かいこばしでドボン

海幸橋。
地元の人は「かいこばし」って呼んでるよ。
河岸と外界を結ぶところ。ここに立つと河岸にきたぜ、って実感する。
正門よりもこっちから入るのが好きだな。情緒があるってもんだ。
もっとも今じゃあ橋の形もなくなって、下を流れていた築地川も埋め立てられたけど、
どっかに風景の記憶、みたいなもんが残ってる気がするなあ。

海幸橋。
地元の人は「かいこばし」って呼んでるよ。
河岸と外界を結ぶところ。ここに立つと河岸にきたぜ、って実感する。
正門よりもこっちから入るのが好きだな。情緒があるってもんだ。
もっとも今じゃあ橋の形もなくなって、下を流れていた築地川も埋め立てられたけど、
どっかに風景の記憶、みたいなもんが残ってる気がするなあ。

ダァ! ピンマルピンマルニンゴニンゴンガンガンガンゴンゴルーガ
チェキラッチェキラテケレッツノパーッ、ニマル~、ハイ、スズヨ~ウ!
セリって威勢はいいけど何て言ってるんだろうね。
まあ金額を読んでるにはちがいないけど、なかには全然そうは聞こえないセリ人もいるよ。
長いこと河岸にいると、いろんな影響があるんだけどさ、
そのひとつに、やたらに声が大きくなったってのがあるな。
河岸じゃあでかい声は普通なんだけど、日常生活で同じように話していると、
うるせえ! ってよく言われる。

すぐにケンカ
昔むかし、魚河岸がまだ日本橋にあった頃のお話です。
その頃の河岸の人たちの娯楽といえば、何といっても色事。
それから博打に喧嘩ということになりますな。

これまた明治時代の魚河岸のお話でございます。
今はこの世を去られた河岸の伝説的古老からうかがいました、
魚河岸の鮫男の由来でございます。
“魚河岸本”をひとつご紹介しましょう。

颯手達治著 若さま妖怪退治―魚河岸殺人事件―
颯手達治の痛快時代小説“若さま”シリーズの一冊。
魚河岸で働くイケメン“金兄イ”の正体は、二千石の旗本芝田家の若さま。
父君の無実の罪を晴らすため、魚河岸に身をひそめて怪事件の謎解きに挑む。
次々に起こる殺人事件、夜中に現れる“化けもの船”の正体は!?
今回はもう一人の“金さん”こと名奉行遠山金四郎の登場で、
物語は佳境に達するのであった!
というわけで、良き時代の良き大衆小説です。
時代ものはこうでなくちゃ、というツボを押さえていて、さすが颯手センセイ!
一気に読めちゃいます。
魚河岸は舞台設定にちょいと使ってみた、という感じで、
「江戸名所図会」からの引用を用いたりして、
随所に日本橋の描写がちりばめられていて、雰囲気が出てます。
江戸は滅多に殺人事件は起こらなかった平和な町。
でも、最近の陰惨なニュースに慣れてしまったのか、
こんなフィクションの殺人事件の方がずっとノンビリした感じがします。

昨晩、“日本一うまい魚を食べる会”と銘打ち、
まさに今、一番うまい魚を集めて、
それを豪快に食べまくる、という催しが行われました。

今回は、ホームページ『魚河岸野郎』5周年記念ということで企画しまして、
以前に魚河岸講座を受講いただいた皆さんにお越しいただきました。

ホームページを始めて早や5年。
月日の経つのは早いものだ、と過ぎし日々に思いを馳せつつ……
ん? よく数えなおしたら 今年はまだ5周年じゃないじゃん
始めたの2003年じゃん まだ4周年だよー

食事会やってから気がついたよー
来年もトボケて 5周年とかするのー

NTV系連ドラ『魚河岸の石松』第3回目の台本です。
ジェリー藤尾(「遠くに行きたい」がヒットしてた頃?)扮する石松が
毎回大立ち回りをするという活劇魚河岸ドラマで昭和41年放映。
主題歌の歌詞がカッコイイ。
喧嘩上手と 人情のもろさ
足して二で割りゃ 恋になる
軽子十年 築地の河岸で
習い覚えた 啖呵でさえも
なぜか切れない 時もある
作詞:藤田まさと 作曲:春川一夫で、
歌っているのが、魚河岸出身の三波春夫センセイ!!
いちど聴いてみたいな。
どっかに音源ないかなあ。

