市場なら単一であるし、
複数問屋の集合市場なら自然に複数となるという具合に、
それぞれの地区ごとの経済的事情によって形態はさまざまであるはずです。
ところがこれを法で制限し、中央卸売市場という形に集中統合しようとすれば、
市場や卸売人の数というのが問題となってまいりまして、
一地区一市場一卸売人という構想のもとに単一論が生まれました。
つまり、本来、単一か複数かは、その地区の実態に合わせるべきところを
市場法で単一制に限定することが可否か、というのが単複問題の実体でありました。
 

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2007年03月23日

築地魚河岸昔がたり(63) 卸売人の単複問題

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完成したけれど借り手のつかない市場。業者は真ん中のバラックで営業を続ける
 
 
話が少しさかのぼりますが、中央卸売市場法(以下市場法)が
大正十二年に制定されたことは大変に画期的なできごとでございました。
市場法は大正七年の米騒動が直接のきっかけとなって生まれた物価対策で、
国民生活の根本である生鮮食品の流通機構を改善し、
物価騰貴を抑制することを目的としたことは、前に申し上げました。
しかし、市場法が魚河岸業者の命運を決するほどのものでありながら、
制定直後に関東大震災が起こり、なしくずしに築地移転となったため、
その重大性に気づく者は少なかったのでございます。
 

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2007年03月15日

築地魚河岸昔がたり(62) 不買争議(その六)

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       築地鉄骨大会(昭和7年)
 
魚河岸が激しく揺れた不買争議も調停者白紙委任ということで
佃政氏らお預かりとなって漠然と決着するにあたり、
その手打式が銀座「松本楼」の二階でめでたく行なわれることとなりました。
 
 

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2007年03月14日

築地魚河岸昔がたり(61) 不買争議(その五)

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    築地鉄骨祭り(昭和七年)
 
 
不買決行によって買出人の姿は築地市場からすっかり消えてしまいました。
かれらが大挙して向かった先は横浜、大森、北千住の近隣市場。
トラックで、自転車で、徒歩で、目的地を目指します。
川崎では買出トラックの大渋滞で警察隊が出動する騒ぎに、
また、横浜市場では築地市場から来ていた監視隊と買出人連合会が衝突、
大乱闘を演じて負傷者を出すというハプニングも起きます。
 
 

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2007年03月13日

築地魚河岸昔がたり(60) 不買争議(その四)

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      卸売場渡り廊下を作っているところ
 
 
お前のところで買わなくても他があるぞ、と買出人連合会が言えば
そんなら俺らは直に売ってやらあ、と魚市場組合が突っ張る。双方一歩も引きません。
まあ何かと騒動の多い魚河岸ですが、今回の騒ぎは尋常ではない、ということで
あちらこちらから調停役が出てまいります。
まず、青果連合会長の勝浦清太郎氏と青果小売連合会長の大沢常太郎氏が
「まあまあ」と双方をいさめまして、ちょっといいムードになりますと
今度は前文部政務次官の安藤正純氏と前警視総監の宮田光雄氏が間に入り、
「仲良くおやんなさいな」と説得いたしましたところ、
どうにか円満妥協ということに落ちつこうという具合になりました。
 
 

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2007年03月12日

築地魚河岸昔がたり(59) 不買争議(その三)

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        次々と組み上がる鉄骨
 
 
買出人と魚市場組合との確執は水面下で行なわれてはいましたが、
険悪なムードは周囲に満ちておりまして、魚河岸も張りつめた空気につつまれます。
これは治安上何とかせねばならん、ということで、
築地署の清水佐七署長が双方の幹部を招集して、和解を勧告いたします。
このとき同席していたのが魚河岸の顔役、佃政こと金子政吉氏でした。

関八州に鳴らした侠客佃政親分の影響力は少なからぬものがありました。
これまで幾度も魚河岸内のトラブルを解決してきましたから、
「オレにまかせてくれ」と買って出た調停役に魚市場側は心強くしました。
ところが、買出人側は署長と親分に説得に対して威圧感を覚え、
逆に警察と侠客の圧力だと反感を持ってしまいます。
 

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2007年03月06日

築地魚河岸昔がたり(58) 不買争議(その二)

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  業者は争う 行政は市場をつくる(昭和7年)
 
 
買出人団体と魚市場組合との戦いは、
そもそも小売商が魚河岸で不当な扱いを受けていたことに端を発していますが、
買出人団体が六項目の要求を突きつけたときから様相が少しばかり変わってまいります。
とくに第六の要求である奨励金の交付に真の狙いがあることは、はた目にも明らかで、
魚市場組合側としてはこれを飲むわけにはいきません。
なぜなら、買出人の要求通りに歩戻しを行なえば、魚問屋の利益を補うために、
その不足分を生産者である浜方に求めることになってしまうので具合が悪いわけです。
どうして具合が悪いのかというと、これが説明すれば長くなるので何でございますが、
どっちみち、このシリーズはすでに長くなっているので、以下にご説明いたしましょう。
 