市場はいつも忙しい
――あの頃はやたら忙しかったねえ
昔を知る古参の市場人は言う。
今でも毎日あわただしい市場だけど、
かつてはこんなものじゃなかったらしい。
昭和3、40年代のお話だ。
河岸ン中は、人もすれ違えないほど混んでたし、
息つくヒマもなくいつも身体を動かしていた。
メシなんて歩きながら喰ったもんだよ。
その頃、場内にはそこいら中にお金が落ちていた。
おかしいよ。札とか落ちていても、誰も拾わねえんだ。
見向きもしねえほど誰もが忙しがってた。
豪快だった頃の魚河岸。
いつも活気があって、お金<人<時間<魚 … (<大金)なんて図式で、
小事にこだわらずにやれた良き時代。
そんな魚河岸を見てみたかったな。
できることならタイムスリップして、その頃に行ってみたい。
それで毎日毎日、お金を拾って過ごしたい。

健さんの日本侠客伝シリーズ第3弾は、関東大震災直後の築地魚河岸が舞台。
組合の(東京魚市場協同組合ってほぼまんまじゃん!)理事長が
やくざを使って河岸を牛耳るという、このシリーズにはありがちな設定ですが、
もちろんこんな史実はないです。
でも、河岸のセットがやけにリアルに昭和初期の築地市場を再現してますな。
小揚の長門裕幸や寿司屋の北島三郎も楽しいし、
船主の丹波哲郎がイイ味出してます。
最後、健さんがマグロ包丁みたいな長ドス振り回して
悪人をズバズバ斬っていくところは
マグロを解体していくみたいで小気味いいです。
九ちゃん主演の青春映画です。
少年鑑別所から脱走した九(坂本九)と良二(浜田光夫)が、
世の中にもまれながら、健気に生きていく姿を描くという、ありがちなドラマですけど、
九ちゃんを世話する少年保護司の芦田伸介はすごい男です。
グレた少年(!)を集めては、かたっぱしから魚河岸に送り込んで更生させちゃいます。
築地市場がそういう施設だということをはじめて知りました。
で、すっかり更生した九ちゃんが、
吉永小百合、浜田満男、高橋秀樹らとGメン75みたいに並んで、
“上を向いて歩こう”を合唱しながら、築地市場をねり歩くといラストシーンは
すごいインパクトがあります。
いま飲食店のある古い建物が、できたばかりでピカピカしていて、
日本が高度成長期へ向かう頃、
魚河岸はまだまだ元気だったんですね。

卸売場はプラットホーム
昔は築地市場に鉄道が走っていました。
汐留駅から貨物の引込線が伸びていたんです。
築地市場の卸売場が大きくカーブしているのは、
鉄道のプラットホームを長く確保するためだったんですね。
魚河岸では昔から大山詣だの富士講だの、行楽をかねての遠出が盛んでしたが、
そんなときには東海道線列車が引込線に乗って、市場まで迎えに来てくれたといいますから、
ずいぶんと豪気なものです。
長年、花形だった鉄道もトラック輸送に道をゆずり、
昭和末に廃止されてしまいました。

撤去中の引込線(昭和61年)
もう20年も前のことですけど、明け方にこの貨物線を見ました。
青果門のところに踏切があって、突然止められたんです。
「ああ、ここが市場なんだ」
面白そうだ、てんで、橋(暗渠になるまえの市場橋)のたもとに車を停めて、
生まれてはじめて魚河岸のなかを歩いてみたんですけど、
殺気立ってて恐いし、何か睨まれるし、連れとはぐれるし、
戻ってみたら3重駐車されていて車出せないし、
散々な目にあって、
もう二度と来たくない場所だと記憶したものです。
それなのに自分こんなにかかわるなんて思ってもいませんでした。
あの日のおぞましき想い出も、今では貴重な体験だったりします。
魚に氷はいけねえよ
氷というものは、明治のはじめに中川嘉兵衛という人の興した
天然氷製造販売がはじめとされます。
後に機械製氷が現れ、氷産業は明治のベンチャービジネスといえるほどの
一大ブームをまきおこすのですが、氷といえば切っても切れないのが魚。
氷のおかげで魚の保存も輸送も可能になりました。
ところが、そんな便利なものなのに、
魚河岸では何十年ものあいだ、決して使おうとはしなかったんです。
なぜかといえば、「氷は魚には良くない」という奇妙な迷信がまかり通っていたから。
当時は魚に氷を使うのはご法度という暗黙の了解があって
魚というものは籠に入れて一晩夜風にあてて冷やし、
翌日売り出すのが常識だったといいます。おかしなものですね。
それで暑いときはどうしていたかというと、
いまの“COREDO”のところにあったかつての「白木屋」、
ここの掘井戸から冷たい水を汲んで冷やすのが最高! だったんだそうです。

明治初年の白木屋
根のつよい見世と大勢水を汲み
そんな川柳ができるほど、
白木屋の堀井戸は日本橋魚河岸になくてはならない存在でした。
ところが大正時代になると、
たいした理由もなく突然に「こりゃ便利だわい」と、こぞって氷を使い出します。
それじゃそれまでの40年間は何だったのよ!
魚河岸では、あたらしいものを取り入れるのに、世間の何倍もの時間がかかったりするんですね。
何も撃たなくてもいいのに。
ロシア警備艇の銃撃で漁船の方が亡くなられました。
悲痛な事件です。
日本の漁業は近代に資源豊富な北洋に向けて発展しましたから、
ロシアとのせめぎ合いは昔からのことですが、
うまいものを食べるにも、実は命がけで獲ってきていることを、あらためて感じました。
良く言えば勇猛果敢、悪く言ったなら無謀な探検家野郎
郡司大尉ひきいる千島開拓団は、無軌道な計画によって51名もの犠牲者を出し、
残るわずか7名の隊員もさいはての占守島で
食料乏しく装備もなく、越冬をじっと耐えるばかりとなりました。

“トロ” というのは 日本橋の老舗『吉野鮨』から生まれたらしい
命名者は三井物産の社員 らしい
大正時代に この店を贔屓にしていたかれらが
好んでマグロの脂のところを注文したそうで
はじめは “段だら”をくれい とか “シモフリ”にぎってよ
なんて注文していたのが もっと気のきいた符丁にしようということで
じゃあ 口の中でとろっと溶けるから“トロ”にしよう と決めたのだそうだ
たぶん それはホントの話 だろうけど
でもそれが どうやって世間に広まったのか
いろんなところで同時に使われだしたのかもしれないし
その時代に生きていないから わからない
定説というのは 確かめようがないようなことをいうのだ
昔は“トロ” は捨てられていた なんて話をきいたことがある
ていうか このホームページに書かれていたりするんだけど
それだって ホントかどうだか
商売もんとしての価値は低かったんだろうけど
あれはうまい 好物だ なんて当時の人が書いているのも読んだ
マグロ屋の大旦那だった古老に話をうかがったけど
“トロ” を捨てたことは 生涯いちどもない ということだ
おもしろいけど ホントはわからない
都市伝説はこんなふうに生まれてくるんだろう


古本屋で見つけた 日本橋魚河岸の絵葉書
おもちゃっぽい着色写真が楽しい のどかな河岸引けの様子
細かく見てみると いろんなものが映っていて 飽きない

何かランドマークとなるものを探してみると
看板らしきものが見えます

何て書いてあるのか さっぱりわからない
でも1時間くらい見ていて気づきました
逆に書かれているんですな これ
“長谷川氷室” が正解!

これで日本橋魚河岸再現地図と合わせてみれば
位置関係がわかります
築地市場の出来る前
江戸時代にこの場所は稲葉対馬守の中屋敷がございました。
その屋敷内には、咳の病を治す爺嫗(じじばば)の石像があって、
咳に悩む参詣者でいつも賑わっていたそうです。
長年病気にかかっていた者が、お参りしたとたんに直った、
これは霊験あらたかだということで、江戸中の評判でした。
長靴というのは、河岸で生まれたそうだ。
ゴム長がなかった時分には革製で、
1足の値段が大卒の初任給の4分の1くらいっていうから、
いまの4,5万円!
た、高え…

だからその頃は、長靴はけるのは店主か番頭クラス。
河岸の若いモンにとっちゃ「いつかはオレも長靴をはいてやるぜ」
というのが、モチベーションだったそうだよ。
昭和のはじめのお話。
むかし、魚河岸に仁丹塔が建っていたと
河岸の古老にお話をうかがった。
実物の分かる資料が見つからなくて、
聞き取りにたよったものだったけれど、
日本橋際に建っていた
電球によるイルミネーションがあった
ヒゲの軍人のデザインがあしらわれていた
らしいことが分かった。
「元祖」の明解市場語辞典にも “じんたんとう” として載せてある。