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2007年03月05日

築地魚河岸昔がたり(57) 不買争議(その一)

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          嵐が近づく魚河岸
 
 
要求一 通路の整備
  二 販売量目の正確化
  三 魚の着色の取締まり
  四 卸売業者の小売行為の禁止
  五 買出人団体員のみに販売すること
  六 買出人団体員に限り奨励金を交付せよ


“……今さら申し上げるまでもございませんが、
 魚河岸の人たちが私どもとの取引に対してどういう態度を取っているか。
 バカヤロウ、シミッタレ等はまだいいとしても
 呉れてやるから持っていきぁがれ、とか甚だしいのは乞食野郎等々の罵声を浴びせ、
 しかも平然とそれを繰りかえすのだから、問題にも何にもなったものではありません。
 果たしてそれでいいものでしょうか?
 とりあえず六つの希望要件を表面化して要求しましたが、むしろ私どもの真意は
 魚市場の人たちがもう少し時代というものに目覚め、
 私たちをせめて人間並みに取扱ってもらいたいということです……

 私どもは決して魚市場の人々を無能だとは申しません。
 しかし、私たちが遠慮してあからさまに言わないからといって
 私たちの真意を汲み取って下さることの出来ないのは、甚だ心外に堪えません”
 
 

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2007年03月01日

築地魚河岸昔がたり(56) 魚河岸よ、横暴を改めよ

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      築地市場建設工事はじまる(昭和7年7月)
 
 
日本橋以来、魚河岸の問屋仲買は小売の魚屋に対して
ひどく尊大な態度をとることが、なかば日常化しておりました。
ことに棒手振(ぼてふり)の行商人が多かった時代には、
「方角師風情が何をいうか」というような雰囲気に満ちていて
魚屋は問屋仲買から一段低く見られていたようでございます。

魚河岸の連中は魚屋さんに「呉れてやれ」といいます。
本当に呉れてやれば河岸の旦那らしくてカッコいいのですが、
実際には鮮度が落ちたり、品が悪かったりして、
本当は八十銭の価値しかないものを一円で売っておいて、
魚屋さんが店の番頭に値切りの掛け合いにきたのを、
奥から店主がその二十銭分だけを「呉れてやれ!」と怒鳴るわけです。
 

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2007年02月23日

築地魚河岸昔がたり(55) 製氷払下げ問題

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   昭和8年ごろの築地市場。勝鬨橋はまだない。
 
 
今から考えれば不思議なことですが、
魚河岸では昔は氷を絶対に使わなかったそうです。
何でも日本橋時代のお話で、氷を入れた魚はマズイという風評が立っていて、
料理屋などでも氷を使った魚は敬遠されていたといいます。
近海ものは夜風にあてて冷やし翌日売るというのが慣わしで、
アワビなどが真夜中に入荷すると、
小僧さんが朝まで番をしながら水を取り替えたというから大変です。
しかし鮮度と衛生の問題もあり、とくに大正十一年のコレラ騒ぎがきっかけとなって
ようやく氷が普及したのだそうです。
 

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2007年02月15日

築地魚河岸昔がたり(54) 板船事件(その2)

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        魚河岸バクハツ
 
 
昭和三年十一月、昭和天皇即位の祝賀気分に酔いしれる東京市に
突然冷や水を浴びせるかのようにわき起こった板船事件。
魚河岸というところは何だか旧態依然として分からんところだが、
やはりとんでもない伏魔殿だった、と当時の世間に印象づけた大騒動とは
いったいどのようなものだったのでしょうか。
 

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2007年02月07日

築地魚河岸昔がたり(53) 板船事件(その1)

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          巨大ポンプで水を抜く
 
 
日本橋魚市場は実に三百年もの歴史を持っていたが、先年の震災で焼失した。
その際に当局により日本橋での開市を厳禁され、やむを得ず一時芝浦に仮市場を設けた。
しかし同地は適地でなく業者の多くは日本橋にて再開を希望し、一旦開市するも
同じく旧市場にて開市した神田市場はそのまま営業を継続したにもかかわらず
魚河岸のみは官憲の圧迫により阻止され、一方東京市により築地に移転を強要された。
歴史ある市場は我々祖先の努力によって成った東洋に比類なき一大魚市場である。
しかるに罹災者に何ら報いることなく移転を強要されるは忍びない悲惨の極みである。
旧市場には古来、営業権のほかに板船権があり享保十一年以来続くものである。
組合において所有者名簿を備え、売買抵当設定際しては必ず登録し顕らかとしてきた。
震災前における板船権並びに後に生じた平田船権は多額なものとなっていた。
移転強要のために全然喪失、震災による財産焼失とともに甚大な損害となった。
かかる悲惨な情状を御酌量の上、板船、平田の権利その他に対する損害金相当額を
補償されたく、お願いする。
 