築地市場は昭和10年に開場して、今年で72年を数える。
器物は百年を経て化けるそうなので、
河岸もずいぶん化け物に近づいてきて、
ただいま「半化け」というところだろう。
給ちゃんの「開店Q業中」にたまに映っている
よく分からない何かがそれかもしれない。
もっとも、建物の中身の方はずっと怪しくて、
妖怪じみた事件は昔っから起こっている。
人間は百年を待たずに化け物になるんだろう。

バカヤロウ! バカというオマエこそバカヤロウ!
魚河岸は今ではすっかりおとなしくなりましたが、
これで昔は大変に気の荒い物騒なところだったんでごぜえますヨ。
昔、と言いましても、日本橋にあった時分ですから、もう八十年も前になりますか。
その頃、河岸の若い衆の娯楽はてえと、博打と喧嘩でございますナ。
ことに喧嘩ときた日には、これがメシよりも好き。
「おう、これからひとつ喧嘩をしに行こうじゃねえか」と、
毎日のように他の町内に繰り込んでは喧嘩の練習に余念がございません。
興がのりますと「今日は神田のやっちゃばへ行こう」、「浅草をやっつけよう」
「吉原へ殴りこもう」などと十人、二十人が群れをなして喧嘩の遠征に出かけます。
河岸引けばかりか、商売の最中も喧嘩に事欠かない
他にはこれといった娯楽もなく、喧嘩だけが楽しみだったようですナ。
そこで白木屋では、こんな気の荒い魚河岸連中向けに
「魚河岸の帯」てえものを売り出しました。
前も合わせられない身巾のせまい単衣ものをはおり、
そこにこの帯をうしろから巻いて前でむすびます、てえと
これが当時の喧嘩装束でございます。
なぜこんなおかしな格好をするかというと、
喧嘩した相手の方が強くて按配が悪くなったとき、
後ろから捕まえられても、パッと帯を解けば、
そのまま素っ裸で逃げ出せるという寸法です。
「誰が手前なんかに捕まるかい!」
このバカヤロウ! と叫びながら、ふんどしスタイルの馬鹿野郎が
日本橋通りを走って逃げる光景がよく見られたそうです。

『江戸はこうして造られた』(ちくま学芸文庫)という
すばらしく江戸を理解することができる本を著された鈴木理生さんが
エッセイのなかで
「市場の仕組みは、いわば、ものの値段をつり上げる場所です」と語られていて、
なるほど、と目からサカナのウロコが落ちる思いがした。
生産者は慈善事業ではないのだから、
築地が少しでも高く買うからこそ生産物が東京に集まってくる。
そもそもセリとは値段を高くするためのものだと。
だから産直がいいよとか、
いっそ現地にでかけて魚を食おうなんて考えても、
本当は東京で普通に出回っているものがいちばんよかったりして、
けっきょく灯台下暗しだったりするわけなんだ。
「小説上杉鷹山」、「黒田如水」などで有名な歴史・ノンフィクション作家の童門冬二氏の
講演会が築地市場で開催されます。
******** ******** ********
テーマ:「歴史から学ぶ」
~市場流通、リサイクル、ボランティア、日本人の心
日時:平成19年4月4日(水)
12:00~13:30
場所:築地市場水産部三階・東京都講堂
主催:築地をきれいにする会
NPO法人・築地魚市場銀鱗会
問合せ:東京都築地市場管理課・磯さん(03-3547-8012)
******** ******** ********
ファンのみならずとも、ぜひ見たいですね。
長えこと築地にいるのにさ、
魚なんかずっと嫌いだったのよ。
もちろん肉もキライだし、野菜だってあんまし好きじゃない。
そばとトウフと森永チョイスビスケットくらいしか、
うまいと思うものはなかった。
ところが、最近にわかに魚好きになっちゃったんだから自分が分からないや。
昨日もよっちゃんの「隠れ家」へ行って
“タイづくし”のご相伴にあずかったんだけど、
「甘みがあるねえ」かなんかのたまわってる自分が変だ。
しかし何だな、
「隠れ家」じゃあ、これでもかってくらいに、
皆して魚をうまくしていて、さながら魚食ラボだねえ。
つくる側も食べる側も気持ちがこもっていて、
すごいと思った。
でも、チョイスビスケットもやっぱうまいと思った。