 
大正十四年二月、東京市長宛に今津理事長の署名により
このような請願書(かなり要約)が提出されました。
 

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2007年02月06日

築地魚河岸昔がたり(52) 揺れる補償問題

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       市場建設工事着工前の様子
 
時代はそれにふさわしいヒーローを作り上げる、と同時に
時として誰からも必要とされる人物の命脈をも断ってしまうことがございます。
 
 
築地移転が完了して間もなく、これまで組合を牽引してまいりました
池田三治郎理事長、安倍小治郎らが辞職いたします。
これは日本橋の旧市場事務所の売却問題にからむものでした。
 
 
そこで十三年二月、新理事長選出をめぐる組合選挙が行われます。
かねてより組合員の信望を集めていた小網源太郎が
投票八百票中、七百四十六票という空前の支持により理事長に当選しました。
小網はさっそく組合の規約改正を行い、
組合の結束を強め、その発言力を増すべく尽力します。
 

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2007年01月26日

築地魚河岸昔がたり(51) 使用料なら払わない

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              大正12年開場当時の場内図
 
大正十二年十一月一日午前十時、
軍楽隊のブンチャカ鳴るなか、盛大に築地新市場への入場パレードが行われました。
世界に名だたる築地市場の、これが誕生の瞬間、とあいなるわけでございますが、
鳴り物入りの華やかさはここまでで、
裏ではさまざまに複雑な問題をはらんでのスタートを余儀なくされたのでございます。
 

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2007年01月25日

築地魚河岸昔がたり(50) 嵐の金曜日

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            明治期の築地
 
 
「皆どうしているだろう。あれからどうなったろうか」
 
 
小網源太郎は眼前に広がる海原を見つめながら何度もつぶやきました。
かれは一路日本へと向かう客船熱田丸の船上の人でした。
各国市場視察の旅にでた小網は、北米をひと回りした後、フランスへ渡ります。
そして九月二日、パリで東京の大震災を知り、一時は帰朝を繰り上げようとします。
しかし、外国市場の視察はまたとない機会と思い直し、家族の安否を確認すると、
あれからマルセーユ、ニース、ローマ、ナポリ、ベニス、ミラノ、ロンドンと、
さらにヨーロッパ各国の市場をつぶさに見て回り、
十月、英国リバプール、アルバートドックを出港、帰路につきました。
 

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2007年01月23日

築地魚河岸昔がたり(49) 築地開場までの動き

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  築地市場が建つ前の海軍技術研究所
 
 
芝浦での仮営業は、とりあえず商売ができるならば、というものでしたが、
営業三ヶ月目ともなれば、こんな屋根もない場所で冬を越すのかと、
業者たちの間にも不安が広がってまいりました。
 

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2007年01月22日

築地魚河岸昔がたり(48) ちょうどいい、潰してしまえ

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            芝浦市場の荷揚げ風景
 
 
芝浦の仮設市場で商売をはじめたのは主に移転派の問屋たちだったのですが、
一方の非移転派は、長年住み慣れた日本橋を捨てる気はさらさらありません。
地主であり家主でもあるかれらは、焼け跡に戻って家を建てることは自由です。
だから、焼けても日本橋でまた商売を始められる、そう考えていました。
 

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2007年01月19日

築地魚河岸昔がたり(47)芝浦に臨時市場

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   芝浦二号地につくられた仮設市場
 
 
九月四日、安倍ら魚市場組合幹部は水産局の村上局長から呼び出しを受けます。
 
 
「いったい君たちは何をしているのだ。魚市場の開市が遅れるということは
 市民の保全にかかわることだ。ぐずぐずしているなら、
自分は横っ腹に風穴が開くの覚悟で、生産者に魚市場を開かせるつもりだ。
すでに二日、海軍省の無線電信で各地の大漁業者に至急荷をおくるよう
命じておいたが、そのうちには既に発送されているものもある」
 
 
村上のまるで鉄火な剣幕に驚いた一同は
さっそく東京市へ駈け込むと、田島勝太郎助役を訪ねます。
市場開設のための土地を懇請すると、
田島助役はすぐに山本権兵衛首相に陳情してくれまして、
築地の海軍技術研究所跡なら使っても良い、との口約束を取りました。
しかし、目下の営業場所を何とか探さなければなりません。
田島助役は、適当な場所があれば便宜を図るから、
すみやかに臨時市場を開くように、といいます。
 

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2007年01月18日

築地魚河岸昔がたり(46)焦土からの出発

こうして江戸以来300年の歴史ある日本橋魚河岸は、
大自然の猛威の前に、その姿を消したのでございます。
あれから舞台は築地へと移りまして、
この続き物も“築地編”ということにあいなります。
 
 
“世界のツキジ”と呼ばれる巨大市場に成長していく過程は、
しかし、なまなか一筋縄ではまいりませんでした。
ことに中央卸売市場として機能するまでの約15年間、
築地市場は陣痛の苦しみにも似た苦闘の日々を送ることとなります。
 

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2007年01月15日

築地魚河岸昔がたり(45)日本橋魚河岸最後の日

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大正十二年九月一日、午前十一時五十八分
関東地方を突如襲ったマグニチュード7.9の巨大地震は
その人的・物的被害の甚大さもさることながら、
日本の歴史を大きく変えていく、まさに号砲ともなりました。
戦争と平和の時代であった昭和史は
事実上、関東大震災からはじまるといわれます。
こと庶民生活においても、震災をきっかっけとして
江戸以来の旧い東京は消えてゆくのでございました。
その最たるものが日本橋魚河岸です。
 

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2007年01月09日

築地魚河岸昔がたり(44)戦いに疲れはて

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       小網源太郎氏 ロンドンよりの私信
 
 
大正六年から七年にかけて、第一次大戦後の好景気による投資ブームがまきおこりました。
とくにヒートアップしたのが漁業投資でございまして、
いっぺんに二百を越す水産会社が世に現れたと申します。
もっともその後は企業集中、今いうところのM&Aが進められ、
大正十二年には三十数社にまで統合されていきますが、
とりわけ、林兼、共同漁業(のちの日本水産)、日魯漁業の三大漁業会社が
その経済基盤を強固なものといたしました。
 

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2006年12月04日

築地魚河岸昔がたり(43)米騒動と中央卸売市場

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春斉年昌「日本橋魚がし天皇祭団扇投之図」(部分)より
 
 
デモクラシーという言葉は平たくいえば“民主主義”なのでございますが、
その頃は天皇制ですから、主権は“民”と言ってしまうと、これがうまくない。
そこで“民本主義”なんぞと苦し紛れの解釈となりました。
ここらへんにこの時代の民衆運動の限界があるという人もおりますが、
それでも民衆の力によって内閣も倒れる、政治も変わるというのは
歴史上始まっていらいのことでございまして、
時代をゆり動かす大きな高まりを見せたのでございます。
 

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2006年11月20日

築地魚河岸昔がたり(42) 大正デモクラシー

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        時代は変わっても魚河岸は変わらず
 
 
移転問題をめぐって、すったもんだと内輪もめを繰りかえす魚河岸。
しかし、その間に日本の漁業は大きく転換していました。
長年続いてきた沿岸漁業から遠洋漁業へと、
世界の漁場への進出がめざましくなってまいります。
この時、日本の漁業の近代化を推し進めたのは、
銀行や企業などの、水産業とは直接関係の無い商業資本でした。
 

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2006年10月24日

築地魚河岸昔がたり(41) 「財閥派」と「小僧あがり」

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      大正9年魚河岸水神大祭 鮪の山車
 
 
魚河岸の移転問題は、非移転派と移転派の根強い対立が続いていました。

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2006年10月05日

築地魚河岸昔がたり(40)移転か存続か? 揺れる魚河岸

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魚河岸のような非衛生的で道路混雑の原因が
東京の真ん中にあるのはまかりならん!
 
 
何かと避難の的となった魚河岸に、明治二十五年移転命令が下されます。
しかし、何しろ江戸以来三百年の歴史を背負う日本橋魚河岸を
移転させるのは容易なことではございません。
具体的な計画も立たないまま、いたずらに時間を浪費することとなりますが、
その間にも魚河岸内部では非移転派と移転派が対立するという事態にあいなりました。
 
 
魚河岸を真っ二つに割った移転問題、
その背景にはどのようなものがあったでしょうか。
 

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2006年09月25日

築地魚河岸昔がたり(39)コレラ騒ぎと移転命令

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今からは想像もできないことでございますが、
明治の東京人にとって夏は「コレラの恐怖」の季節でございました。
毎年暑くなる時分には誰もがなま水を敬遠し、生食を控え、
そして決まって魚河岸の悪口を言い合いました。
 
 
「一体何だってあんな不潔なものがこの帝都にあるんだ」
 

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2006年09月08日

築地魚河岸昔がたり(38)新興勢力台頭

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江戸時代に魚河岸はお魚上納という重要な役目を果たすために
幕府によって保護されておりました。
その流通形態も固く守られておりまして、
各問屋には自分の持浦があり、浜方から自動的に魚が送られてくる。
その持浦を問屋同士が互いに犯さないという不文律があり、
有力な問屋に浜方が従属する形が長く続いていたわけでございます。
 