やっぱしコレ
カジキマグロ
カジキマグロなんてマグロはいないよ。
カジキとマグロは全然別の魚だ。
てな、ことはよく言われるけど、
じゃあ、似ても似つかない魚が何で一緒くたになったかというと、
これが何と、昭和29年のビキニ環礁の水爆実験がきっかけなんだな。
第五福竜丸が死の灰を浴びて、乗組員が被爆してしまった大事件だ。
このとき漁獲物のカジキ類、マグロ類も一緒に放射能に汚染されたんだけど、
大騒ぎしたマスコミが、
「死の灰を浴びたカジキマグロが……」と報道してしまってから、
この通り名が浸透しちゃったそうだ。
ちぇっ、ウンチクだよ。

自分でもうすうす感じていたのだけど、
このブログは魚河岸の歴史探訪なんぞをテーマにしたものなんです。
根が不真面目なので、あまりハードな歴史記述もできず、脱線も多いのですが、
ここで登場する変テコなお話は、あらかた本当のことばかりで、
魚河岸は昔から面白い場所だったと、つくづく思います。
魚河岸の歴史研究、ていうか、面白話の発掘なんですが、
こういう風変わりな作業を応援してくださる人もいたりします。
このあいだ河岸の先達さんに呼ばれて行くと、
「お前さんにこいつをやるよ」と、和とじ本を手渡してくれました。
『日本橋魚市場沿革紀要』
魚河岸に残る史料を年代記風にまとめた、
魚河岸研究のいわば原典というべき本です。
たまに古書市などで復刻版が出回ることがあるけど、
原本揃いぶみなど、なかなか手にできるものじゃございません。
「かようなる稀観本を託されるなど、先達、
それがしをさぞや見込んで下さっての所為とお見受けした。
この御恩、必ずや玉稿にかけて報いとうござりまする……」
「いやいや、そうじゃねえんだ。こないだ蔵書の虫干ししてたらダブって持ってたんだ。
本も処分しなきゃならねえから、オメエに呉れてやるよ」
ということで、遅ればせながら
大切なご本を頂戴いたしましたことを御礼申し上げます。
由緒正しき名著に恥じぬように、
このブログも、もうちっと襟を正して、ちゃんと書いていければ、と思っています。