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2006年08月21日

築地魚河岸昔がたり(37)窟に閉じ込められる

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     明治初年の魚河岸風景
 
 
時は文明開化の世でございます。
何しろ、西欧文明は偉い! 凄い! ということにあいなりまして、
一日も早く外国に追いつくことをスローガンに無闇に突っ走っていくのが
明治の御代ということになっております。

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2006年08月10日

築地魚河岸昔がたり(36)さびれる魚河岸

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   ダメだ 今日も売れねえ
 
 
元号は明治となり、江戸は東亰と改められます。
 
“上からは「明治」だなどというけれど、「治まるめい」と下からは読む”
 
などという狂歌は、当時の混乱した世相をよくあらわしております。
 

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2006年07月20日

築地魚河岸昔がたり(35)お江戸魚河岸の最後ッ屁

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魚河岸は幕府の御膳賄いとして納魚の義務を負ってまいりましたが、
それも終わるときがまいりました。
慶応四年(1868)二月、将軍慶喜公が江戸城を出て上野寛永寺に謹慎いたしますと、
最早、お魚を納めるべき相手もいない、ということに相成りまして、
魚河岸とは丁々発止の確執を続けた悪名高き魚役所も
六月二十五日をもって廃止されます。
 
 

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2006年07月10日

築地魚河岸昔がたり(34) 何だ、つまらねえ

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「……やめ? やめだと?」
「やめってそりァ、どういうことでい?」
 
 
この日 二月の十四日 勝海舟は高輪に
官軍参謀 西郷の吉之助をば訪のうて
膝詰め談判 二日間 男と男が腹を割り
江戸城無血の明け渡し 一身かけての約束を
まことをもって取り交わす
これによりて江戸市中 戦火にまみゆることもなく
政権交代 平和裡に 行われたでございます
 

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2006年07月03日

築地魚河岸昔がたり(33)いざ出陣!

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さてもそうこうするうちに
ついに西郷吉之助 大将とする官軍が
品川あたりに迫っているぞと 町方筋の急報に
一気に色めき立ちまする

さそくに太鼓打ち鳴らし いざ出陣のトキの声
飛び出しましたる防衛軍
威勢ばかりは立派だが いくさ装束見てみれば
サシコ半纏 股引きに
草履ばきやら 地下足袋と
頭に巻いた手ぬぐいに染め抜いたるは魚河岸の文字
獲物といえば包丁と 手かぎ 鳶口 商売道具
どこを見ても軍隊と いうより田舎の小芝居の
一座の門出と相成りました

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2006年06月19日

築地魚河岸昔がたり(32)江戸防衛軍の誓い

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どうした運命のいたずらか
魚河岸は官軍の江戸総攻撃に備えての防衛軍の役を
買って出ることにあいなりました。
数万の幕府軍を打ち破った官軍に対し、
町人が立ち向かうなど、まるで自殺行為にも等しきもの。
しかし、いったん火のついた魚河岸連中を
止めることなど、誰にもできやいたしません。
 

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2006年06月09日

築地魚河岸昔がたり(31)河岸の気風をみせようじゃねえか!

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  突然のお達しにとまどう魚河岸衆
 
 
魚河岸 問屋・仲買の すべての顔が集って
評議をはじめてみたものの
武兵衛(たけべえ)からの報告を きいたとたんに一同は
水を打った静けさに 黙りこくるは思案顔

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2006年06月01日

築地魚河岸昔がたり(30) 風雲急を告げる

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時は幕末 動乱の 風雲急を告げまする
慶応四年正月に 火ぶたを切ります号砲は
会津・桑名を主力とたのむ 一万五千の幕府軍
鳥羽の伏見で敗れ去り 時代の転換余儀なくされた
その鉄槌ともなりました

勝てば官軍 負ければ賊軍 薩長掲げる 錦の御旗
抗うことの 出来ぬ恐怖が 
幕軍をして敗走を させたものでございます

それでも江戸には徳川の 望みをつなぐ八万旗 
温存されておりまする
これが動けば起死回生の 戦(いくさ)ができると思いきや
三百年もの太平に 慣れてしまった武士たちに
戦意乏しく 団結力も 持ち合わせない体たらく

なかには江戸を後にして 逐電するは卑怯者
尻をまくってハイ左様なら
ここに幕府は存亡の 危急の事態を露呈して
上を下への大騒ぎ……
 

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2006年05月26日

築地魚河岸昔がたり(29)富士を三井の大かがり

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  魚河岸が三井呉服店にあてた起証文
 
 
文久3年(1863)11月23日、
駿河町は三井呉服店、現在の三越デパートより出火、
折からの西風にあおられまして、五千坪を焼きつくす大火災となりました。
これによって魚河岸もまた全焼の憂き目に遭うのでございます。
 