市場の古今の逸話を集めていますと、
ひょんなことから興味深いお話に出くわします。
魚河岸にちょっとした関係があるので、ネタ帳に記しておくのですが、
『野郎』の歴史アーカイブに載せるでもなく埋もれてしまうものも多くあります。
たまにはそんな内から、ひとつお話しましょう。
夜嵐お絹
といえば、高橋お伝、花井お梅と並ぶ明治三大毒婦としてつとに有名です。
色情の果てに石見銀山で旦那を殺す、というまさに毒殺の定番を確立したお方ですな。
石見銀山なら近頃、目出度く世界遺産に認定されまして、
かつて日本が世界有数の資源国であったことに思い至る次第でありますが、
銀もさることながら、この地名を冠した殺鼠剤「石見銀山ネズミ捕」は
お絹さんの名と共に全国に知れ渡ったのでございます。
古来、毒婦といえばイイ女と相場が決まっておりますようで、
このお絹さんもすこぶるつきの美貌だったそうです。
明治五年に小塚原で処刑され、首を晒されるのですが、
その晒し首がスゲエ綺麗だ、と当時の新聞が書きたてたほどでございます。
本名は原田きぬさんと申しまして、相州は城ヶ島の生まれ。
十六の春に江戸に出てまいりまして、鎌倉小春の名で花柳界デビューいたします。
すると愛らしい容子で江戸中の評判を集めました。
そんなことから、安政三年、下野国三万石の大久保家城主に見初められ、
お絹さんは見事玉の輿に乗るのでございますな。
そして、ほどなく世継を産み落とすのですが、この幸福は長くは続きません。
大切なお殿様が急死してしまいます。
用なしとなったお絹さんはわずかな手切金で大久保家を放逐されちゃうんですね。
一説に愛欲乱交の行状によるとされますが、本当のところ、いかような事情かは知れません。
ただ、維新の混乱の世に女一人、放り出されることとなったのです。
わずかな手切金もすぐに底をつき、困窮の身で頼るは、やはり身代持ちということで、
今度は金平という、名前の通りの金持ちで金貸しの妾として、浅草猿若町に囲われます。
この金平さんというのが、結構なジイサンなのですが、
年齢を感じさせぬ性欲とさまざま趣向を思いつくアイデアを兼ね備えた
スーパーエロジジイだったから大変です。
「うへへえ……おきぬぅ……」と毎晩のことですから、これはたまりません。
でもまあ金はたんまりと呉れるし、我慢しておりましたような次第で。
けれども、毎晩ジジイの相手はまっぴら、たまには若い男と遊びたいハ、
と、お絹さんが思うのも、至極もっともでございます。
それで、猿若町といえば江戸後期より芝居町として栄えまして、
お絹さん好みのイケメン役者がそこいら中を闊歩しておりましたから、
今や浅草セレブのかの女は、金にあかせて男を買い漁るんですな。
金持ちの上に、もともと美貌で名を馳せたほどの女ですから、男どもも放っておきません。
さながら誘蛾灯に誘われる蛾のように我も我もと集まってまいります。
そうして若手役者を大人買いしては片っ端から食べ、そして夜はジジイ。
アラ、妾(アタシ)ってこんなに多情な女だったのかしら、と
自らのアイデンティティに疑問を感じたその時、
お絹さんの眼に一人の若者の姿が映りました。
それが森田座の嵐璃嘴(りかく)という眼元もきりりと涼しい
当世売出し中の超イケメン俳優だったんでございますな。
広い世界にただ一人、何故に貴男がこう可愛い……
すっかり岡惚れしてしまったお絹さん、慣れぬ恋文を認めるもいじらしいじゃござんせんか。
“なかなかにうとからましかば 命にかへてあひみてましと、なげき待たれし夕ぐれは
秋風のみおとづれ、つらかりし鳥の音をひとり寝の床に待ちあかし
枕の上のちりを、幾夜つもりぬとかぞへ……云々”
ところがここでイケメンの璃嘴さんの方も、実は密かにこのお絹さんに
一方ならぬ恋慕を抱いておったというのですから、うまくできたお話。
すぐにふたりは恋仲となり、密通を重ねることになります。
「ああ、妾は囲われ者、世間に顔向けの出来ない日陰者。
けれどもお前の前では生娘(むすめ)のまま。
この身はジジイのものなれど、心は璃嘴さん、お前のものよ。」
「お・お・お絹、俺ぁ、アンタを離さないぜえ……」
とまあ、道なき恋の逢瀬を重ねる心持が、二人を熱く燃え上がらせるのでございますな。
しかし、そうは申しましても、不義密通は所詮結ばれぬ運命。
お前と添い遂げたい、と思えどもままならぬものでございます。
「いっそ、あのジジイをひと思いに始末してしまおうか……」
感情の高ぶりにまかせて、ふと口をついて出た自分の言葉に、
お絹さんは慄然とする思いがしました。