この火事、昼餉の支度をしておりました
同店のカマドより出火したものといわれますが、
その頃世間を騒がせておりました攘夷浪士による放火ではないかと噂されました。
 
 “糸会所取立所、三井八郎右衛門、糸類高騰之罪不届也
  若是正無クバ 天火ヲ以テ焼立申ス可ク”
 
などという張り紙が火災に先立って店前に張られていたともいわれています。。
これが世に言う天誅組張紙事件。当時、豪商がよく狙われたといいますな。
 
さてもこれで黙っていないのが、魚河岸連中でございます。
お前のところがだらしないから、浪士なんぞに狙われるのだ、
と三井相手に談じ込みます。
 

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2006年05月19日

築地魚河岸昔がたり(28)黒船来航

嘉永六年(1853)六月、ペリーひきいるアメリカの軍艦四隻が浦賀に来航。
武力をかさに開国を求めてまいりました。
十二代将軍の家慶は、突然の報にびっくりして熱を出して寝込み、
十六日目に死んでしまったのですから、これは大変です。
 
 
    fukuchan.GIF
     太変ですか

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2006年05月16日

築地魚河岸昔がたり(27) 灯の消えた魚河岸

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        朝売りの様子


「朝千両の商い」といわれ、魚河岸は吉原、芝居町と共に
江戸を代表する繁昌を誇ってまいりました。
しかし、江戸が終わりに近づくにしたがって、やや元気をなくしてまいります。
どことなく暗雲がただよってきました。
 
 

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2006年05月15日

築地魚河岸昔がたり(26)建継事件顛末

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   大変なことになった魚河岸
 
  
このままでは魚河岸に安泰の日は来ない。
西宮利八を先頭とする男気を絵にかいたような五人の若者は、
それぞれ大包丁を手に建継所に殴り込みました。

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2006年05月11日

築地魚河岸昔がたり(25)建継事件

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       江戸っ子気質
 
 
過酷な納魚にたまりかねた魚河岸が、
相互扶助のためにつくった「建継所(たてつぎじょ)」でしたが、
これがよけいに魚河岸を苦しめることとなりました。
それというのも、その運営にあたる行事連中が
次第に横暴な態度に出てまいったからでございます。

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2006年04月26日

築地魚河岸昔がたり(24) 役人の横暴

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       御納屋役人
 

御城の御膳のお魚を、毎日確実に確保するために、
幕府は御納屋役所(おなややくしょ)を設けて、
しぶる魚河岸から魚を取り上げていったのでございます。
 
 
 

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2006年04月25日

築地魚河岸昔がたり(23) 納魚に苦しむ

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   次第に抜け荷が横行してくる
 
 
日本橋魚河岸は創業以来、幕府納魚の義務を負ってまいりました。

納魚の買上げ価格は時価の一割以下というお話にもならないもので、
損失も大きかったのですが、幕府も折りにふれて
助成地や助成金を出すとかして魚河岸を保護してまいりましたし、
魚河岸としても幕府の御用達ということを誇りに思っておりました。

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2006年04月21日

築地魚河岸昔がたり(22) 魚河岸歳時記・秋冬

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七月の七夕祭は非常に盛んでございまして、
お決まりの短冊の他に、紙でこしらえた鯛に平目に鰹などをぶらぶらと吊る様は、
魚河岸一面の空にさながら魚の群がり浮かぶ如くでござります。
しかし、この月は盆の精霊月といわれて売れ口悪く、
河岸の盤台も干上がるというありさまでした。

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2006年04月20日

築地魚河岸昔がたり(21) 魚河岸歳時記・春夏

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アタクシの敬愛する岡本綺堂先生に「魚河岸の一年」(明治三十六年)
という文章がございまして、日本橋魚河岸の威勢の良さを見事に描写されております。
少し長いため、ここに全文をご紹介はできませんが、
本日はこの名文をもとに、魚河岸の一年間をかけ足で見てみたいと思います。

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2006年04月18日

築地魚河岸昔がたり(20) 鮮魚街道のガラッパ

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     文中とまったく関係ない河岸の風景
 

人口百万をこえる大都市江戸の膨大な消費に応じるために、日本橋魚河岸には毎日全国各地から産物が押送船で送られてまいります。

なかでも房総地方は江戸の台所といわれ、魚介類の豊富な供給地でございました。

その内、銚子沖で獲れる魚は、房総半島を南回りで江戸湊に運んでいたのでは、あまりに遠く、海難事故の恐れもありますので、利根川・江戸川水運を利用するという特殊な方法がとられておりました。

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2006年04月17日

築地魚河岸昔がたり(19) 魚河岸の「助六」

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         魚河岸の引き幕
 
 
江戸っ子は判官贔屓と申しまして、仇討とか忠君のお話が大好きですな。

この判官とは、もちろん源義経のことでございまして、
兄頼朝に追われて悲劇的な最後を遂げた人気者でございます。
同じように頼朝にヒドイ目に遭わされた曽我兄弟も江戸っ子好みで、
とくに弟の五郎は多くの芝居の主人公となりました。