「そいつあ、いくら何でも滅法界な話じゃねえか。」
「まったくだよ。いっそいめいめしいったらありゃしない。」
密かな逢瀬を重ねて想いをつのらせるお絹さんと璃嘴(りかく)。
しかし、そこに横恋慕いたしますのが、旦那の金平ジイサンでございます。
近頃、何かと世間の口に上る二人の間柄を放っておきゃあしません。
「なあ、お絹。役者買いは構わねえさ。たまには若えもんと遊ぶのも良い気散じにもなるってもんだ。だがな、お前、ここんとこ森田屋に随分と入れ込んでいるそうじゃないか。ええ。まさか本気じゃあるまい。忘れちゃならねえのはな、所詮お前は儂の持ち物だってことだ」
金平ジイサンは女中のお駒に言いつけて、お絹を家から出さないようにします。
自由のきかなくなった二人、それでも監視の目を盗んで璃嘴と逢ったお絹は言います。
「妾(アタシ)は決めましたヨ。いっそ旦那を……」
きっと見つめ合い、無言のうちに二人はすっかり覚悟を決めます。
璃嘴がお絹さんに、そっと渡した石見銀山。
うどん粉様の白い粉末をお茶に混ぜ、ひと泡立ったところを旦那に差し出しました。
時に明治四年正月十二日
「お、すまねえな。お前も近頃すっかり落ちついたな。
そういう料簡なら今晩もお前を可愛がってやろうというものよ……うぐっ!
ぐぶぶぶ……お絹! 手前、いってえ何ぃ入れやがった……」
途端に七転八倒に苦しみだすと、ほどなく金平ジイサンは力尽きたのでございます。
これで邪魔者は消えた。
さあこれから手に手を取って東京を逐電し、どこか遠い土地で暮らそうと
お絹さんと璃嘴は恋の道行をもくろみますが、しかしそれも果敢なき夢と消えます。
浅草屯所からかけつけた羅卒らに取り押さえられて、あえなく御用に。
犯行の一部始終を見ていた女中のお駒の通報によって悪事が露見したのでございます。
五月末、捕われたお絹さんは殺害を自白、罪状に服します。
「東京府士族小林金平妾ニテ浅草駒形町四番借店 原田キヌ 歳二十九
此者、妾ノ身分ニテ嵐璃鶴ト密通ノ上、金平ヲ毒殺二及ビ候段、不届至極二付、
浅草二於テ梟首二行フ者ナリ」
梟首というのは晒し首のことです。
不倫は文化とまで言われる現代と違いまして、不義密通は大罪であった明治の世。
いかに女性であろうと、毒殺は重罪をもって断じられたのでございます。
しかし、このときお絹さんはすでに璃嘴の子どもを身ごもっておりました。
そこで出産を待つこととなり、玉のような赤子が産まれ落ちましたが、
お絹さんはわが子の顔を見ることなく、九月二十九日の朝、小伝馬町の牢屋を出まして、
小塚原刑場において、山田浅右衛門の手により斬首されます。
このときにかの女が残した辞世の句“夜嵐のさめて跡無し花の夢”が
世間に伝わり、“夜嵐お絹”として、その名を残すこととなるのでございます。
まあ、この辞世が実際にあったかどうは別にして、
有名な役者と謀って金持ちの旦那を毒殺したのが色っぽい年増だというニュースは
当時をして、たいそうスキャンダラスな事件。
ことにお絹さんへの同情的な世評は後々まで語り継がれ、
その後、演劇や映画の題材として繰り返し扱われることになるのでございます。
一方、情夫の璃嘴はと申しますと、
かれもまたお絹さんとともに縄目を受けるのですが、
こちらは旦那の殺害を知っていて隠したという咎で二年の刑に服しました。
さて、このお話と魚河岸がどのへんで関係するのかと申しますと、
このあたりでちょっとだけ関係してまいります。
監獄を出所後あてない璃嘴に声をかけ、
「お前さんのような者がこのまま埋もれては惜しい」と
世話を焼いたのが、無類の芝居好きである魚河岸の顔役たち。
かれを九代目市川団十郎のところ預けることとします。
この辺り、団十郎と魚河岸との密接な関係を示すものでありますな。
璃嘴は後に市川権十郎を名乗り、見事カムバック。
人気役者として生涯を送ったといいます。

江戸前といえば寿司のこと、かというと
実はそうじゃなくて、鰻のことなんだよ、と
したり顔でウンチクを語ったりする。
江戸時代、鰻ばかりは土地のものじゃなくちゃいけない、
他所から持ってくるものは「旅鰻」といって嫌われた。
だから、「江戸前」というのは、江戸で捕れた鰻を宣伝する、
いわばキャッチコピーとして広まったというわけ。
ところが、そいつをもうちょっと調べてみると、
最初に「江戸前」を名乗ったのは鰻じゃなくて、
どうも鯵らしいということがわかる。
享保二十年(1735)に菊岡沾涼という人の著した地誌『続江戸砂子』に
“江戸前鯵
中ぶくらと云、随一の名産也、江戸前にて漁るを前の魚と称して佳品也”とある。
鰻屋が江戸市中にあらわれるのは、ずっと後の天明の頃(1788-1789)だから、
鰻よりも早くに「江戸前」の称号が鯵に冠せられていたわけだ。
鯵、そして夏、とくれば、お江戸魚河岸の名物に「夕河岸」というのがあった。
魚の売れ口が悪く、傷みやすい夏場は小田原町では難儀だったが、
ただ、この季節には上総方面から小魚が捌ききれないほど、どっと届いた。
そこで、その余りを午後にまとめて売っちまおうというのが「夕河岸」で、
朝市ほどではないが、結構賑わったという。
主役は「鯵」、それから虫の声をきく時分には「鰯」が出回った。
夕方に日本橋の川風に吹かれての魚売。
さぞや清々しいものだったろう。