なかでもこの伝説の人気者曽我五郎に
大坂の「千日寺心中」という竹本義太夫をとり込んでつくった「助六」は、
まったく江戸前の芝居になりました。

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2006年04月14日

築地魚河岸昔がたり(18) 魚河岸の景気

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         日本橋の賑わい
 

“世界の築地”などといわれ、膨大な取引高を誇る東京築地市場。
これほどの水産基幹市場は世界的にも類がございません。
先日はトム・ハンクスも見学に来るなど、外国人の注目度も高こうございますな。
まこと築地は活気に満ちた土地柄でございますが、
さて、江戸時代の魚河岸も現代の築地に劣らず、たいそうな賑わいを見せておりました。

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2006年04月11日

築地魚河岸昔がたり(17) 初鰹、袷を殺す毒魚

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         鰹売り
 
 
江戸時代には魚の値段は総じて高いものでしたが、とりわけ威勢の良かったのが初鰹ですな。
初鰹の景気というのがいつ頃からはじまったのかと調べてみますと、江戸期のバブルともいえる元禄の頃にはだいぶ高くなり、天明期(1781-1789)にピークを迎えたそうでございます。

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2006年04月04日

築地魚河岸昔がたり(16) 大岡越前魚河岸裁き(後編)

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 「近年、本船町地引河岸麻店前にて、明六つ迄という約束で魚市場仲買が魚売買を始めたが、時間を過ぎても売買を続け、のみならず往来へ荷を出張って道を塞ぎ、耳障りな大声で叫ぶ、暴れるなど不届きな行状、さらに今回の刃傷沙汰に対する訴えにつき吟味いたす」

 大岡越前守はぎろりと仲買人らを睨みつけると、厳しい口調で言いました。

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2006年04月03日

築地魚河岸昔がたり(15)大岡越前魚河岸裁き(前編)

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享保十二年(1727年)四月十二日の朝でございます。
日本橋魚河岸は本船町麻店前でちょっとした騒動が起きました。
かねてより店先を借りている魚市場仲買人と麻店家主との間でトラブルが絶えなかったのが、この日の朝に激しい口論となり、ついに刃傷沙汰にまでおよんでしまったのです。

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2006年03月31日

築地魚河岸昔がたり(14) くさやはないかへ

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「おい、三宅島の荷は着いてねえか」
 
まだ明けやらぬ本船町の河岸揚、先刻から大声で呼ぶのは河岸の俳人、其角でございます。
 
「へえ、どうかあちらの親方に聞いておくんなせえ」

小揚の若い衆にうながされて、しぶしぶ問屋の店内に入ってゆくと、小僧に向かって
「旦那はいるかえ、いねえ? なら番頭でも良い。ちょいと取り継いでくれ」

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2006年03月30日

築地魚河岸昔がたり(13) 魚河岸の洒落者

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杉山杉風と並ぶ芭蕉の代表的門人に寶井其角(たからいきかく)がいます。
かれもまた魚河岸生まれの生っ粋の江戸っ子俳人です。
 

  鐘ひとつ売れぬ日はなし江戸の春
  夕涼みよくぞ男に生まれける
  わが雪と思えばよろし傘の上
  名月や畳の上に松の影
  越後屋にきぬさく音や更衣

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2006年03月17日

築地魚河岸昔がたり(12) 温和な大旦那 杉山杉風

 
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  河岸の旦那
 
 
芭蕉の門下で有名な杉山杉風(すぎやまさんぷう)は、正保四年(1647年)幕府鯉納入御用問屋の長男として生まれました。
ちなみに芭蕉は杉風より三歳長じる正保元年(1644年)の生まれです。

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2006年03月16日

築地魚河岸昔がたり(11) 若き日の芭蕉

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 魚河岸の賑わい(江戸中期)
 
 
「おくのほそ道」で知られる俳人松尾芭蕉は、寛文十二年(1672年)江戸に下りまして、日本橋本小田原町の魚問屋の二階に草鞋を脱ぎました。

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2006年03月08日

築地魚河岸昔がたり(10) 日本橋・佃島・築地(下)

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     初期の魚市場
 
 
現在の築地市場に隣接する旧町名の南小田原町は魚河岸の問屋による、まさに先行投資によってつくられた市街地ではないかと考えることができます。

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2006年03月07日

築地魚河岸昔がたり(9) 日本橋・佃島・築地(中)

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 日本橋際の乙姫さまの像
 
漁業の特権を得た森一族は「白魚漁」を専業として幕府の御膳魚の調達をするようになります。
これには面白い逸話がありまして、江戸近辺に網を引くことを許された当時、ある日のこと雪のように白い小魚が網にかかりました。

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2006年03月06日

築地魚河岸昔がたり(8) 日本橋・佃島・築地(上)

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 広重画・『名所江戸百景 永代橋佃しま』
 

摂津の漁師団である森孫右衛門らが家康と共に江戸に出てきて、江戸向島、のちの佃島を拝領して漁業を営み、幕府に魚を献上した残りを市中に売ったというのが魚河岸のはじまりといわれております。
このとき江戸向島に移り住んだという漁師たちは、同じ森一族でありながら魚河岸をはじめた者たちとは別のグループです。
かれら漁師のその後の消息について魚河岸の正史である『日本橋魚市場沿革紀要』には詳しい記述がありません。
果たして魚河岸とは無関係の道を歩んだのでありましょうか?

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2006年03月02日

築地魚河岸昔がたり(7) 請下(仲買人)の発生

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  江戸時代のセリの様子
 
 
 

お江戸も次第に大きくなってまいりますと、お魚の需要も増大してまいります。
市場全体の売上もまた増えて結構なこととなりますが、何しろ限られた地域に小さな問屋がひしめいているのが魚河岸。
売上は上がってもおいそれと商売の規模を拡大するわけにはまいりませんでした。

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2006年01月17日

築地魚河岸昔がたり(6)魚河岸が産地を独占する

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元和三年(1617年)、魚河岸に新規参入して参りました大和屋助五郎は、
それまでの問屋のやり方とはまったく異なった方法で
鮮魚流通のあたらしいシステムをつくりあげました。
 

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2006年01月11日

築地魚河岸昔がたり(5) 魚河岸のルーツは関西の魚商

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        魚市のはじまり
 
 
森一族が幕府への御肴納入を命ぜられまして、
その残余を日本橋小田原河岸で売買したことから始まったといわれます魚河岸。
しかし、その成立年代については正確な記録はございません。
およそ慶長年間(1596~1614)から元和年間(1615~1623)にかけて、
江戸の誕生発展とともにその陣容を整えていったものと思われます。
 
 
森一族はもともとは漁民でございます。その手法は産地の魚を持ってきて売るという旧来のかたち。
経営規模もあまり大きくはなく、需要の増大には問屋数の拡散をもって対応するものでありました。
しかし、その後に魚河岸に出てくる問屋は、主に関西から来た商人たちであり、
独自の産地を持ち(持浦といいました)、その集荷力を背景にしての商売をします。
後々まで魚問屋の屋号に関西の地名を冠したものが多かったのはこうした理由でございます。
 
 
かれらは当然ながら森一族の流れをくむ佃村や大和田村など摂津の問屋でした。
摂津系問屋は魚河岸の主流をなす存在でありまして、同族同郷による独占状況が続きました。
ところがどうしたことか、まさに摂津系による魚河岸専制が形づくられていく元和二年、
この流れとはまったく別の魚商である大和屋助五郎という者が日本橋に出てまいります。
 
 
かれは大和国桜井の出身で摂津一派とは何のつながりもございません。
そればかりか、その商売の方法も摂津系とは全く違ったものでありまして、
たった一軒の新規参入があたかも水面に投じた小石が波紋を広げるように、
その後の魚問屋のかたちを変えてしまうほどの影響を与えてまいります。

2005年12月12日

築地魚河岸昔がたり(4) 森一族

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 魚河岸の由来書『日本橋魚市場沿革紀要』

 
さて、徳川家康生涯の危機「伊賀越え」に最後まで同行し、
船で伊勢から岡崎まで家康を運んだのが、茶屋四郎次郎(ちゃや しろうじろう)配下である
堺の森孫右衛門(もり まごえもん)およびその一族でありますな。

孫右衛門ら一族は 家康公のご西遊 必ず魚を献上し 海路案内つとめまして
かの大坂の陣にては 海上偵察ぬかりなく 家康公腹心として大なる働き見せました
さても彼らは一介の漁師 なにゆえかように重用されたでありましょう

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2005年12月08日

築地魚河岸昔がたり(3) 伊賀越えの難

魚河岸のはじまり。それは今を去ること4百年余。
お話は、天正十年・西暦1582年6月の2日、世に言う「本能寺の変」から始まります。

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2005年11月25日

築地魚河岸昔がたり(2)魚河岸はいつ誰がつくったか

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天正十八年(1590年)、徳川家康が江戸に入りました。

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2005年11月16日

築地魚河岸昔がたり(1) 魚河岸は日本橋にございました



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皆さんは魚河岸といえば築地市場のことと思われるでしょうが、
その昔は日本橋にあった魚市場をいったのでございます。
三越の真ん前に魚屋の集団がお店を広げていたなど、
今ではまるで想像もつかないお話でしょう。

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